396.添い寝とゲームの本
枕をクッション代わりに背中に当ててページをめくっていると、隣で寝息を立てていたマリアがごそごそと身じろぎをした。本を閉じて様子をうかがっていると、むずかるように目をこすり、ぼんやりと天井を見た後、ふとメルフィーナがいたことに気が付いて重たそうに瞬きをする。
「あれ……メルフィーナ?」
「おはようマリア。よく眠れた?」
「うん……あんまり。どうしたの?」
これはどうしてここにいるのかという意味だろう。ずれた毛布を肩まで上げて、ぽんぽん、と毛布に包まれた肩を軽く叩く。
マリアがメルフィーナの寝床に潜り込んでくるのはたまにはあるけれど、逆はこれまでなかったので驚いているようだった。
「久しぶりに添い寝が欲しくなったの。勝手に潜り込んでごめんなさいね」
「それは全然いいけど。……ごめん、私、くさくない?」
もぞもぞと毛布に鼻先まで潜り込むと、言いにくそうに告げる。領主邸に戻ってからのマリアは吐いてばかりで、入浴も出来ていないので気になるらしい。
「全然? それよりおなかは空いていない? 何か持ってきましょうか」
けれどそうしたことを気に出来るのは、そうでないよりずっといい。ちゃんと会話が成立して、自分の状態にも気が回っているのはいいことだ。
「ううん、まだいい。――何見てたの?」
話を変えるように、メルフィーナが手にしている本に目を向ける。
ぶ厚くて重い、羊皮紙で作られた本だ。メルフィーナがエンカー地方に来た初期に持ち込んだもので、赤い革張りの装丁で、見た目は豪華だが中身は白紙だった。
この世界では本は、それほど一般的な物とは言えない。文字は限られた知識階級か商人のためのもので、紙もインクも高級品で、かつ本は全て手書きであるため製作のコストも高く、娯楽のために文字を読むという文化がそもそも発達していないのだ。
「これは日記帳というか、記憶が戻ってから今まで私が覚えていた「ハートの国のマリア」について書いてたものなの。アレクシスと和解してからはほとんど開くこともなくなっていたから、久しぶりに読み返してたの」
記憶を取り戻して以降、メルフィーナの最大の目的は、マリアが降臨した後アレクシスルートに入り、破滅に向かう未来からの脱却だった。
アレクシスと和解をし、離婚について話し合いをした時からあまり用を成さなくなり、マリアと出会って以降はルートは完全に消滅したとして、開くこともなくなったものだ。
「メルフィーナのゲームの知識の覚え書きかあ。見てもいい?」
「どうぞ。ちょこちょこ現状に対しての雑感なんかも書いてあって恥ずかしいけれど、気にしないでちょうだい」
「うん。あ、日本語なんだ」
ごそごそとマリアも体を起こすと、受け取った本のページをめくる。
最初の方は特に、あらゆることに腹を立てていたので少し文字が乱暴になっている気がする。トウモロコシを金貨に換えた時期は我ながら機嫌が良さそうな、調子のいい文章になっていた。
「使っていないと言葉って、忘れていくものなのよね。記憶を取り戻したばかりの時はまだよかったけど、漢字とかどんどんあやふやになっていって、最近のは本当にうろ覚えで書いているから恥ずかしいわ」
こことか、と自分でも間違っているのが分かる個所を指すと、マリアがくすくすと肩を揺らす。
「メルフィーナでもそんなことあるんだ」
「あるわよ。私は案外抜けてるし、優柔不断なんだから」
「私の荷物の中に国語辞典あるから貸そうか? あ、でももう必要ないのか」
「! あるなら是非貸してちょうだい」
マリアが持ち込んだ荷物をねだるような真似ははしたないと思いつつ、思わず身を乗り出してしまう。マリアはそこまで食いつくとは思っていなかったようで少々面食らった様子だった。
「あ、教科書とかもちょっとあるよ。そういうのも要る?」
「是非読みたいわ」
「ちょっと待ってね。そこの櫃に入れてあるから」
そう言うと、ひょいとベッドから下りようとして着地に失敗したらしく、マリアはその場でへなへなとへたり込んでしまった。
「マリア!」
「あ、あれ……」
慌ててメルフィーナも反対側から床に下りると、ベッドを回り込んでマリアに手を貸す。幸い足を痛めたようなこともなく、単に力が入らずに蹲ってしまっただけのようだった。
「ごめん……」
「いいのよ。辞書は後でいいわ」
手を貸して立ち上がらせて、ベッドに座らせる。マリアはこれほど弱っているという自覚がなかったらしく、しょんぼりと肩を落としていた。
「私は非力なんだから、階段で転ばれても支えきれないわよ。段差のあるところは、オーギュストにエスコートしてもらってね」
「うん」
若干気落ちした様子ではあったものの、元のようにベッドに座ると、手持ち無沙汰そうにもう一度本に手を伸ばした。その様子に音を立てず息を吐いて、メルフィーナも元の位置に戻る。
マリアは落ち着いている様子だけれど、まだ一人にするのは心配だ。今夜くらいはこうして添い寝をしていてもいいだろう。
ぱらり、とページをめくる音がする。羊皮紙のそれは、植物紙を束ねたものに比べると音が乾いていて、ややかさついた印象だった。
「すごい。細かく書いてあるんだね」
「当時は必死だったのよ。いきなり破滅予定の悪役令嬢なんかになっちゃって、帰る場所もないし、最初の頃はエンカー地方をある程度発展させたら高く売ってトンズラする気だったんだから」
トンズラという響きが面白かったらしく、マリアはくすくすと笑う。
「今からだと想像もつかないなぁ。出会った時はもう、メルフィーナはすごく立派な領主だったし」
「どうかしら。……時々自信がなくなるのよね。大切なものと天秤にかけた時、私は本当にこの土地を治めるのにふさわしい領主でいられるのかって」
「メルフィーナが?」
「私は案外抜けてて、優柔不断なうえに、楽天的な性格ではないのよ。だからマリアみたいに勢いで走り出せる女の子に憧れるわ」
公爵家を飛び出した時、メルフィーナは燃えるような怒りに背中を押されていた。そして、自分でもその怒りに乗ってしまわなければ行動できないこともまた、分かっていた。
平穏な暮らしがしたい。メルフィーナの望むのはそれだけだし、今はすでに、ほとんど達成できている。さらに安定させることは望んでいるけれど、ことさらに冒険したいとは思っていない。
だから、マリアのように自分の出来ることをやろうとする少女が、やはりヒロインなのだろう。
「私はメルフィーナみたいに落ち着いた感じになりたいけどなあ。今回も考えなしに突っ走って……」
言葉を切り、唇をぎゅっと引き結んで黙り込むマリアの背中を、優しく撫でると、マリアは涙をこらえるように膝を抱いて、背中をきゅっと丸めた。
「ね、ユリウスから聞いた?」
「岩屋のことね。ええ、「鑑定」の結果も見せてもらったわ」
「あれ、あれさ……マリアって、やっぱりそうなのかな」
かすれて震える声。一層細くなった肩が震えていて、呼吸もかすかな喘鳴が混じっている。
マリアの抱く強い不安と緊張と恐怖が、これだけ傍にいると自分のもののように伝わってくる。
「マリア、それについては、まだ何も分かってないわよ」
「えっ?」
だから、応じる声は出来るだけあっさりとしたものにした。
「プルイーナの発生する魔力溜まりの傍に人が住んでいた形跡があって、そこにいたのがマリアだった、それだけよ。マリアっていう名前はこちらでは全然珍しい名前ではないわ。マリーだってマリアの違う読み方だし、メアリーとかメリーだってそう。多分探せばエンカー地方にも十人くらいは「マリア」っていると思うわ」
ぽかんとした様子のマリアに、微笑む。
「人の少ない領主邸にだって、マリアが二人いるって言えないこともない、それくらいありふれた名前なのよ、マリアって」
「でも、あの更新履歴……」
「あれ、なんなのかしらね。更新履歴って私、年齢のことだと思っていたんだけど、もしかして違うのかしら」
「……分からない」
マリアの答えに、ね? と軽く告げる。
「今の時点では、なんにも分かってないのよマリア。そしてそれは、私が記憶を取り戻してからずっとそうだったの。乙女ゲームの世界って言いながらルートから外れたところには恐ろしい現実が広がっていて、そのくせ素人がゲーム通りに農業してみたらゲーム通りに豊作になったりする。攻略対象者たちは案外傷だらけの素顔を持っていて、聖女と悪役令嬢は仲良くなってこんなふうに寝間着でおしゃべりなんかしているのよ。分からないことばかりなの、ずっとね」
「メルフィーナ……」
マリアが今感じている恐怖や不安は、メルフィーナと似て非なるものだ。
破滅の未来を知っていて、運命を変えようとしていた自分と、先行きの見えない未来に向かって進んでいかなければならないマリア。
そして、共通の敵は、この異質な世界そのものだ。
「分からないことがあるなら、考えて知っていけばいいし、別に分からないままでも困らないことはそのままにしておけばいいわよ。マリアが元気になって、明日も笑っていられる以外に大事なことなんて、そんなにたくさんあるわけじゃないわ」
「……うん」
「みんなマリアを心配しているわ」
「うんっ」
頷くマリアの手を握ると、ぎゅっと握り返される。
「私、考える。訳が分かんないしもうヤダって思ってたけど、嫌がってても目が覚めたら日本に戻れるってわけじゃないし……こっちに来て、いいことだってあったから」
「ええ。いつだって応援するわ、マリア」
へへ、と照れくさそうに笑って、会話をして疲れたのか、またとろとろと瞼が落ちる。
睡魔の邪魔をせず横たわらせて、しばらくするとマリアは寝息を立てはじめた。
かつて、燃えるような怒りはメルフィーナに走り出す力をくれた。
マリアは、きっとそれ以外で動くことが出来る子だ。だから元気をつけて、勇気が出せるように、自分は見守っていけばいい。
好きな人のために何かをしてあげたい。そのために危険な荒野まで冒険しに行くことが出来るマリアを、ほんの少し、羨ましいと感じる。
――無い物ねだりをしても、仕方ないわね。
メルフィーナはひ弱な貴族の夫人だ。大冒険したいとは思わないし、そんなものに乗り出せばあっという間に体力の限界がきてマリアとは別の意味で寝込むことも目に見えている。
――その時が来たら、か。
ユリウスの言葉を思い出す。
かつてユリウスの殺して欲しいという願いを聞き届けることを拒み、分不相応な秘密を抱え込んだ身には、痛い言葉だった。
多分、来るのだろう。そう遠からず、決断を迫られる時が。
あどけない寝顔の友人を見下ろして、マリアが可哀想で、つんと鼻の奥が痛くなった。
本当に、この世界はどこまで残酷なのだろう。
同郷の友人に、せめて平穏に、日々の小さな悩みに一喜一憂し、笑って暮らしていて欲しい。そんな願いすら、叶わないかもしれないなんて。
「おやすみなさい、マリア」
声を掛けて、苦いものをぐっと呑みこむ。
せめて悪い夢が彼女を苦しめないように。少しずつ元気になって、また笑うことが出来るように。
今はただ、それを願うばかりだった。