352.少女たちの打算と本音
領主邸に来た直後、ラッドとクリフと共にそれまでの住処を引き上げるために一度領都に戻った時にメルフィーナに購入を頼まれたものの一つに、天秤があった。
街の道具屋では見つからず、それまで所属していた人足の組合とはあまり折り合いも良くなかったので、ラッドの顔見知りの錠前ギルド員を通して発注し、後日領主邸に届けられることになったその天秤は、今でも厨房で日々活躍しているものだ。
――料理に大切なのは計量と火加減だと、真っ先に教えてもらったな。
今となっては求めた味付けにある程度どれくらい素材や調味料が必要かを感覚で理解できるようになったけれど、それでもパンに関してはきっちり計量することにしている。
丁寧に挽いて篩われた白い小麦粉からは真っ白なパンが。麦の色が残った粉からは香ばしい茶色のパンが焼き上がる。バターをうんと増やしてサクサクのクロワッサンにするのもいい。
真っ白なパンはサンドイッチやパンプディング、卵とミルクに砂糖を贅沢に使ったフレンチトーストや、ぶ厚く切って内側にホワイトソースをベースに煮込んだ肉や野菜を入れてチーズをふりかけグラタンにしたものもこれからの季節は喜ばれるだろう。
茶色の香ばしく焼いたパンはシチューに合わせたり、チーズと蜂蜜を載せて食べるとしっかりとした土台に蜂蜜の甘さとチーズのしょっぱさが混じり合ってとても美味だ。チーズとベーコン、くるみや干し葡萄を包み込んで焼き上げるのもいい。
毎日の食卓の根幹にあるのがパンだ。だから一番丁寧に作るし、美味しいと思ってもらいたい。
「あのさ、こんな言い方はズルいって思われるかもしれないけど、ノーラも、全然悪い子じゃないんだよ」
道具を用意してくれていたアンナが、低い声で言う。いつものぽんぽんと出て来る口調とは違っていて、それが少し気まずく感じる。
「あんたもラッドさんやクリフさんも、大きな街で色んな人と関わってきたからなのかな、なんか基本的に穏やかって言うか、相手に合わせるのが上手いよね。私、領主邸に来たばっかの頃は驚いたもん。メルフィーナ様やマリーさんやセドリック様はともかく、あんたたちは平民と聞いてたのに村の人たちと全然違うなあって」
「そんなに?」
「うん、領主邸での生活に慣れたら、村の男の子たちなんか雑で乱暴だなって思うようになったもん。ロドとレナはエリさんに大分躾けられたっぽいけど、最初はそういうとこあったでしょ」
「あー……でもロドは、いい奴だし、男ならあんなもんじゃないかな。いや、ウィリアム様とかセレーネ様は全然違うけど」
レナに至っては、エドから見ても小さな子供だ。それでも衝動的で性質の悪い悪戯をしないだけ、かなり上等な子供の部類だろう。
「そう、だからさ、あんたには強引で困った子に見えるかもしれないけど、ノーラもいい子なのよ。家の手伝いもしっかりしてて弟たちの面倒もよく見てる働き者だし、物怖じしなくてはっきりものを言うけど間違ってると思ったらちゃんと謝れる子なの。領主邸に奉公に上がるメイドが選ばれた時、あたしとノーラが最後に残ったくらいだったんだから」
アンナが手伝いに入った頃、その態度でマリーに叱責されるのはよくあることだった。エド自身、メルフィーナとの距離感を間違えているアンナを窘めたことすらある。
なるほど、思い返せばあの頃のアンナと今のノーラは、少し似ているかもしれない。
「あたし、兄さんがいるんだけどさ、六年くらい前だけどさ、その年も畑が不作で、兄さんは、家族が冬を越すために売られたんだ」
その言葉に驚いて振り返ると、アンナはこちらに背中を向けていた。作業台の上に道具を広げ終えて、石窯の傍にある窓の傍に置いてあった酵母の瓶を覗き込んでいる。
「農奴として、大銀貨五枚で売られていったの。今でも父さんが商人から受け取った銀色の硬貨の色を、時々思い出すよ。あの五枚と昨日まで自分の世話をしてくれていたお兄ちゃんが、同じ価値だって信じられなくて、でも、父さんも母さんも辛そうだったから、なんにも言えなくてさ」
平民が一度農奴になってしまえば、身分が回復することはほとんどない。農民にとって身分を買い戻すための金貨三枚は途方もない値段で、家族を買い戻すより次の冬に他の家族を売る方がよほど現実として身近なものだということは、エドも知っている。
はるばると国を横断して運ばれて来た小麦粉や調味料を日常的に使っていると感覚が麻痺してくるけれど、大銀貨は大金だ。特に都会から離れるほど価値が上がる。
当時のアンナの家は、それで冬を越すことが出来たのだろう。
「あの頃は畑も野菜がぼそぼそって植わってるだけで、豆もそんなに取れなくてさ。今のみっしりと緑が詰まってる畑を見るたびに、なんであの頃はあんなだったんだろうって思うよ」
「うん……」
「あたしが領主邸のメイドになるって決まったのは、別にあたしがノーラより出来がよかったからってわけじゃなくてさ……ルッツさんが、メルフィーナ様に頼んでくれたんだ。支度金の代わりに、あたしのお兄ちゃんを取り戻してくれないかって。ルッツさん、貴族が苦手で怖いのに、メルフィーナ様にお願いしてくれてさ」
いつもは勝ち気なアンナの声が、少し震えている。今は自分に顔を見られたくないだろうと、エドももう振り返ることはせず、計量した小麦粉をボウルに入れて、塩を計る。
「それで、お兄さんは?」
「幸い見つかって、家に戻ってきたよ! 今は実家の畑を耕して、去年村からお嫁さんも貰ったんだ」
「そっか、よかったな!」
ほっとして、自然と口元に笑みが浮かぶ。
同時に、領主邸に来たばかりの頃のアンナがあれほどやる気を空回りさせていた理由が、二年過ぎた今になって、やっと理解出来た気もした。
毎日顔を合わせて時には声をあげて喧嘩をしたこともあったのに、案外傍にいた女の子のことを、何も知らなかったんだなとも思う。
「あたしさ、メルフィーナ様に、返しきれない恩があるって思ってる。でもそれはあたしだけじゃなくて、エンカー地方で暮らしていた皆がそう思ってるよ。メルフィーナ様の役に立ちたいし、領地を盛り上げていきたい。何より、メルフィーナ様を支えたいって」
きっとそんな風に救われたのはアンナとその家族だけではないんだろう。
たくさんの人が、色んな形でメルフィーナの存在に救われた。
エドもその一人だから、よく分かる。
「それでさ、まあ、これはあんたにはあんまりいい気がする話じゃないかもしれないけど……エンカー地方の年頃の女の子の夢っていうのがあってさ。みんな、メルフィーナ様のお子の乳母になりたいって思ってるんだ」
「うん?」
「ラッドさんが結婚した時はちょっと下の世代の子たちはみんな色めき立ってさ。エリさんはメルフィーナ様にすごく信頼されてるし、こんなこと言うのもなんだけど、エンカー村とメルト村のどっちから乳母が出るかって結構張り合ってるとこがあってさ。乳母になれたらメルフィーナ様を直接支える仕事が出来るし、その子はメルフィーナ様のお子の乳兄弟ってことになって、将来はお傍でエンカー地方を支えていくことが出来る可能性が高いじゃない?」
「……えっ、もうそんなことまで考えてんのかよ!?」
最近は随分落ち着いたけれど、メルフィーナ自身が多忙な日々が長かったことと、なにより夫であるアレクシスとは別居状態ということもあって、エド自身、メルフィーナが「奥様」という意識がとても薄い。
時々訪れるアレクシスはメルフィーナと仲が良いし、豆の莢剥きも手伝ってくれるいい人だけれど、やはりこの屋敷の主人はメルフィーナで、アレクシスを「旦那様」と思う機会はなかった。
メルフィーナが母親になって子供を腕に抱いている姿など、想像さえしたこともない。
「考えているのよ。当たり前よ」
それなのに、アンナの答えはきっぱりとしていて、少し呆れているようでもある。
「あんたは領主邸の料理長で、ラッドさんやクリフさんと同じ、領主邸内で家族を持つことが許されるメルフィーナ様の信頼の厚い最初の頃からの使用人でしょう。あんたと結婚して子供が生まれれば、乳母に選ばれる可能性はかなり高いのよ。同じ時期に子供を産むことが出来ればほとんど確実に、そうなるでしょう?」
「いや、それは、分かんないけど」
「あんたも、今メルフィーナ様に美味しいご飯を作って食べてもらってそれでいいと思っているかもしれないけど、メルフィーナ様から学んだ技術を自分の子供や孫に伝えて、メルフィーナ様のお子様やお孫様に代々仕えるつもりじゃないの?」
全然そんなこと考えたことなかった。
エドの望みは、今日と変わらない明日が来て、それがずっと続くことだ。季節が変わるごとに温かいものを、冷たくてあっさりしたものをとメニューを考えて、組み合わせて、食べる人が幸せそうな顔をしてくれたらそれでいい。
アンナとは……多分ノーラや、エンカー村の人たちとも、見えているものが全然違っていた。
「ノーラはたまたま、ベントルさんが領主邸の出入りの商人だからあんたに関わる機会が多くてあんな感じになっちゃってるけど、根っこの部分にあるのはメルフィーナ様の傍でメルフィーナ様を支えたいって気持ちだよ。あたしたちも年が明けたら成人するし、そうしたら結婚相手を探すことになるから、焦ってるって部分もあると思う」
「えっ、アンナも結婚するのか?」
「そりゃ、するでしょ。メイド長目指して一生独身で使用人をする道を進むかもしれないけどさ、あたしだって一応女の子なんだから、村でいい人が見つかればメイドを辞めて所帯を持つことだって……」
その言葉は段々尻すぼみになって、やがて途切れてしまう。
アンナだってメルフィーナをとても深く敬愛しているのは伝わってくる。ずっとその傍で働きたいという気持ちはエドと変わるところはないだろう。
けれどエリがそうだったように、女性は結婚すれば、まして子供を産めば勤め先を辞めるのが一般的だ。子供の世話があるし、母親として、女主人として家庭を回さなければならない。
ついさっき、こんな話が始まるまで、メイドと料理長という立場であっても自分とアンナは同じ年頃の対等な相手だと思っていたのに、ずっと変わらなければいいと願っていた……それを当たり前に願えていた自分と、すでに変化が目の前にあるアンナは、なんて不平等なんだろうと思う。
「あのさ、エド。あんたは別に、誰か結婚したい相手がいるわけじゃないんだよね?」
「え、あ、うん」
「じゃあさ、あのさ、あんたさえよければ……あたしと結婚しない?」
「は!? なんでそうなるんだよ!」
驚いて、思わず大きな声が出ると、アンナも負けじとばかりに言った。
「メルフィーナ様は使用人同士の結婚を嫌がる人ではないと思うし、ラッドさんがそうだったように、城館内で生活を許してもらえると思う! あんたはこれまで通り料理長として、あたしはメイドとして働けばいいし、子供が生まれたら男の子ならあんたが料理を、女の子ならあたしがメイドの仕事を教えて、ずっとメルフィーナ様にお仕えしていければ、いいって思わない!?」
「アンナ……」
「あたしは、それがいい。今更村に戻って、村の男の人と所帯を持って子供を産んで育てて、村人の一人として生きていって、それで今以上に幸せになれるとは思えないの! メルフィーナ様の傍にいたいし、支えていきたい。あたしが男だったらこんなことで迷わずに済むのにって思うけど、でも、そうじゃないんだもん!」
アンナは異性の中ではずっと一緒にいた相手で、気心も知れている。
自分にはぶっきらぼうだけど素直で勉強熱心だし、メルフィーナに恥をかかせたくないという一心で立ち振る舞いも身に付けていた。
ノーラとそうなるのは全然想像もつかないけれど、今の延長でアンナとずっと一緒にいるのは、なんとなく悪くないとは思う。
でも、焦がれるような気持ちがないまま一番身近だからという理由でそうしていいのか、エドには分からない。
「僕……俺さ、すごく、子供っぽいけど、そんなこと考えたこと、今までなくて」
「うん」
「ちゃんと、考えさせてほしい。そうでないと流されたみたいになるし、それはアンナにもなんか、失礼だと思うから」
「……うん」
分かった。そう頷いて、アンナは炭を取ってくると言ってあっさり厨房を出ていった。
小麦粉に少量の砂糖と塩、酵母水と混ぜ、パン生地を捏ねている間もなんだかずっとそわそわと、気持ちが落ち着かない。
嬉しくて浮かれているというのとは違うし、かといって、突然想像もしていなかった未来の選択をつきつけられて焦っているというのも違う。
メルフィーナを支えたいから、乳母になりたいから、代々支えていきたいからという理由で結婚を申し込まれたのも、なんというか、複雑な気持ちではある。考えておくなんて曖昧な返事ではなく、もう少し気の利いたことは言えなかったのかと早速後悔もしていた。
でも、アンナはあっさりしていたし、実際将来のための提案をしてきただけなのだろうし。
――傷つけたわけじゃないならよかった。
うん、と頷きながらパン生地を捏ねていくうちに、段々気持ちも落ち着いてくる。
やっぱり、料理はいい。無心になれるし、夢中になれる。
自分にとって大切なのは変わらず、この厨房を守り領主邸の人たちの腹を満たすことだ。
それをずっと続けていくために、変わらなければならないのだとしたら……それを受け入れるための覚悟を決めるのも、いいのかもしれない。
自然とそう思えたのが、我ながら少し不思議な気持ちだった。
* * *
厨房を出て炭を保管している物置きに向かって一歩、二歩と歩くうちに、足早になっていき、最後は走り出していた。
幸い廊下には誰もいなかったけれど、マリーやセドリックに見られたら久しぶりに叱られていただろう。
顔が熱く、瞳が潤む。物置きに入ってドアを閉めると、脚に力が入らずにずるずるとドアに背中を預けたままへたり込んでしまった。
「ううー……」
ちゃんと、普通に言えただろうか。変に声がかすれたり、震えたりしなかっただろうか。
もっと可愛く振る舞えればよかったかもしれないけれど、そんなことが出来るならこんな苦労はしていない。ノーラのように腕に抱き着いて胸を押し付けるなんて以ての外だし、効果がないのも明らかだ。
エドがメルフィーナのことしか考えていないのはアンナだってよく分かっている。それに、自分のこんな女々しくてじめついたところなんて、エドには絶対に見られたくないし、知られたくない。
気が強くて対等にものが言えて気の置けない、友達みたいな女の子の自分以外を見せたくないのに、特別な女の子に見られたい。
我ながらひどく矛盾していると思うのに、そう思う気持ちを捨てられない。
両手で顔を覆って、何度も深呼吸して、それでも胸が痛いくらいに打ち付けていて、中々呼吸が治まってくれない。
せめて頬や耳が燃えるように熱くなっているのが治まるまでは、誰にも会いたくないし、こんな自分を見られたくもなかった。




