399.領主と商人の雑談
「お久しぶりね、ロレンツォ」
先に応接室に控えていた商人の名前を呼ぶと、ロレンツォはぎょっとしたように驚きを浮かべたあと、すぐにソファから立ち上がり、頭を垂れて恭しく礼を執った。
「お久しぶりでございます、メルフィーナ様。まさか、覚えていていただいたとは」
「いやだわ、忘れたりしないわよ。おひげを当たったので随分印象が変わったけれど」
以前は顔の下半分をたっぷりとした髭が覆っていて年齢不詳な雰囲気だったけれど、癖が強い灰色の髪はそのままだし、大獅子商会の商人という身分と合わされば誰かはすぐに分かる。
「そちらの方が若々しくて良いと思うわ」
「ありがとうございます。――商人は、その、あまり若く見えると少なからず不利益もありますので、髭を伸ばしていましたが、アントニオに自分が未熟者であると改めて肝に銘じるようにと言われてしまいまして」
「そうなの。厳しい上司なのね」
「いえ、それだけのことをしてしまいましたので。……私が訪れてはメルフィーナ様は不愉快になられるのではないかと思ったのですが、現在エンカー地方で一番職位が高いのが私でしたので、恥を忍んでこうして参上させていただきました」
中々顔を上げようとしないロレンツォの緊張感に全く興味がないらしくユリウスはとっとと応接用のソファの窓際の席に腰を下ろす。その自由な振る舞いに苦笑しながら、メルフィーナも自分の席に着いた。
「そんなに改まらなくてもいいわ。以前のことはその場で反省してもらったし、大獅子商会にはとてもお世話になっているもの。私に遺恨はありません。だからどうぞ、座ってちょうだい」
「そう言って頂けると、感謝の極みでございます」
あくまで慇懃な態度を崩さないロレンツォが席に着いたのを待って、温かい紅茶を傾ける。ロレンツォは同席しているユリウスが気になるらしく、ちらりと視線を向けたものの、すぐに自分が優先する相手はメルフィーナであると定めたらしく、そちらに視線を向けるのを止める。
ロレンツォは公爵家に紹介されたアントニオに代わって、以前はよく領主邸に出入りしていた大獅子商会の商会員である。
まだエンカー地方は今ほど勢いのある領ではなかったけれど、いずれ発展する匂いを嗅ぎつけたらしく、すでに厨房を任されていたエドに銀貨を握らせ、メルフィーナが直接警告をしたことがあった。
貴族家の使用人に商人が物やお金でコネを作ることは大して珍しいことでもない。特に厨房周りは定期的に大きな購入があり、御用商人になる裁量は家令や家政婦長、そして料理人の特権のひとつでもある。
メルフィーナがロレンツォの行いを咎めたのは、厨房を預かっていたエドが未成年であったことが主な理由であり、貴族の住む屋敷でありながらそこまで体制が整っていなかった領主邸が特異な状況ということもあった。
「水に流すと言っても、きっと納得できないでしょうから、今回少し雑談に付き合ってもらえればそれでいいわ」
「は、私でよろしければ、いくらでも」
買い物好きな貴族ならば、思い立った時商人を屋敷に呼びつけるのは普通のことだけれど、領主邸は主のメルフィーナがあまり贅沢に対して興味がないこともあり、これまで大獅子商会は定期的な軟質小麦や植物紙の納品以外は、アントニオが旅先から戻るたびに馬車に珍しい品を積んで訪ねてくることが多かった。
今も彼は会頭であるレイモンドと共に帝国に滞在しているか、年越しが近いので海路を使って本国であるロマーナに戻っている頃だろう。今回出来るだけ見識の広い商人に訪ねて欲しいと依頼して、現れたのがロレンツォである。
「買い物の用でないのに、商人のあなたを呼びつけてしまってごめんなさいね。後で何かしら、メイドたちに買い物の許可をするから許してちょうだい」
「いえ、こうしてお話しさせていただくのも、商人の大切な仕事のひとつですので、なんなりと」
「とりあえず、お茶をどうぞ。――最近は何か変わったことはないかしら。私は貴族らしい社交をしないし、屋敷に籠っていると世間のことに疎くなってしまってね」
「そうですね……。最近ですと、東部での人の動きが一時よりは緩和したようです。冬が来たということもありますが、シュタルトバルト侯爵家が東部からの人口の流出を懸念して動いたとのことで」
「東部の大領主ね」
「はい、現侯爵様は非常に穏やかなお人柄であることで有名なお方ですが、見るに見かねて、という状況であったと思います」
「私も一度だけ、王都でお会いしたことがあるわ。そう、あの方が……」
穏やかというより気弱と表現するのが最も適切だろう。吃音があり、背が高いが猫背でどこかおどおどと周囲に目を走らせている様子は大領主どころか貴族らしさに欠ける、そんな印象の男性だった。
貴族が問題解決のために動いたというのは、騎士団を派遣して制圧したという意味だ。ある程度の暴力や流血も、伴ったかもしれない。
東部は東西に長い領で、北部と僅かに境界が接しているものの、王都を挟んでほぼ正反対の場所に位置しているし、エンカー地方からはさらに遠い土地である。
広大なモルトルの森の向こうにあるルクセン王国のほうが、直線距離にすればずっと近いくらいなのだ。
そんな遠方とはいえ、救いを求めて移動する民衆と貴族の兵がぶつかりあったという話は、胸が痛む。
「神殿や教会も、警告を出したのではないかしら」
「今回は領主の権利の行使ですので、表立って警告ということはなかったようです。救貧の予算が神殿と教会に侯爵家の私財から割かれたという噂もありますが……」
要するに賄賂だが、商人たちの口にそれが上ったということは、その予算を使った貧民に対する食事の配給や、病気や怪我の治療が行われたはずだ。
「出来ればこのまま落ち着いて欲しいものね。大獅子商会も被害に遭ったとレイモンドから聞いているわ」
「会頭は出来る限り、こちらに足繁く通いたい様子ですので、この状況が続くようなら南部の関税を支払うか、かなり大回りになりますが海路を使うことも視野に入れているようです」
「別に珍しい荷がなくても、レイモンドとショウだけで来てくれればいいわ。商人にとって商売以外で動くのは本分ではないのでしょうけれど、少なくとも大半を関税で持っていかれたり食品を全て接収されたりするよりは損害は少ないでしょうし」
「確実にお伝えさせていただきます」
場を温めるための雑談を終えた後、メルフィーナはカップを置いて、さりげない口調で尋ねた。
「ロレンツォ、ロマーナの歴史上の人物で、マリア=ジョセフィーヌ・アントワーヌという名前に聞き覚えはないかしら?」
対するロレンツォははっと息を呑むと、すぐにそれを押し殺す。
「……メルフィーナ様、その、なぜその名をお尋ねになるのか、伺ってもよろしいでしょうか」
知っているなら知っていると答えるだろうし、おそらく聞き覚えがないと言われるのだとばかり思っていたけれど、慎重に尋ねるその声は予想していた反応のどれとも違っていて、やや面食らってしまう。
「最近、少しその名前と関わることがあったの。とはいえ、私が直接というわけではないのだけれど。どこの誰かも分からないのだけれど、ロマーナに関わりがあったことだけは判明している方よ」
「では、その……他意はないと、思ってもよいのでしょうか」
その質問の意味はますます分からない。それが顔に出ていたのだろう、ロレンツォは少しだけ、安堵したような様子を見せた。
「フランチェスカ王国の貴人であるメルフィーナ様にはほとんど影響はないとは思いますが、出来ましたら、その名前は内々に、外ではお出しにならない方が良いと思います。ロマーナでは、その名は口にするだけで元老院による処罰の対象になりますので」
「もしかして、罪人の名前なの?」
目を瞠ると、ロレンツォは静かに首を横に振った。
「いえ、ですが現共和国では、それに等しい扱いを受けています」
そうして重たげな声で、続ける。
「ロマーナ共和国の前身である、旧ロマーナ帝国の皇族の名は、どなたであってもその対象なのです。マリア=ジョセフィーヌ・アントワーヌは、天与の称号を与えられた、初代ロマーナ帝国の帝妃殿下であらせられた方です」
明日はよいご報告が出来そうです。