39.略取
急ぎの書類の最後の一枚にサインを入れたところで、ふう、とついため息が漏れてしまう。
ここに来た当初はともかく、収穫が終わりそれを売買する目途がついたあたりから、領主のサインを入れる必要があるものも増えてきた。
特に今、エンカー地方は本格的な冬に向けて最後の建築ラッシュの最中である。
雪が降り始めれば交通の便は一気に悪化するので、近在の大きな村や領都に工房を構えている職人たちはギリギリまで働き、雪が降る直前にエンカー村を出立したいという目論見もある。
ある程度の範囲ならばエンカー村の村長であるルッツや、新しく創設したメルト村の村長ニドにも振り分けることが出来るけれど、村ふたつと小さな集落しかないエンカー地方の総括的責任者は、あくまでメルフィーナである。自然と決裁が必要なものは領主館の執務室に集まって来る。
「お疲れ様ですメルフィーナ様。お茶をお淹れしましょうか」
「大丈夫。それより、少し散歩をしたいわね。ずっと座っていると、お尻が痛くって……」
執務室の椅子はおそらくエンカー地方で最も高価で良い椅子だけれど、スプリングや体重分散の設計などない世界だ、やはり長時間座っていると覿面にお尻が痛くなってしまう。
「でしたら、村に研ぎ職人が来ているはずなので、息抜きのついでに視察に行かれますか? 彼らは刃物の行商も行っているので、新しい包丁を求めるのもよろしいと思います」
マリーの言葉は、折角立ち寄ってくれた職人の労を領主として労ってあげたほうがいいという意味だ。
北の端にあるエンカー村まで足を延ばしてくれる職人は貴重だし、ナイフの一本、包丁の一丁でも売れればまた来ようと思ってくれるかもしれない。
「そうね、行ってみようかしら。セドリック、付き合ってくれる?」
「勿論、お供いたします」
「私は、午前中にまとめた決裁書を各職人に届ける手配をしますね」
「ありがとう。マリーも適当なところで休憩を入れてちょうだい」
領主館を出ると、空は高く晴れ渡り、青い空が広がっていた。乾いた空気と肌寒さ混じりの、秋らしい快晴が心地よい。
「最近は職人がよく訪ねてくれるようになって嬉しいわね」
「はい、職人を手厚く遇する領だと、少しずつ話が回っているようです。遍歴職人が長く滞在するような工房はまだありませんが、流れの職人や、移住の下見という目的もあるかもしれません」
「それだと嬉しいわ。全ての職人に工房を用意してあげるわけにはいかないけれど、建物を造って数年は安く住んでもらえるようにするとか、色々考えてもいいかもしれないわね」
今は建築ラッシュなので大工の仕事は多いけれど、人口が二百人程度のエンカー村と、元農奴たちを平民の身分にして新たに設立した約百人ほどのメルト村を合わせて三百人ほどがエンカー地方の人口なので、職人の仕事はまだまだ多いとは言えない。
もう少し人が増えてくれれば様々な分業が出来るようになるし、村の規模も大きくなるだろうけれど、今のところは絵に描いた餅だ。
「馬車で行かれますか?」
「もう座るのはしばらくいいわ。それほど遠くないし、歩いて行きます。あ、研ぎ職人が来ているなら、包丁を持って来ればよかったわね」
まだ領主邸を出たばかりで敷地内である。取りに戻るくらい大した距離でもない。
「よろしければ、私が取ってきましょう」
「いいの?」
「はい、メルフィーナ様は、屋敷の敷地から出られないよう、お願いいたします」
そう言うと、セドリックは風のように走り去っていった。軽く駆けているだけのように見えるのに、さすが体を鍛えている騎士だけあってすごいスピードで、あっという間に背中が見えなくなる。
ここに来たばかりの頃はぴったりと後ろに張り付いて、アレクシスの監視としてメルフィーナの一挙手一投足も見逃すまいという気迫が息苦しく感じたりもしたものだけれど、いつの間にか随分打ち解けたものだ。
「あー、このまま全部、いい方に進むといいなぁ」
うん、と腕を空に向けて背中を伸ばしながら、ついそんなことを呟く。
ヒロインがこの世界に降り立つまで、あと一年半というところだ。
冬を前にした今、来年の夏はとても遠く感じるけれど、過ぎてしまえばあっという間だろう。
原作のゲームでは、王都に滞在し続けているメルフィーナがヒロインの教育係として抜擢されるけれど、さすがに国の端で領主をしているメルフィーナを王都まで呼び出しはしないだろう。
教育係にあてがわれるのは第二王女のビクトリアか、メルフィーナより二つ年下の侯爵令嬢、キャロラインあたりになるはずだ。
――ビクトリアは第一王子ヴィルヘルムルートの悪役令嬢で、キャロラインは象牙の塔の主、ユリウスルートのライバル令嬢だっけ。
最終的にヴィルヘルムルートのビクトリアは他国に嫁がされ、ユリウスルートのキャロラインはユリウスによって精神を壊され、廃人として一生を実家の隅の外から施錠された部屋で幽閉されることになる。
ビクトリアは王族の義務を果たしたことになるが、キャロラインの末路はあまりにひどいと、同じ世界の貴族の娘の立場になってみるとよく分かる。
断罪後は修道院に入れられるメルフィーナは比較的マシに見えるかもしれないけれど、過酷な土地の厳しい戒律を課した修道院だとわざわざ作中で触れていたということは、お嬢様育ちのメルフィーナには耐えがたい日々になったはずだ。
――この世界、悪役に優しくないのよね。
もちろん、勧善懲悪のほうがユーザーはスカッとするのだろう。前世でゲームのプレイヤーだった記憶もあるから、運営がそのように設定した理由も分からないわけではない。
なにより、身分制で序列がはっきりしている社会で、聖女の存在が王族に匹敵するほど高いということも関係している。
けれど、メルフィーナは自分の夫を、ビクトリアは家族の中で唯一自分を構ってくれた兄ヴィルヘルムを、キャロラインは婚約者であるユリウスを、それぞれ聖女に奪われた形だ。命に係わるような嫌がらせをしたのは擁護出来ないけれど、彼女たちに非しかないと言い切るのは乱暴だろう。
セドリックの場合、伯爵家を継いだものの継承がスムーズでなかったことと、騎士団長に就任したばかりでまだ地盤がしっかりしていないことが重なり、真面目で堅物な彼はストーリーの序盤で自分は聖女に相応しくないと関係を拒絶する。
あくまで騎士として接しようとストイックに接するセドリックと、常に自分を守りながら一線を引くセドリックに惹かれていくマリアの関係が、もどかしくも美しいと人気のあるルートだった。
――マリアがこの世界に訪れた時、セドリックはすでに伯爵家当主だった。彼はあと一年ほどで爵位を継承し、王都で騎士団長に就任することになる。
原作だとこの時期、メルフィーナは王都のタウンハウスに滞在しセドリックも従っているはずなので、すでに原作とは大きくズレていることになるけれど、それが今後の展開にどう関わって来るのかはまだ分からない。
――セドリックの伯爵位継承は原作でもイレギュラーなものとして描かれていたし、大筋には影響しないとは思うけれど……。
少なくとも、そう遠くなくセドリックはエンカー地方を去ることになるだろう。
今の彼がメルフィーナに敬愛と忠誠を抱いていることを疑いはしないけれど、元々が非常に堅物でルールの順守を貫くキャラクターである。伯爵位を継承する状況になれば、貴族の子息としてその役割を放棄するとは到底思えない。
――あの頭の固さが少し厄介だと思う事もあるけど、セドリックがいなくなれば、寂しくなるだろうな。
考え事をしているとき、唇に指を当てて少し俯きがちになるのはメルフィーナの癖だ。
そのため、気配を殺して近づいてくる者に気づくのが遅れてしまった。
背後から伸びてきた手に口を押さえられ、同時に腹に腕が回され、体を後ろにぐいっと引っ張られる。
「――ッ!?」
口に布を押し込まれ、頭から袋を被されて、ふわりと足が地面から浮いたのが分かった。混乱してばたばたと脚をばたつかせると、胴を担ぎ上げている腕に強く力が入る。
みしり、と骨が軋む感触に、すぐに暴れるのをやめた。頭はまだ混乱しているけれど、ここで下手に抵抗すればより酷い目に遭うのは目に見えている。
メルフィーナは今でこそ領主として改革に乗り出しているけれど、元々は食器より重いものは持ったこともないひ弱な貴族令嬢だ。大人の男性がその気になれば枯れ枝のごとくポキリと折られかねない。
――ナイフを突き刺されたわけではない。連れ去るということは、まだ殺す気はないということだわ……。
押し寄せてくる恐怖が体を冷たくする。恐ろしくてガタガタと震えるのを止められない。
セドリックと離れるべきではなかった。けれど、マリーが一緒なら彼女を巻き込んでいたかもしれないので、それよりは最悪ではなかった。
このまま遠くへ連れ去られてしまったらどうしよう。連れ去られた先で、酷い暴力を受けることになったらどうしよう。
色々な考えが去来し、どうやら馬に乗ったらしい、蹄が地面を蹴る音と揺れを感じていた。
「メルフィーナ様、菜切り用の包丁が欠けてしまっているので、もし販売しているようなら新しいものを買ってはどうかとエリが……メルフィーナ様?」
護衛騎士が屋敷の前庭に戻った時、笑顔でそうしましょうかと言ってくれるはずだった主の姿はすでにどこにも見当たらず、ただ冷たい木枯らしだけが走り抜けていった。