387.中庭と不可解な傷
やはり疲れていたのだろう、至れり尽くせりで二日目は過ぎ、十分に睡眠も取って三日目、簡単な朝食を終えて洗ってもらったいつもの服に着替えを済ませると、家政婦長が居室まで迎えに来てくれた。
今日は冒険者たちと顔を合わせるので、表向きの応接室まで移動するのだという。北部の冬は灰色の雲が空を覆っていることが多いけれど、回廊に出ると今日は太陽が出ていて明るく、何だかいい気分にさせられた。
公爵家は領主邸に比べると窓が少なく、板ガラスではなく丸いガラスをつないだ嵌め殺しで開閉もできないので、昼間でも室内は薄暗い。裕福な家らしくあちこちに魔石のランプが設置されているし、それ以外の場所でも蜜蝋の蝋燭が贅沢に灯されているけれど、やはり太陽の光には敵わなかった。
「わっ、中庭、きれい」
しばらく歩くと、瀟洒なデザインの回廊がぐるりと囲む形で中庭が顔を出す。かなり広いスペースで、腰ほどの位置に整えられた植木が等間隔に四角く庭を区切るように植えられていて、その間に薬草らしい草が伸びている。
庭の中央には屋根付きのベンチが置かれていて、のんびりと庭と回廊を一望することが出来た。冬の間は寒いだろうけれど、暖かい時期にあそこでお茶を飲むと優雅な気分になれそうだ。
マリアには建築様式がどうこうというのは分からないけれど、メルフィーナがここにいたら解説してくれたかもしれない。
「先代の公爵様が奥様のために整えたもので、光の庭と呼ばれています。あの東屋は、奥様が特に愛した場所なのですよ。昔はよく、アレクシス様とクリストフ様もこの庭でお遊びになっていました」
家政婦長の声には懐かしさと、柔らかい温かさが滲んでいる。
アレクシスにも弟と庭で駆け回る年頃があったのだと思うのと同時に、食堂に掛けられていたあの絵を思い出す。
「奥様のこと、大事にされていたんですね」
「はい。奥様は本当に素晴らしい方でした。無欲なお方でしたので、閣下はドレスも宝石も喜ばないのに、どうすればいいんだと、あの頃はよく頭を抱えておられました」
そこまで言って、ヒルデはふと口元を手で覆う。
「主君のことを噂するなど、無作法なことを。申し訳ありません、マリア様」
「いえ、私が伺ったことなので。それに、お話が聞けて嬉しいです」
メルフィーナもまた、無欲な人であるのは領主邸と公爵家の両方を見た今なら、よく理解できる。
壁画や天井画で室内を飾ることも、複雑に織られた絨毯で床を飾ることもしないし、ドレスも村の人たちより少し質がいいものを日常使いにしている。食事と灯りにだけは大きなお金を掛けているようだけれど、逆に言えば、それだけだ。
前世の記憶があるとはいえ、貴族の女性として育ったのだろうに、メルフィーナは不思議なくらい贅沢に興味がないらしい。もし彼女に何か贈り物をしたいと思ったら、アレクシスも先代の公爵がそうだったように、頭を悩ませることになるだろう。
――だから、トンチンカンな贈り物をしては呆れられているのかな。
宝石やドレスでいいなら、多分話は簡単だ。でもメルフィーナがそれを喜ぶかといえば、そうでないことはアレクシスにも分かるのだろう。
身分があれば、何かが起きても将来的に困ることはないとメルフィーナは言っていた。あれこれ考えた結果、実用という意味では間違いなくメルフィーナの役に立つものを用意したのだろう。
――何か、ちょっと可哀想な気がしてきたかも。
マリアは、メルフィーナの気持ちを知っている。その上でいつかは決定的な事態が来ることを覚悟している友人に、どうにかうまくいってほしいとも思う。
アレクシスがメルフィーナを気遣って、遠回しにでも喜ばせ、彼女の役に立とうとしているのを感じれば、ますます強くそう思う。
太陽の光が降り注ぐ明るい庭園をもう一度眺める。
きっと造るのも維持するのも、マリアが想像もつかないくらいお金と人手が掛かるのだろう。
東屋でゆったりと過ごす貴婦人と、庭で遊ぶ二人の子供達の中に、マリーは多分、いなかった。
――そんなに悩んでプレゼントを考えていても、こんなに素敵な庭を造っても、可愛い二人の子供がいても、それでも、他の女の人が必要だったのかな。
それは、マリアの倫理観では到底、受け入れがたいものだ。
アレクシスがメルフィーナ以外の女性と、そんなことを思うと、それだけでメルフィーナの友人として、腹が立ってくる。
でも、マリーはいい人だ。表情が変わりにくく感情が読みにくいところはあるけれど、マリアも折に触れて優しくしてもらったし、丁寧に接してもらっている。
他所の家の事情だし、そして過去の話でもある。貴族のことなどマリアにはよく分からないし、きっと自分の価値観を当てはめて考えることのほうが間違いなのだろう。
複雑な気分になりながら明るい庭からそっと視線を外し、表向きにつながる門へと進んでいった。
* * *
控えの間に入ると、ユリウスと、二日ぶりのオーギュストが待っていた。いつもと同じ騎士服で、明るい表情で、丁寧に騎士の礼を執る。
「マリア様、二日も離れていたのは護衛騎士になってから初めてでしたね。公爵邸では快適に過ごせましたか?」
「うん……っていうか、どうしたの、その」
オーギュストを見てぱっと気持ちが明るくなったものの、すぐにその顔にぎょっとする。
左の頬がかなり広い範囲で内出血している。目もとは切れていて、血こそ出ていないものの深い傷になっていた。
「はは、男ぶりが上がりましたかね。傷は見苦しいので布で覆うことも考えたのですが、視界が悪くなるので、みっともないですが許して下さい」
「そんなことどうでもいいよ! 待って、今治すから」
触れるだけでもかなり痛みそうだけれど、幸い直接患部に触れなくても治すことは出来る。これくらいの傷と痣なら、一瞬で消すことが出来るだろう。
そう思って手をかざそうとしたのに、オーギュストはそれを拒むようにすっ、と一歩後ろに下がった。
「いえ、このままで大丈夫です」
「大丈夫じゃないでしょ、かなり痛いって見ればわかるよ」
「いいんです。――マリア様、どうかこのままで」
「オーギュスト?」
訝しみ、オーギュストの顔を見るけれど、彼はいつものように笑っている。
多分、殴られた痕だ。見ているだけでこちらまで痛くなってくる。身の回りに暴力がなかったマリアにとっては、その傷だけで怖いし、オーギュストにそんなことをした人に許せない気持ちが湧いてくる。
けれど、当の本人は少しも気にしている様子はない。
彼はとても合理的な人だ。一応の礼儀は押さえているけれど、明るくてあっけらかんとしていて、メルフィーナ相手にも疑問に思ったことは気軽に問いかけるし、領主邸のメンバーとも身分を分けることなく仲良くしている。
一緒に実験をし、靴を造り、気の置けない関係を作ってきた。今更、マリアの手を煩わせるなんて理由で治療を拒むとも思えない。
その彼が、すぐに治せる傷を傷のままにしておいてもいいと言う理由が分からない。
「何があったか、聞いちゃ駄目?」
「そうですね、今だけは知らん顔をしてもらえますか? いずれ、お話しできるようにしますので」
「……分かった」
踏み込まれたくない。そう思っているなら、親しい相手だって尊重するべきだ。それでも気落ちした様子を隠しきれなかったマリアに、オーギュストはいつもと変わらない口調で告げる。
「大丈夫ですよ。俺は騎士ですから、これくらいの怪我はしょっちゅうですし、すぐに治るのも経験上分かってますから」
明るく言うオーギュストに頷いて、何と言っていいか分からず、マリアもぱっと表情を明るくする。
「もう、びっくりしちゃったよ! ちゃんと清潔にして、早く治してね。膿んだりしたら有無を言わさず治しちゃうからね!」
「気を付けます」
苦笑するオーギュストに、これでいいのだと言い聞かせる。
痛い思いなんてして欲しくない。何かあったのなら相談して欲しいし、出来れば役に立ちたい。
けれどそれは、自分の勝手な気持ちだ。オーギュストにはオーギュストの気持ちがある。
「さ、同行者は応接室にもう揃っているので、紹介しますよ。威厳ある姿を見せてください」
「何日も一緒にいる人なんだから、すぐボロが出るよ、多分」
「マリア様はいつものように振る舞うのが一番ですよ。何かあったら補佐しますので」
コーネリアがおっとりといい、ユリウスは一連のやり取りには特に興味がない様子だった。
一緒にいて、いつものように過ごしていれば、この違和感も自然と消えるだろう。
そう信じて、マリアはこくりと頷いた。