385.秘めた想いと装飾品
やや居心地の悪い気分はあったものの、三日間馬車での移動で強張っていた体を温めた後に優しく洗われて薔薇の香油を擦り込まれつつマッサージを受けるのは、素直に気持ちよかった。
薔薇のいい香りに包まれて芯から温まり、すっかりリラックスして入浴を終え、厚手のローブを羽織り居室まで戻る。奥向きはよほどのことがない限り家政婦長が統括していて、大きな荷物の搬入の時くらいしか男性使用人の出入りはないということで、こういうことも可能らしい。
風の魔石を組み込んだ乾燥機――いわゆるドライヤーで髪を乾かしてもらい、艶が出るまで丹念に櫛を入れてもらう間、石鹸も薔薇のオイルを練り込んだものであるとか、髪に塗っているのはロマーナ産の高価な艶出しであるとか、華やかな話を交えつつ、世話をしてくれるメイドたちはどこか嬉し気な様子だった。
そうして至れり尽くせりに世話を焼いてもらった後、ワインに蜂蜜とスパイス、果汁を混ぜて温めてアルコールを飛ばしたホットワインを出され、晩餐までお寛ぎ下さいと丁寧に告げて、メイドたちは居室を後にした。
「なんか、申し訳ないくらいお世話してくれるんだね」
ようやくコーネリアと二人になって、気楽な言葉が出てくる。
コーネリアはあまり気にしている様子はないけれど、ここではメルフィーナの妹ということになっているのであまり迂闊なことは言えず、相槌を打つ以外の発言に迷っているうちに言葉が出てこないことが続いてしまいがちだ。
「さすが公爵家だけあって、使用人の皆様もよく教育されていますね。女性のお世話に慣れていますし、おそらくメルフィーナ様のお傍に仕えるために集められた方々なのだと思います」
メルフィーナがお嫁に来たのは十六歳の春頃で、その後すぐにエンカー地方に移動したと聞いているので、二年以上公爵家に戻っていないはずだ。
――それなのに、専属のメイドがまだ何人も雇われたままなんだ。
アレクシスの両親はすでに他界していて、メルフィーナとマリーはエンカー地方にいる。公爵家に滞在するときに挨拶が必要な相手はアレクシスだけというからには、他の女性の家族もいないのだろう。
それなのに、薔薇の香油や髪に塗るためのオイルも、ありあわせのもののようには思えない。きちんと用意して管理していたもの、そんな感じがした。
貴族というのはそういうものなのかもしれないけれど、いつメルフィーナが公爵邸に戻ってきても、その日から快適に暮らすことが出来るだろう。
なんとなく、そこにアレクシスの気持ちが伝わってくるような、そんな気がする。
しばらくのんびりとしていたけれど、サウナの火照りが引いた頃、再び家政婦長と共に先ほどのメイドたちが居室を訪れた。大きな箱――櫃というらしい――が次々と運ばれてくる。居室の中で次々と蓋が開かれた櫃のなかには、それぞれ色の違うドレスが納められていた。
「晩餐のドレスをお選びいたします」
「ええと……」
「まあ、どれも素敵ですねえ。これだけの数のドレスの用意があるなんて、すごいです」
「奥方様の輿入れの際にお持ちになったものです。こちらにあるものは好きに使うよう、ご伝言をいただいております」
「領主の奥方でも、一枚のドレスを大事に着続けるのはよくあることなんですよ。これは、たまには着てあげないとドレスが可哀想ですね」
「はい。まさかこのような機会が頂けるとは、私達も嬉しく思っているところです。マリア様はどのようなお色がお好みでしょうか。この赤のドレスなどは上質の絹で作られておりますし、こちらの毛皮をあしらったドレスはとても温かで――」
「えーと、一番軽くて、締め付けないのがいいかなぁ、って」
晩餐――夕飯にわざわざドレスを着ること自体、なんだかおかしくないだろうかという気持ちもある。布が非常に高価であることはマリアももう知っているし、メルフィーナのドレスでもし食べこぼしでもしたら、漂白剤などない世界で大変申し訳ないことになる。
「それでしたら、こちらの濃い青はいかがでしょう。刺繍が入っていないので簡素なように見えますが、とても軽く、優雅な作りになっています」
「あ、じゃあそれで……」
何しろ夕飯を共にする相手はアレクシスだ。エンカー地方にいる時はメルフィーナとマリー以外にはほとんど視線すら動かさないような人である。マリアが今着ている室内着で行ったとしても、気にするとはとても思えない。
そこから薄い寝間着にもなるワンピースの上から重ね着のスカートを履いて腰の部分でしっかりと紐で結び、さらにワンピースの形をしたドレスを着て形を整える。金色の刺繍が入ったエプロンのようなものを装着し、ドレスと同じ色の膨らんだ袖のついた丈の短い上着を羽織る。上着を紐で編み上げてしっかりと固定すると胸当てをピンで留められて、さらに袖口はエプロンと同じ刺繍の入ったものを後付けでつけられた。
――やることが、やることが多い!
到底一人で着つけが出来るものではないし、重ね着をするたびに当然ながら重たくなっていく。それぞれのパーツは外れないようしっかり紐で編み上げたりピンで留められたりしているので、身動きしにくいことこの上ない。
比較的長身なメルフィーナに合わせて作られたものなので、マリアには裾が長くやや不格好に思われたけれど、針を持ったメイドが必要以上に引きずらないよう、腰のあたりで布の長さを調節してくれた。
「宝飾品はどうなさいますか」
「これで大丈夫です。メルフィーナ……姉様のものですし、あまり私が借りるのも悪いので」
このうえ、金属で出来たベルトやら首飾りやらを付けるらしい。宝石をあしらったベルトはとても綺麗だけれど、いかにも重そうだ。
「こちらは公爵家の所有するものですので、どうぞお気遣いなく」
いやますます怖い。ただでさえ身動きが取りにくいのに、うっかり転んで落としたり壊したりしたら、目も当てられない。
「宝飾のベルトはこの場合、省くとホストである公爵閣下にも失礼に当たるので、ひとつは身に付けたほうがいいですよ」
「コーネリア……」
「頑張ってくださいマリア様。これで仕上げですから」
そう言う本人は、メイドたちが着ているような暗めのドレスを着ている。こちらも重ね着はしているもののマリアのものと比べれば格段に工程は少ないし、汚れも目立たなそうだ。
私もそっちがいい、と言ったら、あとでやんわりと、けれどしっかりとお説教されてしまうのだろう、きっと。
仕方なく、メイドたちが並べた宝飾品の入った櫃に視線を向ける。
腰に垂れ下がるようにつけるものらしく、どれも細かい細工で、宝石を金の鎖でつなげているタイプのものだった。
こちらは濃い目の色のドレスが多いのとはすこし印象が違い、淡い金の台座に白真珠と淡い青の石の系統が多い。
「なんだか、私とかメルフィーナより、マリーに似合いそうだね」
ぽつりと思ったことが口から出たのは、そろそろ服を着るのに疲弊していたからだろう。何気なく出た言葉だったけれど、家政婦長ははっと息を呑んで、小さく震え、頭を垂れる。
「申し訳ありません。若い女性用の宝飾品は、先代の公爵閣下があつらえたものばかりでしたので……」
何で謝られたのか分からず戸惑ったものの、少し考えて、ああ、そうかと思う。
――先代の公爵ということは、マリーのお父さんだ。
思わず口にしてしまったけれど、これらは違わず、マリーのために作られたものだったのだろう。
「じゃあ、ますます私は使えません。マリーがいつか、受け取るべきものなんですよね」
「……いえ、こちらは公爵家の財産で、正室であるメルフィーナ様が受け継ぐものでございます」
複雑そうに間を置かれたものの、その口調はきっぱりとしたものだった。
その様子に、やっと家政婦長が誰に似ているのかを思い出す。
感情があまり表に出ないところも、それでいて態度や言葉の端々から情の深さが伝わってくるところも、マリーによく似ていた。
「いいのではないですか? マリーさんはマリア様ともとても仲が良いですし、マリア様が宝飾品を借りることに抵抗があるとは思えません」
「でも……」
「エンカー地方に戻ったらメルフィーナ様に、お借り出来てとても助かったとお伝えすればなお良いと思います。メルフィーナ様でしたら、それで理解していただけると思います」
持って回った言い方だけれど、メルフィーナのことを良く知っているマリアには、理解できた。
マリーのための宝飾品が、今はメルフィーナに所有権があるということは、これらはマリーのために作られたのに、結局彼女に贈られることはなかったのだろう。
――メルフィーナならきっと、マリーの気持ちを確かめてから、アレクシスに働きかけてくれる。
この世界の宝飾品の価値をよく知らないマリアの目にも、とても高価なものだろうというのは理解できる。
マリーの髪や瞳に合わせて誂えられたこれらが、きっと、深い愛情をもって用意されたのだろうことも。
「ええと、じゃあ、今日だけお借りします。それから、もしよかったら、お名前を聞いてもいいですか?」
家政婦長は驚きを押し殺すように、僅かに目を瞠り、それから丁寧に礼を執った。
「申し遅れました。わたくしはヒルデガルトと申します。どうぞ、ヒルデとお呼びください、マリア様」




