400.天与のマリアと作り話
応接室はしばらく、水を打ったように静まり返った。
ロマーナ産のガラス製品を所持していた。それだけでは正直、裕福な人間、もしくはかつてそうだったのだろう程度の推測の範囲を出なかったけれど、そこまで身分の高い存在の名前が出て来るとは、メルフィーナも思っていなかった。
ロマーナ帝国は、かつてこの大陸のほぼ全土を支配していた巨大な帝国である。閲覧が可能な資料が殆ど残っておらず、政権が維持できなくなっていくつかの国に分裂し、その名は南側の半島が継承してロマーナ王国になり、現在はさらに政変により共和国へと名前を変えた。
メルフィーナも歴史上、そういう時代があったというその程度の認識しかなかった。
「その方について、詳しく教えてもらえるかしら? 分かる範囲のことで構わないわ」
ロレンツォは思いつめた表情で口を引き結び、膝の上でぎゅっと固く拳を握っている。髭がない分以前より顔色が読みやすく、青ざめているのがよく分かった。
「ロレンツォ?」
「……いえ。ここから話すことは、私のひとり言、作り物の昔話として、聞いていただけますでしょうか」
「僕もここにいる人たちも、暇つぶしに商人を呼び出して、面白おかしい作り話をひとしきり聞いているだけなので、部屋を出た瞬間に忘れてしまいますよ」
ユリウスが軽い口調で言うと、ロレンツォは強張った表情のまま一つ頷き、それから意を決したように下がりかけていた視線を上げた。
「実際、その方についてはロマーナで専門の研究をしている者にとっても謎と推測の多い存在です。多くの歴史的な証拠から存在していたことは確かですが、逸話があまりにも多く、帝国末期まで半ば神格化された存在でしたので」
そうして語り始めたのは、いかにも誇張された――聖女の存在を知らなければ、なるほどプロパガンダとして流布された「物語」だろうと思わせるものだった。
マリア=ジョセフィーヌ・アントワーヌの記録が始まるのは、帝国成立前、大陸がいくつかの小国によって混迷を極めていた時期だったらしい。
「当時、大陸の各地で謎の疫病が発生し、皮肉な話ですが、それで各国は戦争をやめて小康状態にまで落ち着いていたようでした。そんなさなか、突然、天から遣わされた少女がマリア=ジョセフィーヌ・アントワーヌだったそうです。彼女は病人を癒し、多くの人が彼女に救いを求め、自然と時の権力者にその存在を求められるようになっていきました」
多くの有力な求婚者の中から彼女が選んだのは、温暖な南の半島に領土を持つ小国の王だったという。彼女に魅了された各地の当時の権力者たちも、彼女の暮らしの安寧のためにお互い手を取り合い、その後は大陸から戦争が自然と消えていったらしい。
「マリア=ジョセフィーヌ・アントワーヌは卓越した知性と慈愛によって、国の基盤を整え、国は栄えて次第に周囲の国を併合し、やがて帝国の成立につながりました。当時猛威を振るっていた疫病は彼女の提案によって行われた治療により収束したそうです。そのほかにも上下水道を整備し過日のロマーナ王国の豊かな基礎を作り上げ、貧者への救済と身分を越えた有能な者への教育と支援、多くの産業の提案とその発展と、次々と新たな施政によって帝国を隆盛へと押し上げました。ロマーナ帝国は繁栄を極め、彼女の夫である皇帝ライモニウス・カストラヌスは、のちにロマーナの大帝と名乗り、マリア=ジョセフィーヌ・アントワーヌを唯一の妃として「天与」の称号を与え、生涯深く慈しんだそうです」
ふと言葉を切り、ロレンツォは苦笑を漏らす。
「おそらく、メルフィーナ様のような方だったのでしょうね。いつの時代も突然、卓越した慧眼を持つ方が不意に現れることがあるのでしょう」
「……彼女は、その後どうなったか伝わっているの?」
「何分はるか昔のことですので、ここからはさらに神格化された物語なのですが、彼女は初代皇帝を看取り、一三〇歳まで生きた後、大陸の、帝国の支配が行き届かない貧しい地域の救済の旅に出た、と記されています。記されたレリーフには、皇帝と出会った頃のままの美しく瑞々しい少女の姿のまま、と記されていました」
「……なるほど、神話らしいわ」
「はい、当時のロマーナはまだ現在のような教会と神殿の説く男神と女神による世界の成り立ちという考えは薄く、天には多くの神々が存在し、人の世界に時々関わっていたという考えがありました。そうした信仰も天与という人物の成り立ちとその後の逸話に大きく影響したのだと思われます」
「ねえ、君、商人君」
ロレンツォの語り口に聞き入っていると、ソファの肘置きに肘を突いてけだるげに体勢を崩しているユリウスが声を掛けた。
「ロマーナ帝国の史実として、二代目、もしくは三代目の皇帝ってどういう感じに伝わっているんだい?」
「それにつきましては、ロマーナの大帝とその妻天与の威光が強すぎて、伝承の中でもかなりぼんやりとしたものです。その後帝国が分裂していく中で何人かの名君、もしくは暗君の伝承はありますが、帝国の成立初期に関してはそれほど目立った逸話はありません」
「そのマリア=ジョセフィーヌの産んだ子が跡を継いだという、確かな伝承はあるのかな?」
「いえ、天与は多くの息子や娘を産んだと伝えられていますが、ロマーナ帝国は現在の王侯にみられるような実子や血縁による継承は必ずしも必須というわけではなく、皇帝は先代の皇帝による指名制だったようです。二代目の皇帝は天与の推薦による軍人の出身でした」
「ふうん。そこまで伝説になるような業績を重ねた女性が、さらにたくさん子供も産んだのに、その中から後継者になる子が一人も現れなかったなんて、なんとも不思議な感じがするね」
「まあ、そういう時代だったといえば、そうなのでしょうね」
ロレンツォは戸惑った様子で言葉を濁し、救いを求めるようにメルフィーナに視線を向けた。
「皇帝がいくつで亡くなったかは分からないけれど、一三〇歳まで生きたなら、天与がその後の執政を行っても不思議ではなかったのではないかしら。短く見積もっても次の皇帝がさらに代替わりするくらいの年月よね?」
「そこは神話混じりですので……私も疑問に思ったことはありませんでした」
ロレンツォにしてみればそこに食いつくのか、ということなのだろう。頷いて、冷めた紅茶に口を付けて乾いた唇を潤す。
突然現れた類まれな存在が力や知識を与えることで栄華をもたらし、そしてどこか現世の人間の手の届かない場所に去っていくというのは、前の世界でも世界中で見られた物語の類型のひとつである。だから、物語として見るだけなら天与がことさら特殊だというわけではないだろう。
――ライモニウス……レイモンドの、古代ロマーナ風の名前よね。
初代フランチェスカ王国の建国にも「マリア」が関わっていて、この話だ。マリア=ジョセフィーヌがどれほど前の人物かは定かではないらしいが、伝えられた長寿性といい、出来過ぎていて、気味が悪くなってくる。
「それにしても、君、随分詳しいんだね。言論統制されている現ロマーナの商人にしては、詳しすぎるくらいじゃないかい?」
「私は祖父の代まで、ロマーナ王国で歴史家を輩出する司書の家柄でした。恥ずかしながら、知識階級というものです。会頭に拾われて現在は商人として身を立てていますが、元老院は旧ロマーナの知識階級に対して非常に苛烈な差別を敷いていますので、今日ここで話したことが外に漏れれば、私だけでなく国にいる弟妹も親族も、遡れるだけの血縁は全て連座として、広場に首を晒すことになるでしょう」
その言葉に息を呑み、そうして、話し始める前にロレンツォがなぜあれほど青ざめていたのか、ようやく理解した。
「ロレンツォ、どうしてそんな……」
最初の問いで、マリア=ジョセフィーヌ・アントワーヌという名など知らないということは容易かったはずだ。知っていると答えれば、どんな人物なのかと尋ねられるのは火を見るよりも明らかなのだから。
けれど、それがロマーナで禁じられた名だと知らなければ、メルフィーナがこの先どこで不用意にその名を口にすることになるかは、分からなかった。
「私は、会頭に大恩があります。会頭に拾っていただけなければ、被差別階級である私も弟妹も、まともに生きることは難しかったでしょう。その会頭が特別な顧客としているメルフィーナ様に無礼を働いたことを、ずっと悔いていました。――わずかでも、その償いをしたかったのだと思います」
「……ユリウス様が言ったように、この部屋で聞いたことは、すべて忘れるわ。誰から聞いたことかも含めて、全部」
ロレンツォが深く頭を下げる。
「ロレンツォ、今日はありがとう。ところで、ロマーナの赤豆の相場についてなのだけれど」
そうして話を変えて、しばらく雑談に興じることになった。
この度拙作がTOブックスさんより書籍化させていただくことになりました。
来年の1/15発売となります。
これも応援して下さった皆さんのお陰です。
いつもありがとうございます。
美麗なイラストは駒田ハチ様が担当して下さいました。
下記は駒田様に描いていただいた、メルフィーナのキャラクターラフです。
本当に細やかに設定をくみ取って下さって、貴族令嬢ながら意外と逞しいメルフィーナをとても素敵に表現して頂きました。
順次マリー、セドリック、アレクシスも公開させていただこうと思います。
コミカライズ企画も進行していますので、こちらも遠からずご報告出来ると思います。
また、書籍発売に際して各種特典のSSも書かせていただきました。
こちらは活動報告にてご報告させていただきます。
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3365031/
お手に取って頂く機会が多ければ、二巻三巻と続くかと思いますので、ご都合がよろしければ応援していただけると嬉しいです。