393.安心できる場所と人
ひやり、と額に触れた冷たい感触に、ぼんやりとしていた視界が像を結ぶ。
それまで自分が目を開いていることにも気が付いていなかった。視線をさまよわせると、こちらを覗き込んでいる女性がぱっと目を見開く。
「大丈夫ですか? マリア様」
小さくひそめる声の主は、テレサだ。訳も分からないままこくりと頷くと、額に載せてもらっていた濡らした布がずるりと落ちた。
「テレサ……あれ、私、どうしたんだっけ」
「荒野でショックなことが起きたと聞きました。今、コーネリアさんは騎士様たちとお話をしているので、私が傍に付いていました」
もう一度頷く。視線を巡らせれば、陣の天幕の中に設えられたベッドの上に寝かされていたらしい。
一体いつ戻ったのだろう。オーギュストに声を掛けられ、手を引かれてのたのたと歩いていたのはなんとなく覚えているけれど、そこから先の記憶がない。陣までそれなりの距離があるので、自分の足で歩いて戻れたとは思えなかった。
「マリア様、おなかすいてませんか? スープならストーブで温めてますから、すぐ食べられますけど」
「ん……ごめん、いい。今食べたら、戻しそう」
天幕の外はすでに夜のようだ。昼食はとっくに消化されているはずだけれど、こうして喋っているだけで胃液を吐きそうなほど、気持ちが悪い。
――何があったんだっけ。
荒野の先に、オアシスがあって、それが魔力溜まりになっていて。
「鑑定」で岩山に何かがあると気が付いて、調べに行って、そして。
「うっ……」
ぎゅるっ、と胃が嫌な音を立ててぎゅうっと握りつぶされたように痛む。その痛みに体を丸めて歯を食いしばると、ジワリと涙が浮いた。
「マリア様!?」
痛い、苦しい、気持ち悪い。体が震えて、カチカチと歯が噛み合わない音を立てる。
とても、怖いものを見た。
埋まった穴の中で営まれていた暮らしはひどく孤独なものだっただろう。そして孤独なまま死んで、長い長い間、誰にも見つけてもらえなかった「マリア」がいた。
プルイーナが生まれる魔力溜まりの傍にあった遺体の名前が自分と同じなのを、ただの偶然で片付けていいのだろうか。
そして偶然ではないのだとしたら、それは。
「――うっ」
「マリア様」
こみ上げる吐き気に耐えていると、そっと優しく背中を撫でられて、名前を呼ばれる。
「コーネリ、ア……」
「喋らなくて大丈夫です。マリア様、自分のお腹に「回復」を掛けられますか?」
荒い息を吐きながら視線を向けると、コーネリアは案じるような瞳をしながら、安心させるように微笑んでいた。
「わたしの力だと、お腹の中までは届かないんです。マリア様、落ち着いて、前にわたしにしてくれたのと同じことをするだけです」
コーネリアの言葉はちゃんと聞こえているのに、痛みばかりが生々しくて、何だか遠いところから響いてくるみたいだ。ぼんやりしているのが分かるのだろう、コーネリアがぎゅっと手を握ってくれる。
子供の頃、体調を崩したときに母親が濡れタオルを絞った後、手を握ってくれたのを思い出す。その手はひんやりと冷たくて、熱のあるマリアの手にはとても気持ちよく感じられた。
少しだけ気持ちが落ち着いて、魔力を練る。細かい調整をする余裕はなく、ざわざわと天幕の内側に風が吹き荒れる音がして、それが止む頃には、痛みは和らいでいた。
「も、だいじょうぶ……」
息を吐くと、コーネリアはほっとした様子だった。
「汗をかいているので、少しでも水を飲んだ方がいいです。湯冷ましを持ってくるので、唇を湿らせるだけでも、口を付けてください」
「うん……。コーネリア、私、どうやってここに戻ったの?」
「途中までは歩いていたそうですが、立ち止まって反応しなくなったらしくて、オーギュスト卿が背負ってきましたよ。私たちと合流してから陣に戻るまでは、ずっとそうでした」
「そっか……悪いことしちゃったな」
女子としては平均的な体型だと思うけれど、さすがに羽根のように軽いというわけにはいかない。陣からコーネリアたちと別れるところまでだってかなり歩いたのに、人ひとり背負って進むのは、きっととても大変だっただろう。
「騎士は仕える女性を守るのが誉れですから、申し訳ないと思うより頼もしくて素敵だと言われたほうが嬉しいものですよ。手の甲にキスを許せば、感激されると思います」
「は、はは……」
いつぞやを思い出し、かあ、と頬に熱が集まる。空笑いが出たけれど、笑ったらほんの少し、気持ちが楽になった。
「ありがとう、コーネリア」
「オーギュスト卿が、マリア様が目を覚ましたらお会いしたいと言っていますが、どうしますか?」
きっと、とても心配を掛けてしまっただろう。手にキスはともかく、何キロも自分を背負って歩いてくれた護衛騎士にお礼を言いたいし、労いたい。
「私、今、みっともない顔してない? 髪ぼさぼさだし、なんか、顔もひどいことになってる気がする」
両手で頬を押さえて、揉んでみるとガサガサする。何か痛むなと思っていたけれど、ぼんやりしているうちに泣いていたのだろう、目のあたりが腫れぼったいし、頬も涙焼けしているようだった。
「何も問題はないと思いますけど、気になるようなら顔を拭いて、髪も整えましょうか」
いつもと変わらない、おっとりとしたコーネリアの声を聞くと、安心する。体は起こせますかと聞かれて上体を起こすと、テレサが湯冷ましを入れた木のカップを渡してくれた。
額に載せていた布をお湯で絞ってもらい、顔を拭く間にコーネリアがまとめてあった髪を解いて、櫛を入れてくれる。軽くサイドで結び直してもらってコーネリアとテレサが天幕から出ていくと、しばらくして、オーギュストが入って来た。
厳しい表情をしていたのに、マリアの顔を見るとほっとしたようにそれが和らぐ。その様子を見て、ぐっ、と喉が鳴った。
ありがとう、ごめんね、すごく助かった。オーギュストがいてくれて、本当によかったよ。
いつもならぽんぽんと出て来るそんな言葉が、全部、今胸に渦巻く感情には足りない気がしてしまう。はくはくと声が出ないまま唇を動かして、出口のない感情がポロポロと目からあふれ出した。
「マリア様……」
「っう、っ、オーギュスト……私、わたし帰りたい、領主邸に、メルフィーナのとこに……」
「ええ、夜が明けたらすぐに出発しましょう。必ず無事に、送り届けます」
プルイーナの脅威が北部にとってとても重たいものだというのは、繰り返し聞いていた。それでもオーギュストはマリアが荒野まで行くのを反対したし、今も何を見たのか追及するより先に、迷いなく断言してくれている。
いつも自分を守ろうとしてくれていることが、嬉しい。
「っふ、う、うっ、うん、うん……」
泣いても困らせるだけだ。そう分かっているのに、止まらない。テレサとコーネリアの前では大丈夫だったのに、オーギュストが傍にいるだけで、押し留めていた堰が一気に壊れてしまった気がする。
とても怖いものを見た。あれが何だったのか知りたいと思うし、知るのが恐ろしいとも思う。
今はとにかく帰りたい、メルフィーナのところへ。安心できる場所へ。
――オーギュストと一緒に。
騎士であるオーギュストは、エスコートはしてくれてもそれ以外では決して不用意にマリアに触れたりはしない。
それでもずっと、傍にいてくれた。
それだけでとても安心できて、涙を止めることができなかった。