369.恋する乙女と女の勘
楽な室内着に着替え、マリアはメルフィーナのベッドで正座をしつつ、緊張した表情でこちらを見ていた。
植物紙をめくる音が響き、横書きの文字に目を走らせたあと、うん、と頷く。
「文章もかなりなめらかになったし、誤字もなかったわ。それに、少し詩的な表現が入るようになったのね」
「! そうなの。季節の特徴とか入れるといいって、コーネリアに教えてもらって」
「ふふ、焼き栗の香りの下りから、そうじゃないかと思ったわ。――これだけ書ければ、かなり高度に文字を身に付けたと言えるんじゃないかしら。少なくとも手紙のやりとりにはもう困らないし、本もかなり読めるようになったんじゃない?」
マリアはぱっと嬉しそうに表情を明るくした後、うん、と頷く。
「読むだけなら書くよりなんとかなると思う。セレーネの字がきれいで読みやすいっていうのもあると思うけど」
「文字を読む必要性自体、こちらにはあまりないものね。領主邸にあるのもセレーネの書いたもの以外は仕様書とか納品書の類ばかりだし」
そもそも、こちらの世界では文字を必要とするのは聖職者や商人、文官などで、貴族でも女性は文字を習わないこともそう珍しくはない。きちんとした文章を書くことが出来、四則演算も問題ないとなれば、立派に教養を身に付けているといえる。
「今日、ルーファスから上がってきた書類よ。読んでみる?」
差し出した羊皮紙を手に取り、しばらく紙面に目を落として、マリアは段々と表情を曇らせていった。
「見つかったんだ、魔力溜まり」
「ええ、便宜上プルイーナの巣と呼ぶことになったらしいけれど、土地が帯びている魔力が強すぎて、「遠見」の「才能」を持った冒険者が所在を確認しただけで、近づくことは出来なかったみたい。小型の魔物が群れを作っているのを確認出来たそうよ」
単独で出てもそれなりに脅威の魔物の群れなど、メルフィーナは想像もしたくない。かつて魔物について学んだ時、毎年プルイーナの眷属であるサスーリカと戦っているアレクシスやオーギュストからも、討伐の時以外に複数で群れる魔物を確認することは滅多にないと聞いていた。
メルフィーナの言葉にうん、と頷きながら報告書に目を走らせて、マリアはため息を吐いた。
「この冬の城、ってとこから魔力溜まりがあって、その先はなにがあるの?」
「確認されている限りでは魔力に汚染された荒野が続いていて、その先は海みたい。元々は大きな都市があった場所らしいけれど、それに関しては資料も残っていないくらい古い話らしくて、そう伝えられている、という程度ね」
マリアによってもたらされた新たな知識――追加ディスクで明らかになった四つ星の魔物の根絶については、まだ分からないことの方が多い。
ゲームの中でもマリアが根絶を行ったのは追加コンテンツのレイモンドルート内で、東部の水の魔物・アクウァであり、そこで新たな国が興せるほどの広大な土地を手に入れるのだという。
アクウァは巨大な水源を中心として上陸してくる亀の形の魔物で、広い土地を有しながら起伏の激しい土地と海に囲まれあまり豊かとは言えない東部の開発と財政を圧迫している四つ星の魔物の一種だ。ゲーム中ではレイモンドと共に神聖ロマーナ王国を興すのだという。
発展が遅れている土地とはいえ、フランチェスカ王国は新興国に、聖女とともに大きく領地を奪われる形になる。何かしらのトラブルが起きなかったとは到底考えられないけれど、ゲームの中でマリアの存在は絶対と言ってもいい。
かつて一臣下が聖女を手に入れたことでフランチェスカ王国が興ったことを考えれば、いずれ神聖ロマーナ帝国がこの世界の大国へと変わっていくことは、ほとんど確定された未来だったはずだ。
――フランチェスカ王国はともかく、レイモンドはロマーナ共和国に強い憎しみを抱いているはずだわ。
家族を皆殺しにされ、王家が多く独占していた知識が失われたことで彼の愛した美しいロマーナの街並みすら変わってしまったのだと言っていた。
メルフィーナの知っているレイモンドは多少変わっているけれど如才ない冷静な商人の姿だが、新たな国と聖女を手に入れたレイモンドが、ロマーナの元老院に復讐を行わない理由はないだろう。
王子様と聖女は結ばれて、末永く幸せに暮らしました。それだけでは済まない現実が、ゲームのエンディングの先にはあったはずだ。
「魔力溜まりを浄化できれば、もうそこには魔物は発生しなくなるのよね?」
マリアは硬い表情で頷いて、でも、と膝の上で手を握る。
「誰も攻略していない私が、出来るかは分からない。だからメルフィーナ、私……」
怖い、やはり無理だと言われるかもしれない。それでもいいとメルフィーナは思う。
これまで魔物のことは分からないことだらけだった。象牙の塔の第一席であるユリウスすら、実験を繰り返して仮説をいくつも立てて、その上で断片的なことしか分かっていないのだという。
プルイーナを含む四つ星の魔物が魔力溜まりと呼ばれる場所から発生していると知れただけで、大きな前進だ。本来ならばこの世界に住む全ての人間が、時間を掛けて解明していくことなのだから。
「マリア、無理はしなくても――」
「ううん、私、実際にここに行ってみようと思う!」
勢いよく言われた言葉にぱちぱちと瞬きをして、思わず出たのは、えっ? という間の抜けた言葉だった。
「魔力溜まりを見に行くだけなら今の私でも多分大丈夫だし、ワンチャン、軽く浄化するくらいは出来るかもしれないじゃない? そしたら今年の冬のプルイーナの発生はエンカウントキャンセル出来る可能性もあるし、一年でも先送りに出来ればその間にまた調べることも出来るかもしれないし!」
興奮しているらしく普段領主邸のメンバーと話している時にはあまり出てこない単語がポンポン出て来る。勢いよく言われて思わず顎を引き、はっ、と短く息を吐いた。
「そうは言っても、多分すごく危険なことよ? 魔物は魔力の影響を除いても凶暴な野生動物のようなものだし、周囲は何もない荒野で、近づける人間だって限られているわけだし」
「う……それは、全然怖くないとは言わないけどさ。でも、私にも出来ることをしたいって、思っちゃったんだもん。勿論、私一人でそんなところまで行けないから、助けてもらわなきゃいけないとも思うし……」
もごもごと言った後、マリアは少し俯いて、ちらり、と黒い瞳を上目遣いにメルフィーナを見た。
「ほんとのこと言うと、聖女としてーとか、高潔な気持ちがあるわけじゃなくってさ……オーギュストは私の護衛をしてくれてるから、今年の討伐には参加できないでしょ? 顔には出さないけど、気にしてると思うんだよね」
「マリア……」
「あ、勿論他のみんなのことも心配してるよ! アレクシスにだって危ない目には遭ってほしくないし、ウィリアム君が思いつめて進路決めるようなことにならなきゃいいなって思ってるし。ええと、別にオーギュストのことだけってわけじゃないから!」
こんなに分かりやすい反応も、そうはないだろう。
まるで前世の少女漫画を読んでいる時のような、少し気恥ずかしく、甘酸っぱい気持ちになってしまう。
「マリア、それって、ツンデレヒロイン仕草よ」
「うっ……いや、ヒロインとかじゃなくて、いつも一緒にいて、守ってくれて、え、エスコートとかしてもらってたら、何か自分に出来ることがあるなら返したいって思うのは自然なことだし、大体私はツンデレ属性とかないし……」
顔を赤くしてモゴモゴと言うマリアが微笑ましいと思う反面、この展開をどう受け止めるべきかとちらりと思う。
マリアはいい子だ。忍耐強く、努力が出来て、前向きで明るい。普通の女の子とは言うけれど、嫌味なところはまるでない善良な少女と言えるだろう。
反面、持っている力は世界を変えかねないほどに強いものだ。権力と結び付ければあらゆるものを手に入れ、かつ壊すことさえ可能なほどに。
「……オーギュストの他に魔力の耐性の強い騎士をつけて、遠くから確認するだけなら、どうかしら」
「いいの!?」
「危ないことをしてほしくはないけれど、マリアのしたいことを駄目だという権利は私にはないしね。――マリア」
「う、うん」
改まって名前を呼ぶと、マリアはぴんと背筋を伸ばす。緊張した面持ちに、メルフィーナも真剣な表情で告げた。
「この世界では、あなたは成人として扱われる年だし、その判断に責任を取らなければならない年齢でもあるわ。だから私も、あなたの選択を友人として尊重するし、出来るバックアップはさせてもらう。でも、絶対に無理はしないでほしい。この世界のためとか、誰かのために自分を犠牲にするような選択をしないと、友達である私と約束してくれる?」
マリアが最終的に誰を選ぶのか、それとも選ばないのか。それはメルフィーナにはどうしようもないことだ。
だからせめて、彼女の持つ能力を誰かに利用されるようなことにはならないで欲しいと思う。
「うん。約束するよ、メルフィーナ」
なんだそんなことかと、安心したように笑ってマリアは頷いた。
「私は結構わがままだからね。自分のやりたいことをするし、駄目だと思うことを誰かのためにやるのは、柄じゃないよ。ヤダなぁって思った王宮からだって逃げ出したくらいだもん」
「ふふ、それがいいわ」
任せて、と言うように握りこぶしを作る仕草をするけれど、その細腕には全くこぶが出来ていなくて、くすくすと肩が揺れる。
「もしこの先、あなたの望まないことをさせようとする誰かがいたら、私の所に逃げ込んできてちょうだい。必ず助けになるから」
「うん、えへへ、頼りにしてる」
お互い少し気恥ずかしく笑い合って、マリアは気が抜けたようにぽすりとベッドに横たわった。今夜はこのままここで寝ていくつもりらしい。
貰った手紙を元通り畳んで麻縄でくくり、机の引き出しに仕舞って、メルフィーナもベッドの隣に潜り込む。
「それにしても、オーギュストの気持ちなんてよく分かったわね。私は彼のことは、正直アレクシスより何を考えているか分からないと思う事の方が多いわ」
本音がどこにあっても、オーギュストがそれを表に出すイメージは全然ない。首を傾げると、マリアはあはっ、と笑った。
「それはあれよ、女の勘、ってやつ?」
途端に胡散臭くなったなと思わないでもなかったけれど、やる気に満ちて拳を握っているマリアは聖女であり、本人は今のところ認める気はなさそうだけれど、おそらく恋する乙女である。
――本当に、この先どうなるのかしら。
自分自身がゲームの運命から逃げ出すことを決めたとはいえ、こんな展開になるとはさすがに想像もしていなかった。
プルイーナを根絶することが出来れば、喜ばしいことだ。毎年のように大きな負担を掛けて討伐する必要がなくなり、悲劇の末にこの世を去る騎士や兵士たちがいなくなり、残された家族の悲しみも生まれなくなる。
けれど、北部のありようは製糖事業に手を出した以上に大きな変化が訪れるかもしれない。それは大きな波になって北部を、そしてメルフィーナの運命を揺るがす可能性もある。
――今はまだ、なにも分からない。
「気を付けて行って、無事に戻ってきてちょうだい。約束よ、マリア」
「うん! 何かお土産買ってくるよ!」
明るく言うマリアに微笑んで、今はただ、彼女が無事であることを祈ろう。そう思うメルフィーナだった。




