361.画家への依頼と幸せな涙
「初めまして、シャルロッテと申します。この度はお時間を取っていただき、まことにありがとうございます」
硬い口調からは緊張しているのが伝わってくる。青い瞳は思いつめたような様子でじっとメルフィーナを見つめていた。
透き通るような白い肌に健康的な薔薇色の混じる頬、赤銅色の豊かな髪は結いあげて結ばれており、長いまつ毛に縁どられた大きな瞳は神秘的な濃いブルー。
父親について絵画の修行をし、エンカー地方までついてきたというだけあって、冬服の上からでもすらりとしているけれど均整の取れたプロポーションであることが見て取れる。
マリーは共に暮らして二年以上が過ぎても時々見惚れるような美少女だし、メルフィーナ自身がヒロインのライバルとして設定されているだけあってそれなりの容色であるけれど、シャルロッテは十代の後半とは思えない、色気を含んだ息を呑むような美しさの持ち主だった。
なるほど、貴族の囲われ者になる選択が候補に入るわけだと納得する。彼女欲しさに高価な顔料や画材を買い与える富豪はいくらでもいるだろうし、既に実際に声を掛けられていてもなんの不思議もない。だからこそ、彼女もそこまで思いつめてしまったのだろう。
「初めまして、メルフィーナ・フォン・オルドランドよ。どうぞ楽にしてちょうだい」
マリーが淹れてくれた紅茶を勧め、メルフィーナもカップに口を付ける。
「素描は見せてもらったけれど、あれは彫刻のデザインのために描かれたものでしょう? 普段はどんな絵を描いているのかしら」
「私は、いつもは父の助手をしているので、板を磨いたり、地塗りや顔料を挽いたりしています。木炭を焼いて筆を作るのも、私の仕事で、絵は、父の見様見真似が多くて、見本で見ていただける作品はありません。……でも、素質はあると父も言ってくれています!」
「そうなのね。画家はすることが多くて大変よね。卵もたくさん使うでしょう?」
「はい……特にこちらに来る前は、大きな絵の仕事が多かったので、一日中卵を割る日もあったくらいでした」
メルフィーナが頷くと、シャルロッテはほっとしたように表情を綻ばせる。
こちらの世界の絵画は一般的にフレスコ画と呼ばれる技法が主流であり、少なくともメルフィーナは油彩で描かれた絵を見たことはない。
前世と同じ技法ならば、張り合わせた板を磨き膠を塗りつけ、更に石膏をその上から塗ったものに顔料と溶き卵を混ぜたもので描いているはずだ。
「私は二年半前に領主になったばかりで、ずっと領地の開拓に力を注いでいたから、この領主邸も殺風景でね。そろそろ絵を飾ったりタペストリーに凝ったりしたいと思っていたの。シャルロッテはどんな絵を描きたいのかしら」
「どんな絵、ですか……?」
「ええ、一言に絵画と言っても、宗教画や風景画、静物画や肖像画と色々あるし、あなたが好きな題材があるんじゃない?」
「私は、絵のお仕事をさせていただけるならなんでも……注文していただけるなら、どんな絵でもその通りに描かせていただきます」
まるで途方に暮れたような表情で言われて、思わず苦笑を漏らすと、向かいに座ったシャルロッテはぎくりと体を強張らせた。
「ああ、今のは呆れたのではないの。職人に対して曖昧なことを聞いてしまったなと反省したのよ」
前世の感覚だと画家は得意分野の絵を描いてそれを販売するというイメージが強いけれど、こちらの世界では完全に受注制であり、絵の用途によってモチーフは注文主が決めるのが当たり前だ。
画家自体の立場もそう良い物ではなく、大工や靴職人と同じ職人の一種という位置づけで、著名な職業芸術家という側面はほとんど有していない。
たとえ画家個人に得意不得意があったとしても、顧客を前に何が不得意だと言葉にするのは難しいだろう。シャルロッテのように、性別によって目指すべき職業に就けないことがあらかじめ決まっている立場ならばなおさらだ。
「マリー、紙と木炭を用意してくれる?」
マリーは音もなく立ち上がると、応接室の引き出しから一番大判の植物紙の束を持ってきてくれた。
領主邸ではマリアやロド、レナが手習いを続けている関係で、自由に使える植物紙が常備されている。白い紙を前に、シャルロッテははっと息を呑んだ。
「見本の絵がないのでは私も注文をしにくいし、リカルドの顔を立てて雇った形になってはあなたも仕事がやりにくいと思うの。今日はお互いを知るために、デッサンでもしながらお喋りをしてみない?」
シャルロッテは頷いて、震える手で植物紙の表面を撫でた。
「あの、この紙、本当に素晴らしいです。父に一枚だけ分けてもらったのですが、表面はなめらかで、でも適度にざらついていて、木炭の乗りがすごく良くて……」
「貰った素描もみっしりと描きこまれていたものね。特に題材は決めないから、あなたの描きたいものを描いてみてちょうだい」
紙と言えば羊皮紙であるのが当たり前で、そして羊皮紙は非常に高価なものだ。絵を描く素材として認識されていないということもあり、シャルロッテが紙に絵を描いたのは先日の素描が初めてだったのかもしれない。
濃いブルーの瞳は焦がれるように植物紙を見つめているけれど、なかなか木炭を手に取ろうとはしない。メルフィーナは一枚植物紙を引き寄せると、木炭を握り、その上に滑らせた。
さりさりと、炭が紙を擦る音がする。鉛筆のような気分だったけれど思ったより木炭は硬く、かといって力を入れるとぽきりと折れそうだ。
隣に座るマリーもソファの後ろで立っているセドリックも静かにメルフィーナの手元を注視していたけれど、じわじわと、複雑そうな空気になっていくのが伝わって来る。
「……フェリーチェを描いてみたのだけれど、どうかしら」
「……お上手だと思います」
「ええ、とても独創的で、味があるかと」
この二人がこれほど分かりやすい忖度をするのは、初めて聞くかもしれない。四つ足の生き物が元気に草原を走っているのは辛うじて分かるけれど、我ながら子供が描いたようなものになってしまった。
「あの、領主様……この空の丸はなんでしょうか」
「記号化された太陽ね」
「その、花? が宙に浮いているのは」
「楽し気な雰囲気になるかなと思ったのだけれど……おかしいわね、きっと」
「いえ! その、ええと、とても楽しそうです」
「いいのよ。私には絵の才能はなかったみたい。場を和ませようと思ったのに、恥ずかしいわ」
図案通りに刺繍を刺すことは問題なく出来るのに、生憎絵心には恵まれなかったらしい。苦笑すると、シャルロッテはようやく植物紙を手元に引き寄せて、木炭を握った。
「あの……よろしければ、領主様を描かせていただいてもよろしいでしょうか」
「構わないけど、私でいいの? マリーの方が可愛くて描きやすいと思うけれど」
「メルフィーナ様、お戯れを」
マリーが少し拗ねたように言うのに、メルフィーナがくすくすと笑う。シャルロッテはそれを見て、再度許可を得ようとはせず、木炭を握った指を動かしはじめた。
最初は全体的な輪郭を描くように線を引き、それを重ねることで陰影が生まれていく。下ろした髪の緩やかなウェーブ、すっと通った顎に整った目鼻立ちが追加されていく。
特に印象的なのは瞳だった。あまり木炭を載せずに薄く線を重ねただけなのに、光が宿っていると感じる鮮やかな描写だった。やはりこの世界の主流の無表情、もしくはアルカイックスマイルとは違う、生き生きとした絵だと思う。
応接室はしばらく沈黙が落ち、木炭が紙を滑る音だけが響く。シャルロッテもいつの間にか硬く強張った表情ではなく、食い入るように植物紙を見つめ、目は大きく見開かれている。
口元には、楽しくて仕方がないというように笑みが浮いていた。
――本当に、絵を描くのが好きなんだわ。
料理をしている時のエドや、開発に携わっているときのユリウスとレナのような、好奇心と情熱に満ちた表情だ。色気のある美人だという印象が剥げて、少女らしいあどけなさすら感じる。
夢中になったら周りが見えなくなるらしく、一枚の素描を完成させると二枚目はメルフィーナの最初の絵に引きずられたように、草原を走る犬の絵だった。ゴドーが飼育している猟犬によく似た垂れた耳の大型犬で、疾走で耳が跳ね、広げた前足と後ろ足は躍動感を感じさせる。よく晴れた草原を走り抜けている犬は楽しそうで、正面から風が吹いているのを感じるほどだった。
次は建築途中の橋の絵で、その次は見慣れない街並みだった。彼女が立ち寄ったどこかの街なのだろう。
途中でマリーがお茶を淹れ直してくれて、エドのおやつも持ってきてくれたけれど、もうシャルロッテは周囲の音や気配に反応することもない。完全に意識は絵の中に入ってしまっているようだ。
「どれも素敵な絵だわ。そう思わない?」
「紙と木炭だけで、こんなに奥行きのある絵が描けるんですね。公爵家には色々な絵がありましたが、そのどれとも違う気がします」
「この橋の絵は特にいいわ。完成してしまったら、建設途中の状態を見ることは出来なくなってしまうから、出来れば長く資料として残したいわね」
「エンカー地方は変化が激しいので、毎年丘の上から見たエンカー地方の姿を残してもらうのもいいかもしれませんね」
マリーの言葉に、それは素敵だと頷く。
「私は、メルフィーナ様の描いた絵も好きですよ」
「ふふ、フェリーチェには内緒にしておいてちょうだい。あの子ったら、最近拗ねたらおやつを貰えるって覚えちゃった気がするのよね」
「またゴドーに預けると言えば、節制する気になると思います」
向かいでシャルロッテが、額に浮いた汗をぐい、と手で拭う。木炭で汚れた手でそうしたので額が黒く汚れてしまったけれど、そうした仕草も無意識だったのだろう、絵を描くことにどっぷりと浸っていて、本人はまるで気づいていない様子だ。
折角の美人が台無しだと思うけれど、緊張していた時より、ずっと愛らしく見える。
「顔料も取り寄せなければね。絵の材料にはさすがに伝手がないけれど、頼めばアントニオがどうにかしてくれるかしら」
「大獅子商会に使いを出しておきましょう」
「あとはアトリエね。領主邸の中に部屋を作ってもいいけれど、父親の手伝いもしていると言っていたし、正気に戻ったら本人に聞いてみましょうか」
メルフィーナ達がおやつを食べ終わっても、シャルロッテの集中力が途切れることはなく、さすがにそろそろ帰らなければ父親が心配するだろうという頃合いになってセドリックが声をかけたことで、ようやくその集中力は途切れることになった。
「申し訳ありません! こんなにたくさん紙を使ってしまって、あの、夢中になってしまって、私ったら……」
「いいのよ。この橋を描いた風景画と、領主邸の絵と、犬は私の愛犬にしてもらって、それから領主邸の住人の絵ね。枚数が多いから大変だと思うけど、大丈夫かしら」
「あの……それは、その」
「よろしくね、シャルロッテ。画家としてのあなたの作品に、期待しているわ」
シャルロッテのはっと息を呑む音が響き、本人もそれに驚いたらしく、慌てて両手で口を押える。
「! はい! あの、よろしければ、私のことはロッテとお呼びください、領主様」
「では、私のこともメルフィーナと呼んでちょうだい。周囲の人はみんな、そう呼んでいるから」
ぱっと目を見開いて満面の笑顔になり、それからしみじみと幸福そうに、小さな涙の粒を拭った。
もう顔のあちこちが木炭の黒い汚れだらけで、メルフィーナがハンカチを差し出すと、ようやくそれに気づいたらしく、ロッテは恥ずかしそうに白い頬を真っ赤に染めたのだった。