384.サウナと貴族の役割
薔薇の香りのする紅茶を飲んでいると、穏やかな表情で家政婦長が晩餐前に入浴はいかがでしょう、と言った。
是非! と食いつきそうになるのを必死でこらえて了承し、コーネリアと共に案内されたのは、居室から五分ほど歩いたところにある湯殿だった。ひとつの屋敷の中で五分も歩くというのにも驚いたけれど、歩いても歩いても内装がずっと豪華なことにも、同じくらい驚く。
家政婦長が少し前を歩いて案内しつつ、後ろにはメイドが四人、しずしずとついてくる。全員足音を立てないので、これだけの人数が歩いていてもやけに静かだった。
「オルドランド家は、この国でも最も古い家系のひとつなのですよ。この土地一帯を支配していた古ガッリアの末裔であり、永年に亘りこの地を治めて来た家柄です」
移動の間、廊下にはずらりと肖像画が並んでいるのを眺めていると、家政婦長がそう説明してくれる。これは歴代のオルドランド公爵の主要な人物や家族像らしい。
「すごく歴史がある家系なんですね」
「はい。フランチェスカ王国に国土の北部として編入されたのは二百年ほど前ですが、五百年ほど前までは独立を保ち、この土地を守って来たと言われています。北部の民は今でも王国の臣民というより、北部という巨大な領土の領民という意識が強いのです」
その声は穏やかではあるけれど、強い自信と誇らしさに満ちているように、マリアには感じられた。家政婦長は知っている誰かに似ているような気がしたけれど、明確に誰と思い出すより先に、こちらです、と扉が開かれる。
これまでの建物と繋がっているけれど、石壁の色も雰囲気も違っていて、こちらは最近建てられたものだと分かる。ふわっと暖かい空気が温度差の風になってぶつかってきて、慣れた湿度の高さに思わずぱっと表情が緩んだ。
サウナだ。領主邸にもあった設備と同じものが、公爵邸にも備わっているらしい。
「それでは、お召し物を」
「えっ」
家政婦長の後ろをぞろぞろと付いてきていたメイドたちの手がマリアの服に伸びてくる。思わず後ずさると、不思議そうな顔をされてしまった。
「え、ええと。自分で脱げますけど」
「マリア様、マリア様のお世話をするのは彼女たちのお仕事ですから、お任せするといいですよ。あ、わたしは貴族ではないので自分で出来ますので」
「いや、でも王宮でも自分でしていたし……」
正確には得体のしれない人達に触られたくなくて拒絶していたというのが正しいけれど、確かに朝の着替えから昼の着替え、夜の着替えと一日に何度も着替えを要求されては、細々と手を出されそうになっていたのを思い出す。
「皆さん、久しぶりの高貴な女性の来訪でやりがいがあると思いますよ。それを汲んであげるのも、貴族の役目のひとつですから」
そんなことを言っておいて、コーネリアはさっさと衣服を寛げている。メイドの一人に薄手の湯着を渡されて、さっとそれを羽織っていた。
この世界の服は重ね着が多くて、着るのも脱ぐのも手間が掛かる。それにしたって人の手で服を脱がせてもらうというのは落ち着かないを通り越して、とても居心地が悪い。
コーネリアはいつものんびりとした口調ではあるけれど、その説明や忠告が無駄だったことは一度もない。メイドたちに手伝ってもらうのも、無理はしなくてもいいけれど任せたほうがいいと言っているのだろうし、それはきっと今のマリアにとって正しい振る舞いなのだろう。
「じゃあ、ええと、お願いします」
「お任せください」
心なしかメイドたちは表情に喜色を滲ませつつ、マリアを取り囲み上着を脱がせてベルトを緩め、シャツやズボンを脱がせていく。服の構造としては貴族の女性のものとは大分違うはずだけれど、戸惑う様子もない。
かなり気まずい気分で全部脱がされて、こんなもの自分でとっとと羽織ったほうが早いじゃん! というのが偽らざる本音ではあるけれど、湯着に袖を通すところまで手を借りる。
――なんか、お風呂に入る前から疲れた……。
メルフィーナがいかに程よく自分を放っておいてくれたかを痛感しつつ、ようやくサウナに入ると先にコーネリアが温まっていて隣に座る。
公爵家のサウナは領主邸のそれより随分広く取られていて、石組みのストーブもかなり大きい。一度に十数人くらいなら楽に入れる大きさで、寝そべるためだろう、中央に木組みのベッドまである。
「あー、あったかい……すごく気持ちいい」
「サウナの温かさって、毛皮や暖炉とはまた違いますよねえ。体の芯から温まるというか」
この世界では、お風呂は貴族でも一般的ではないのだという。王宮にいた頃は、食事は運ばれてくるもののお風呂には全く案内されなかったので、最初の方はそれどころではなかったものの、滞在していた最後のあたりはそういう虐待なのかと疑ったくらいだ。
――領主邸を出てから、王宮にいた頃のこと、よく思い出すなあ。
王宮を半ば逃げ出すようにセドリックとエンカー地方に移動していた時期は、精神的にかなり追い詰められていて記憶も曖昧だったし、マリアがこの世界で知っている大半は、この二つの場所だけなのだから仕方がないのだろう。
三日の移動だけでも、この世界について新しく知ることが山ほどあった。
建物の様式は、調達出来る石材や建材の種類によってその村や町で随分違う。平民は生成りの服を着ていることが多いので、染色された色鮮やかな服を着ている人は貴族か、かなり裕福な商人らしい。
食事に出る肉は豚や鶏の比率は領主邸よりぐっと低くて、山雉や鳩、ウサギ、羊といったものも多く、川沿いだと鯉やウナギなどの煮込みが出たこともある。
味付けは塩のほか、月兎の葉で包んで蒸し焼きにしたり、蜂蜜を使って甘みを足したり、エドの料理と比べるべくもないけれど、思ったより複雑な味付けも多かった。
一番慣れない、かつ多用されているのはサフランだ。色付けと臭み取りや香りづけに使われていることがとても多く、蝋燭の光の下でもすごく映えるという理由もあるのだろうけれど、黄色い料理は頻繁に出てきて、そのほとんど全てにサフランが使われている。
道行く人の大半は痩せていて、とくに子供は心配になるほど手足が細い子が多い。そんな世界できちんと食べられるだけで、自分の立場に感謝しなければならないのは理解しているつもりだけれど、肉料理が続いたことと慣れない香辛料の連続で、少し胃がやられ気味だ。
――夕飯は要らない、とは言えないんだよね、多分。
宿でもそうだったように、マリアたちに饗される料理は使用人たちに下げ渡されるのだろう。この世界では当然のシステムで、マリアが夕食を抜けば彼らの口に入る料理の品数が減るかもしれない。
生まれながらに貴族だったらそれが当たり前かもしれないけれど、自分の何気ない行動が人に影響するのは不自由に感じてしまう。この世界の貴族は、優雅なお金持ちという立場ではなさそうだ。
サウナの蒸気で温まりながら、ぼんやりとそんなことを考えていると、湯着に身を包んだメイドたちがぞろぞろと中に入って来る。髪はしっかりとまとめて帽子に入れたままなので、みんなでお風呂……ではないのだろう。
嫌な予感に体を強張らせていると、メイドたちは中央のベッドに大きな布を敷き、魔石のランプにいくつも壺や水差し、果物を盛った籠を並べ始める。
「マリア様、お背中を流させていただきますので、どうぞこちらに」
そして、準備が整ったとばかりに促されて思わずコーネリアを見ると、彼女はにこりと微笑んだ。
「公爵家のメイドの皆様ですから、きっとすごくお上手ですよ。あ、わたしは貴族ではないので遠慮させていただきますね」
コーネリアは優しい。
多分メルフィーナと同じくらい、人に親切だし抱いた疑問にも答えてくれる。
けれど甘い人かというと、そうではないのだと、しみじみと理解することになった。




