397.公爵令嬢と家政婦長
奥向きへの門をくぐると、憂鬱な気持ちとは裏腹に暮らし慣れた空気に少し安堵する自分もいた。
公爵家の重く、厳格な空気が好きではないと思っていたけれど、それでも四歳の時から十二年暮らした場所だ。どこに何があり、どうやって回っているのか全て理解しているし、勤めている人間も全て顔見知りである。
――ここは本当に、変わらない。
北部を支配するオルドランド公爵家。その品位と威厳を象徴するのが表向きと呼ばれる行政区であるなら、それを支えているのが奥向きと呼ばれる生活区である。
数多の当主とその妻が、誇りと痛みをもって連綿と維持してきた巨大な家も、今は当主のアレクシスと後継者であるウィリアムを残すばかりだ。
マリーはつい先日、多くの条件を付けて、その家系図に新たに名前を連ねることになった。
もはやアレクシスとマリーとの絆は誰に否定出来るものでもなく、お兄様、マリーと呼ぶことにも抵抗はなくなっていた。実際に彼らと家族として過ごすことが出来れば、公式な立場などどうでもいいと思っていたけれど、結局アレクシスの提案に半ば折れた形だった。
今後、オルドランド家の重要な事業となる製糖事業の権利の一部を持つ公爵令嬢であるマリーが、メルフィーナの傍にいることは、彼女の身分の補強の大きな助けになる。
いずれメルフィーナがアレクシスとの離婚を考えていることは、傍にいれば薄々、感じ取ることは出来た。
おそらくメルフィーナは本意ではないだろう。貴族としての義務を果たすために結婚し、領主としての義務を果たすために離婚する。割り切りたくないことでも割り切らねばならない時がある。メルフィーナはそう思っている。
現在、メルフィーナの安全と権利が守られているのはアレクシスの正妻の身分も大いに関係している。公爵家正室と小領地の領主では、周囲の扱いも向けられる態度もまるで違うものだ。
メルフィーナはそれを見据えてエンカー地方の政治体制を自分と切り離した形に整えつつあるけれど、エンカー地方は今や豊かな土地を通り越し、流行の最先端となりつつある。オルドランド家との縁が切れれば、クロフォード侯爵家との軋轢とはまた別の問題が起きるのは明らかだった。
――いずれ、公爵令嬢という立場がその助けになる。
アレクシスはことさら、マリーと兄妹関係が上手く行っているという態度を隠さない。
ウィリアムも以前に比べて距離が近くなって、人前ではマリーを「叔母様」と呼び、慕っている素振りをより深く行うようになった。
幼い彼なりに、いずれくる変化を敏感に感じ取っているのだろう。
今、自分は幸せだ。エンカー地方に行ってから毎日が驚きの連続だったけれど、ずっとそうだった。
この日々が変わらずに続いて欲しいと願っているし、メルフィーナが貴族の義務のために自分をすり減らすようなことになって欲しくない。
ひとつ憂いが減れば、ひとつ選択肢が増える。自分が傍にいることで、エンカー地方のためにメルフィーナが身を盾にするような行いをしなくて済むなら、それでいい。
最も恐れるのは、政略結婚の道具として扱われる展開だけれど、これに関してはアレクシスから決して結婚を強要しないと約束されている。アレクシスは人の感情に鈍感な部分もあるけれど、決して約束を違えない人であり、その点は信用している。
前代未聞の領主業をする公爵夫人に引き続き、秘書業に従事している公爵令嬢が誕生したからといって、マリーにとっては些末なことだ。
――心から、そう思っているのに。
それでも、厳格な公爵家の奥向きの空気に、背筋が伸びる。
ここはまさに貴族の義務で構築された場所だ。多くの公爵夫人たちが支え続けた……ひときわ、先代公爵夫人であるメリージェーンの気配が濃い場所だ。
冬の遠征直前ということもあり、表向きはざわめきがいつもより激しい反面、奥向きは水を打ったように打ち沈んだ空気だった。
遠征では毎回大きな犠牲を強いられる。出て行った騎士や兵士が無事に戻ってくる保証はどこにもなく、生き残っても大きな負傷を抱えていることも珍しくない。そうした不安を押し殺し、無理矢理静けさを保っている。
表向きと奥向きをつなぐ門をくぐってしばらく進むと、中庭を眺望できる回廊が見えて来る。そこに懐かしくも安心できる顔が待っていてくれた。
「マリー様、おかえりなさいませ」
恭しく頭を下げられて、ちくり、と胸が痛む。
家令のルーファスが公私ともにアレクシスを支える存在であるなら、家政婦長であるヒルデガルトは奥向きを統括している。四歳のマリーを実質乳母代わりに育ててくれたのも彼女だった。
癇癪持ちで手が付けられなかったマリーに根気よく、どのように振る舞えばいいのかを教えてくれたのも彼女だった。
「家政婦長、どうか今まで通り呼んでください」
「いいえ、マリー様。これはけじめですので」
メリージェーンの時代から、オルドランド家の家政の部分を回してきた彼女もまた、身分に対して厳格な人だ。
アレクシスの提案を受け入れた時から、次に会えば家政婦長と侍女としてではなく、公爵令嬢として接せられるのは想定内だった。
「お兄様には私の振る舞いは私の裁量で好きにしていいと保障されています。家政婦長にまで様付で呼ばれてしまっては居心地が悪いです。それに、今更ではないですか。私の表向きでの扱いは知っているでしょう?」
純然とした身分制で動いているはずの貴族の家の中にあって、マリーの立場はずっと、オルドランド家内ではあやふやなものだった。
特に表向きと奥向きは、これまでも違う建前で動いている。
マリーは公式にはオルドランド家に勤める侍女見習いとして、そして十二歳からは侍女として遇されていた。
メイドたちとは違う扱いではあったけれど、奥向きを統括する家政婦長の部下という立場でマリーと呼ばれていた。
一方表向き……公爵家の男性が中心となって動いている場所ではその身分は暗黙の了解であり、特に私的な場所に近い家令のルーファスやオーギュストにはマリー様、と呼ばれていたし、公爵家の一員らしい扱いを受けていた。
生活の場と公的な場での扱いの差に、どちらの顔をすればいいのか分からず、子供の頃はよく混乱して癇癪を起こしたし、やがて自分の意思など大きな意味はないのだと悟ってからは最も傍にいた人……家政婦長のヒルデのように、冷静で状況に心を動かさない振る舞いをするようになった。
それはおおむね、上手く出来ていたと思う。
――最近は、すっかり緩んできた気がするけど。
本来のマリーはそれほど物静かな気性というわけではない。心にはいつでも刃を持っていたし、必要な時がきたらそれを振るって自分を結びつけるしがらみを断ち切るつもりでいた。
結局それは、最悪の状況で振るうこともなく、メルフィーナと出会ったことで最も良い使い方が出来た気がする。
全てを振り切って捨てることもなく、こうして穏やかに自分を育ててくれたヒルデと会うこともできる。
「本当に、今更ですよ。私の身分にも大きな意味はありません。これまで通りエンカー地方で暮らしますし、ここには時々、報告をしたり荷物を取りにきたりするだけです」
「……戻ってきても、いいのではなくて?」
娘を案じるようなヒルデの言葉に微笑んで、首を横に振る。
公爵家は自分の生きる場所ではない。それは幼い頃からずっと感じていたことだ。
何が起きてもメルフィーナの傍にいる。いずれ兄がそうできなくなる日がきても、彼女を支えて寄り添う。そう決めた。
「今回はお兄様に報告をしたら、私はすぐにエンカー地方に戻りますが、よければ夕飯を一緒にどうですか、家政婦長」
「まあ、けれど今夜は、閣下と夕食なのではなくて?」
ヒルデの口調が和らいだものになったことで、マリーはうっすらと微笑んだ。
「今の時期はまともに夕飯を摂るのも難しいほど忙しいと思いますが……どうでしょうか」
「今の閣下は、どれほど忙しくてもマリーのためなら時間を取ってくださいますよ。それに、すぐに戻ってしまうの? 折角来たのだから、しばらく逗留していけばいいのではないかしら……」
二人で並んで、ゆっくりと進む。団欒室に入ると暖炉に火が入っていて、部屋はとっくに暖められていた。
その心遣いに目もとをそっと緩めながら、首に巻いていた毛糸のマフラーを外そうとして、緩めただけでそのまま肩に掛けておくことにする。
「エンカー地方には住み込みの女性使用人は私一人なので、あまり長く離れたくないのです」
「そうなのね。……あちらでの暮らしは不便ではない? 奥様は、良くしてくださっているようだけれど」
「何も。むしろとても快適ですよ。家政婦長もいつか、来てほしいくらいです」
とはいえ、家政婦長はマリーが領主邸を離れる以上にオルドランド家の奥向きを離れることには抵抗があるだろう。
家を管理する者は、長く家を空けるのを嫌うものだし、特に主が遠征や、時には王都への伺候で年の半分近くを留守にしているオルドランド家ではその向きが強い。
マリーが子供の頃から家政婦長が家を空けたことはなかったし、女主人が不在の今は、なおさらそうだろう。
「そうね、いつかそうしたいわ」
だから、ヒルデがそう答えたのは、マリーにも意外だった。
「私もそう遠からず引退する日が来るでしょうし、そうなったらゆっくり、あなたが愛した場所を見に行こうかしら」
悪戯っぽく言うヒルデは、一度としてマリーが手にすることの出来なかった母親の存在を感じさせる。
「ええ、是非。領主邸の食事はとても美味しいんですよ。夏の収穫前の麦畑が夕日に照らされる様子はとても美しいし、冬の湖は眩いんです。全部、家政婦長にも見てもらいたいです」
変わったこともあれば、変わらないこともある。
今後公式な場では、ヒルデもマリーに深く頭を下げ、明確な身分差のある振る舞いをすることになるだろう。
けれど楽しみだわ、と目もとに皺を寄せて笑う彼女を失ったわけではない。
いつか本当に、そんな日が来ればいいと思う。
家政婦長ではなく彼女の名前を呼んで、自分が愛した場所の素晴らしさをひとつひとつ、手の中に包んだ宝物を見せるように教える、そんな日が。




