350.使用人の待遇と変わった領主
「それにしても、エドにももうそんな話が出てしまうのね」
前世に比べてこちらの世界が独り立ちや結婚適齢期がとても早いことは知っていたし、メルフィーナ自身十六歳で結婚したけれど、なんとなく、エドはロドやウィリアムも含めてまだまだ子供の範疇という気分でいた。
あと数年もすれば次の世代が生まれてきてもおかしくないと思うと、不思議な感じさえする。
「使用人たちの結婚の制限をすることも出来ますが……」
「まさか、そんなことしないわ。彼らは私の囚人でも奴隷でもないもの」
とはいえ、自由に生きてほしいというのは、メルフィーナの立場では一歩間違えば非常に無責任な言葉にもなってしまう。
貴族が使用人の結婚について制限や禁止を言い渡すのは、よくあることだ。その場合使用人は意中の相手と上手くいけば、退職してから結婚することになる。
これには女性だけではなく、従僕や厩舎係、料理人といった男性使用人も含まれる。既婚者は基本的に雇い主がそれを許したか、職を得た時点ですでに結婚していたかのどちらかだ。
この世界は封建制と密接に結びついており、雇用関係が家父長制と紐づけられていることに関係している。雇い主は家長であり、使用人たちはそこに服従する疑似的な家族という形だ。かつてメルフィーナがそうだったように、結婚は家長――父親の判断と許可が必要で、後ろ盾のない使用人に至ってはある日勝手に結婚相手を決められることすらある。
その代わり家長には家族を保護し導く役割があり、使用人たちの身分や生活を保障するのは雇っている側の義務とされている。「自由にしていい」という言葉は、それらを担保しないと取られても仕方のない責任のない言葉と表裏一体だった。
なにより、この世界の使用人というのは非常に給与が安い。最上位の叙任騎士の年収が金貨三十枚程度なら、使用人の年収はおおむね銀貨四、五枚程度、前世の感覚だと年収五万円そこそこなので、まさに雀の涙である。
その代わり衣食住は全て雇用主が負担することになり、礼節や技能などの教育もその中に含まれることになる。
そのため、使用人の方も使用人を職業としているというより、実家や商家から行儀見習いとして預かった者や納税の代わりに家族の一人を奉公に出しているという側面が強い。一生その身分で生きる者はごくわずかで、基本的には上級使用人以外は若い頃に一時働いて立ち振る舞いを身に着け、いずれ転職する形になるケースがほとんどだ。
「ラッドの結婚もあっさりと許されていたので、そうではないかと思いました」
「これも前世の感覚なのよね。使用人を囲い込むのはその必要があるからという理屈も分かっているつもりなのだけれど……」
人の移動は情報の移動と同義であり、人権意識の薄いこの世界において貴族の使用人の移動や人間関係を管理することはある意味当然の措置といえる。例えば明日、マリーが他の貴族家の侍女に転職すると言われてしまえば、現在の領主邸内の主だった産業の基幹技術のほとんどが流出することになるだろう。
だからこそ使用人が雇用先を得るにはその振る舞いの責任を取る後見人や人品を保証する紹介状が必要となるし、譜代と呼ばれる、家ごと代々貴族に仕える家系というものも存在する。
それでも結局、最後の最後はこの人になら騙されても仕方がないと思える人を傍に置くしかないのだろう。
「生活を保障することはできても、人生はその人だけのものだもの。貴族らしくない考え方だと分かってはいるけれど、許されるなら自分の選んだ相手と、心が望んだ時に結ばれるのが一番いいと思うわ」
「メルフィーナ様らしいです」
「私が言えた義理でもありませんしね」
公爵家を飛び出してメルフィーナの秘書に転職した上に、公爵令嬢として認めるというアレクシスの提案を突っぱねたマリーがあっさりと言う。
元々は侍女として傍にいたという事情があっても、メルフィーナでなければ公爵家との対立を恐れて彼女を雇う貴族家は北部にはなかっただろう。それを思うと、彼女とも不思議なめぐり合わせだと改めて思う。
「エドに関してですが、現在は仕入れの経費は私が品目を確認後に支払いをしていますし、エド自身はあまり給金を貰っていないことをそれとなく広めるほうが早いかもしれませんね」
通常なら引き抜きの声が掛かる懸念がありますが、エドに限ってはその心配はないでしょうしとマリーが思わし気に呟く。
エドは料理人として雇用したわけではなく、領主邸で暮らしてメルフィーナの手伝いをしているうちに才能を開花させていった。エンカー地方の発展と共にメルフィーナが厨房に入り浸る時間が無くなって、そのカバーをしてくれているうちに今の状況になったので、実は給与は他の使用人たちと変わらない水準のままだ。
「みんなには、出来ればずっとここで働いてほしいし安定した生活を送って欲しいから、そのうちきちんと整備しなければと思っていたけれど、改めて考えると悩ましいわね」
結婚した折にラッドには一家を養えるだけの給与を渡すことになったし、クリフもいずれ好きな相手が出来ればそうなるだろうとラッドと同じ水準の給与にしているけれど、エドは未成年である。ラッドとクリフとも同郷の誼で世話になっていた流れで、兄弟というわけではなく、詳しく聞いたことはないが頼れる両親がいないらしい。
正式な後見人もいないため、扱いが難しい一面もある。
後見人と紹介状なしでは仕事に就くのが難しい世界で、領主邸に来た初日に彼らと出会い、雇用出来たのはとても運がよかったのだとしみじみと思う。
「……今回の件はともかくとして、エドのお給料も、上げたほうがいいかしら」
「ラッドとクリフを後見人として管財権を与えるという手もありますが、他の使用人との兼ね合いもありますし、未成年の状態で料理人の給料を渡すのはあまり望ましくないと思います。少なくとも、エドの成人を待った方がいいのではないでしょうか。これはラッドとクリフを信用する、しないという話ではありませんが、後々余計なトラブルが起きる可能性もありますので」
「私もそう思います。今の給与で不足だと感じるならば、メルフィーナ様の手元で貯めておいて、成人を迎えた折に祝い金の名目で支払うのが良いのではないでしょうか」
セドリックとマリーに告げられて、メルフィーナも頷く。
「成人しているメイドたちの給料も、段階的に上げていきましょう。エンカー地方全体の物価も上がっているし、普段頑張って働いてくれているのだもの、お休みの日に羽を伸ばせるくらいにはしてあげなければね」
技術の開発に関してはともかく、貴族の立場上、この世界を動かしている慣習や慣例に前世の感覚を持ち込むのは慎重になるべきだと思っている。
それでも、手の届くところで目の瞑れる範囲ならばある程度は融通を利かせてやっていきたい。今更社交界での評判など気にもならないし、たとえ表に出たとしてもあそこの女領主は変わり者だと笑われれば、それで済むことだ。
「あ、そういえばセドリックのお給料の件なのだけれど、せめて公爵家が払っていた年収くらいは私も支払わせてもらえないかしら……」
セドリックに至っては使用人どころか本人が伯爵という身分を持っている。本来なら当人に護衛が付くような立場だというのに、エンカー地方に来てからこちら無給で働かせてしまっている。
「砂糖の利権だけで、孫子どころか五代は困らないほどの配当を頂くことになっています。これ以上頂いても使い道がないので、辞退いたします」
「えーと、マリーも、お給料増やせるけれど……具体的には三倍くらいに」
「私も、今以上に財産が増える話はご遠慮させてください。本当に、今でも困っているくらいなので」
あながち冗談でもない様子で、指先でこめかみのあたりを撫でるマリーに、苦笑が漏れる。
領主の立場であるメルフィーナにはお金はあればあったで使い道はいくらでもあるけれど、自らが事業や投資を行っているわけではない二人は、すでに金銭のために労働をする必要すらないのだ。
それでも自分の傍にいてくれて、ずっと変わらない献身を与えてくれる。
「二人ともありがとう。大好きよ」
得難く、替えが利かない人たちだ。大切にしていきたいし、そうしなければならない。
思わず口からこぼれた言葉にマリーもセドリックもぱちぱちと瞬きした後、照れくさそうに笑みを浮かべた。
「メルフィーナ様に出会ってから、ずっと幸せな気分なんです。ですので、お礼を言うのはこちらの方ですね」
「私も、メルフィーナ様と出会えなかった人生を想像するのも嫌になるほどです」
なんとも気恥ずかしい空気になり、エドを悩ませている問題も早めに手を打ちつつ、ロイドも交えて少しずつ使用人の給与を見直していこうということで、その場の話は終わることになった。
改めて中世水準の物価やお給料をこの世界の貨幣制度と照らし合わせてリストを作ったのですが、使用人のお給料のあまりの少なさに、作中では水増ししています。
過去のセドリックは女主人の護衛騎士も務まる最上級の騎士なので金貨35枚程度でかなりの高収入で、大工のリカルドは工房の運営費などは除き、可処分所得は金貨7枚程度かなという感じです。親方は徒弟の生活の面倒も見なければいけないので結構大変そうです。