370.反対意見と甘える相手
「俺は反対です」
団欒室でお茶を傾けながら、マリアが調査に向かうことを話すと、真っ先にそう言ったのはオーギュストだった。
「あの、でもちょっと見に行くだけで、危ないことはするつもりはないよ? まだ分かんないことの方が多いけど、ほら、私の体質? があればあわよくば何とかなるかもしれないわけだし」
焦ったようにへらへらと笑みを浮かべて言うマリアに、珍しくオーギュストは真面目な表情で首を横に振る。毅然とした態度は取りつく島もないもので、団欒室に緊張した空気が満ちていた。
「失礼を承知で言わせていただきますが、メルフィーナ様もマリア様も、冬の城の周辺の環境をご存じないからちょっと見に行く、と言えるのです。あの辺りは真夏でもうすら寒く、常に乾いた風が走り、土地の魔力汚染と異様な雰囲気で訓練を施した新兵でも最初は体調を崩す者が続出します。馬や豚が怯えて動かなくなるので冬の城より先は徒歩での移動になり、毎年遠征のための陣を張るだけで大変な労力がかかっています」
「でも、私、脚には自信があるよ。知ってるでしょ」
なおも言い募るマリアに、オーギュストは真剣な表情を崩そうとはしない。
マリアに体力があるのは事実だ。元々運動部だったというし、領主邸に来て体調が回復してからはジョギングも欠かしていなかった。幼い頃から専門の訓練を積んでいる騎士や熟練の兵士と比べるまでもないにせよ、平均的な少女よりは持久力を備えていると言えるだろう。
メルフィーナも、ここまでオーギュストが強硬に反対するとは思わなかった。あっさりと受け入れると考えていたわけではないにせよ、普段のオーギュストならばもっと柔らかく、せめて春になってからにしようとかもう少し予備調査を進めてからの方がいいとか、先延ばしにする言い方をする性格だ。
オーギュストはそつのない人だし、基本的にアレクシスやメルフィーナのすることにはフォローはしても判断を翻させるような意見をすることは滅多にない。目上の者がそうすると決めたなら、成すための困難を排除することを選ぶような気がする。
頭ごなしにマリアの決めたことに反対するのは、なんとなく彼らしくない気がする。
マリーとセドリックを見ると、二人も少し困惑を滲ませている。
「セドリックは、冬の討伐の経験があるのよね? プルイーナが出ない時期の調査は、難しいものなのかしら」
「そうですね……特に冬が来ている今の時期は、決して易しいものとは言えないと思います。集団で騎士団を率いての移動も、それなりに負担の大きなものですので。ですがそれは大量の糧食を必要とするということもありますし、マリア様はご自分で水を出すことが出来ますし、必要な食糧と燃料、天幕などをあらかじめ陣を組む場所に用意し、そこを拠点に数日の調査でしたら、不可能ではないとは思いますが」
「不可能ではない、はどうとでも取れる言葉だろう」
「他に護衛の騎士を数人つけるという前提なら、十分に日程を取れば、ご負担は大きくとも重篤な問題は起きないはずだ」
普段から仲がいいというわけではないにせよ、じゃれ合うように絡むことはある従兄弟二人がにらみ合う。マリアはというと、悔し気に唇をぎゅっと引き締めていた。
「でも、何とかなれば北部はすごく助かるんでしょう!? どれだけプルイーナの討伐が大変かは聞いただけでも伝わってくるよ! 何とかできるかもしれないのに何もしないなんて、それでいいの!?」
「連中を何とかするのはオルドランド家の、そしてそこに仕える騎士の役割です。メルフィーナ様の客人であるマリア様が、危険を冒してまで動く必要のあることではないと言っているんです」
「私だってメルフィーナのために何かしてあげたいって思うよ! 本当はオーギュストだって、遠征に行きたいって思ってるはずじゃん!」
「俺の仕事はマリア様を守ることです。個人的な感情なんてどうでもいいんです」
マリアはがたりと音を立てて立ち上がる。頬を怒りで赤く染めて、ぎゅっと震える拳を握る。
「オーギュストのわからずや!」
「危険なんですよ! 俺でも守り切れるか分からないんです! メルフィーナ様も、止めてください。いつ雪が降り出すか分からないこんな季節に荒野を進もうなんて、女性のすることではありません」
「なによ、私が男ならいいってこと!?」
「そういう意味ではなく」
「私がか弱いお嬢さんで、何も出来ないって思ってるなら、大間違いなんだから! ダメって言われても、私は行くからね!」
「ちょっ、マリア様!」
マリアは叫ぶと、耐えきれないというように団欒室から飛び出していった。あわててその後を追うオーギュストの、ばたばたと立つ二人分の足音を、メルフィーナは呆然として見送る。
水を向けられたのに、会話に入り込むことも出来なかった。
「……なんで喧嘩になるのかしら。それに、なんだかオーギュストらしくなかったわね」
「……私もあれのああいうところは、初めて見ましたね」
驚きと呆れを半々に滲ませたようなセドリックに、マリーは頬に手を当てて、ほう、と息を吐いた。
「そつなく見えて、北部の男性社会で育った人ですので、子供を諭す大人のような態度をとれば女性がどういう反応をするのか分かっていないんですよ」
仕方のない人ですねと呆れたように言うマリーに、セドリックはやや居心地が悪そうな様子を見せる。
「まあ、あれの気持ちも分かります。マリア様はその、比較的安全な移動でも参ってしまうほど、大変か弱くていらっしゃるので」
「騎士のそれと比べるほうが間違っていますよ、セドリック卿」
マリーの冷静な突っ込みに、メルフィーナも頷く。
王都からソアラソンヌまでの馬車なら二週間の距離を、マリアを連れて馬で走破した道程のことを言っているのだろうけれど、あの距離は馬車でもそれなりにしんどかったし、公爵家を飛び出しエンカー地方に向かう道程でしばらく馬車には乗りたくないと思ったほどだった。
道中は気が張っていたとはいえ、エンカー地方にたどり着いてからのマリアは本当にひどい状態だった。明るく話していたかと思えば高熱を出して寝込み、熱が下がってからも精神的に不安定で吐いたり泣いたりを繰り返していたくらいだ。
全く知らない世界に身一つで放り出された精神的な不安もあっただろうけれど、騎士であるセドリックの基準での「比較的安全な移動」とやらが肉体的にも相当負担が大きかったのは否めない。
「今回は移動できるところまでは馬車で移動してもらうことになるし、徒歩での調査も先に冒険者たちが予備調査をしてくれているから、道程自体はそう負担が大きくなることはないと思うけれど……」
とはいえ、寒さや乾燥ばかりはどうしようもない。メルフィーナも万全の用意をするつもりだけれど、相応の負担があるのも事実だろう。
絹の布に包んで危険や負担から遠ざけておきたいと願うなら、受け入れがたい提案ではあるはずだ。
「変に仲介しようとしても、こじれるだけね。ひとまず様子を見ることにしましょうか……」
マリアがそう言ったように、現状が変わるならどうにかしたいと思っているのはオーギュストも同じのはずだ。
マリアの気持ちが伝われば、そうこじれることにはならないだろう。
「それに、喧嘩が出来るくらい素を出せるようになったのは、いいことだわ。マリアはずっといい子だったから」
心のままに気持ちを吐き出せるというのは、相手に甘えて、信頼しているというのと同じことだ。
それはオーギュストも変わらないだろう。
マリアがこの世界でそういう相手を見つけることが出来たなら、それは喜ばしいことだ。
誰にも甘えることが出来ずに成長してしまったメルフィーナには、こんなに早くそんな人と出会えるなんて、少し羨ましいと思えるほどだった。