344.時計と日々の素敵なこと
その日、エンカー地方には冷たい雨が降りしきっていた。
窓の外の雲はどこに太陽があるか分からないほどぶ厚く空を覆いつくしていて、しとしとと途切れることなく雨粒が落ちている。
ここ最近は連日鍛冶工房に入り浸っていたユリウス、レナ、ロドも、今日は領主邸に留まっている。手習いの続きをしているレナは、時々恨めしそうに窓の外に視線を向けていた。
「今日も工房に行くつもりだったのになぁ」
「レナ、ここの綴り、間違っているわ」
メルフィーナの指摘にはあい、と返事をしたものの、足をテーブルの下でぷらぷらと揺らしていて、手習いに全く集中出来ていない様子だ。隣のテーブルでロドとともに小さな歯車を弄りながら図面に手を加えていたユリウスも、それにつられたようにほう、と息を漏らす。
「無理に出かけて悪い風が入ったら、作業に関われなくなってしまうから今日は仕方ないね。熱で寝込んでいる間にどんどん設計と時計台建築の話が進んでいくくらいなら、一日くらい我慢したほうがいいさ」
そう言って、いたずら書きをしていた植物紙を指先でトントンと叩く。
「せめて、文字盤をどんなデザインにしようか考えよう」
「うん!」
「ユリウス様、今は手習いの時間ですよ。レナもちゃんと座ってちょうだい」
「しかしレディ、レナにはやりたいことをさせていたほうが、ずっと効率がいいと思いますよ。基本的な字はもう書けるのですし……」
「いけません。得意なことで身を立てるのは素晴らしいことですが、それは苦手なことから逃げていい理由にはなりません」
教育に関する考え方は色々だろうけれど、人生は決して楽しいことばかりではないのだとメルフィーナは知っている。何か困ったことが起きて、周囲に頼れる者がいなかったとしてもレナが自分で何とか出来るよう様々なことを学ばせるのは、幼い年齢のレナを親元から預かっているメルフィーナの務めだ。
ぴしゃりと言うと、レナは浮かしかけていた腰を再び椅子にぺたりと着けた。少し唇は尖っているけれど、ごめんなさいと呟いて、素直にペンを取る。
「デザインはデザインで考えて、後でレナの意見も聞けばいいだろ。ユーリ兄ちゃんはレナに甘すぎるんだよ」
ロドにまでそう諫められて、ユリウスもしゅんと肩を落とした。こうなるとあまり厳しく言えばユリウスの味方がいなくなってしまうので、メルフィーナも矛を収めることにする。
「私で良ければ聞きますよ、ユリウス様。あとでレナにも説明しやすいでしょう」
ぱっと表情を明るくすると、ユリウスは植物紙を広げてみせる。描いた円の中に十二分割された文字盤と時針、分針に線を引いて、色々なメモが走り書きされていた。
「初めての試みですし、二十四分割にするのもいいと思ったのですが、それだと文字盤がかなり巨大でないと逆に分かりにくいと思います。とはいえ視認性の高さのために盤面は大きいに越したことはありませんし、管理のしやすさを考えれば出来ればシンプルな意匠がいいかなと。雨風の影響を受けにくいようにひさしを付けることになると思いますが、いっそ文字盤は屋内に設置して時報として鐘が鳴る仕組みにするのもいい気もしますし。後は機構に極力影響を与えないように、針自体の重さを抑えていくことを考えていますが、その場合金属を薄く伸ばして作ることになると、きちんと熱処理をしないとすぐに錆びてしまうので。錆び防止にいっそ金でメッキをするという手もありますが」
「錬金術師らしい発想ですね。確かに金は錆びませんが、重さは相当ありますよ。それに、太陽が出ている間は光を反射して視認性が犠牲になると思いますよ」
芸術性に全振りするならばなくもないけれど、夜は暗くて見えなくなるまでセットで、黄金色は色々な意味で実用時計には向いていないだろう。
「ですよねえ。レディはどんな素材がいいと思いますか?」
一気にまくし立てた割には自分の考えに固執することもなく、ただ考えるのが楽しくて仕方ないという様子だった。結局こちらに視線が釘付けになっているレナも、ユリウスの隣にいるロドもこちらにキラキラとした……いや、もう少しギラついている感じの視線を向けて来る。
元々好奇心の強い三人ではあるものの、時計を造りたいとメルフィーナが提案してからはよほど興味をそそられたらしく、少々暴走気味の様子だった。
「そうですね……軽くて錆びない金属なら、真銀でもいいと思いますが」
「ああ、確かに真銀は軽くて丈夫ですね。高価で加工には専門の職人が必要ではありますが、それだけの価値はあると思います。色は、盤面を黒にしてしまえばいいかもしれません!」
今すぐ素材の発注と職人の手配をと言い出しそうなユリウスに苦笑して、手のひらで制す。
「いえ、もっとシンプルに木製でいいと思いますよ。内部の機構は金属を多用していますが、文字盤に関してはヒノキかクルミあたりを時針の形に彫り抜いて、黒く染めればいいだけなので」
ユリウスはぽかんと呆けたような顔をして、それからくつくつと肩を揺らして笑う。
「ああ、確かにその通りです。僕としたことが、すっかり視野狭窄になっていました。木製なら金属より軽いですし、木工職人に頼めば威厳あるデザインを彫ってもらうことも可能でしょう。エンカー地方には木材は山ほどあるので、もし雨風で腐食してもスペアを用意しておけば、すぐに交換も可能ですね」
「いずれ金属の文字盤にも挑戦してみたいところですが、今回の時計台はひとまず試作ですから、それらしいものをくっつけるだけで大丈夫だと思います。でも、針を屋内に設置というのはとてもいい案だと思いますよ。いずれは……そうですね、ユリウス様が手を上にあげたくらいの高さの時計を造りたいと思っているので」
身長が二メートル近くあるユリウスが腕を持ちあげたら、二メートル半を優に越える高さになるだろう。中々の大きさではあるけれど、時計台と比べれば一気に小型化が進んだ形になる。
「ああ、温泉旅館とかにある、大きな時計? おじいさんの古時計みたいな」
「そうそう、ホールクロックと呼ばれる室内用の大時計ね。細かく彫刻を入れたり、それこそ文字盤に金を使ったりして、その屋敷の象徴になったりするわ」
「室内時計! 絶対欲しいじゃんそんなの!」
「レディ、時計台の時計とのしくみの違いはあるのでしょうか!? 基本的な原理が変わらないなら単純に小型化すればいいのか……いや、室内時計だと動力に使う錘のサイズがかなり制限されるので、他の動力を必要とするはずですね。流石に一時間に一度、家人が錘を引き上げるのは現実的ではないでしょうし」
「錘はこう、分割してお互い干渉しないように吊るせばスペースが狭くてもなんとかなるんじゃないかな。室内用にも、時報の鐘も絶対欲しいよなぁ。となると部品がかなり小さくなるから、旋盤から新しく作る必要が出てくるかも」
「部品加工はどうにかなっても、やっぱり長く維持出来るかが気になるね。それこそ内部部品は全部金……いや、金は柔らかいから駄目だな、ミスリルで作るとか」
喋りながら、次々と植物紙の上に新たなメモが記されていく。新しいおもちゃを与えられた子供さながらという楽しそうな様子だった。
「時計、そんなに嬉しい? こっちでは、時計がなくてもこれまでは特に不便はなかったんだよね?」
マリアが何気なく、不思議そうに聞くと、ユリウスとロドだけでなく、レナまでばっと顔を上げる。
「いえ、不便は山ほどありましたよ! まず実験を行うにしても正確な時間を設定するのが難しく、砂時計をいくつも用意してはひっくり返すことの繰り返しでしたし、なんなら砂時計をひっくり返すための助手を専任で用意する錬金術師もいたくらいで!」
興奮気味にそう告げるユリウスに、ロドもうんうんと頷いてみせる。
「これまでは、雪が解けたら春で、春が終わって夏の前になると雨がざーっと降るとか、秋は晴れた日が長く続いて、霜が降りたら冬が始まるくらいしか分からなかったけど、たとえば一年の日の出と日の入りの時間を記録すれば、次の年からはその時間に合わせて仕事の予定が組めるしさ」
「仕事の予定が組めたら、この作業はこのくらいまでで、その次の仕事はこれくらいまでで、人足が何人いて一日これくらい進めれば、秋までにここまで進められるって予定も立てられるよ!」
レナまで参戦して兄妹に捲し立てられ、マリアは呆れたような、困ったような表情を浮かべていた。三人の内二人はまだ少年少女だというのに、すっかり仕事中毒になってしまった責任を、メルフィーナも感じてしまう。
「これはもう、錬金術の革命と言っても過言ではありません! いえ、天文学、地質学といった学問から、貿易、流通、商業にも大きな影響を及ぼし、時間という共通の概念が世界を変えるとさえ言えるんですよ!」
「そっか、わかった、理解した、ありがとう」
どうやら途中で面倒になったらしく、雑にお礼を言ったマリアと、まだ説明したりない様子の三人につい苦笑が漏れてしまう。
ユリウスとレナとロドの熱意は、研究者や科学者としてのそれだ。一方マリアにとっては、時間とは学校の始業や授業の区切り、放課後の過ごし方や帰宅の門限、休日の友人と待ち合わせといった、今の彼女から失われたもののために使われていたのだろう。
朝が来れば朝食で、暗くなったら眠る生活に必ずしも時計が必要とは思えなくても無理はない。
「そうね、たとえば時計があれば、毎日三時に合わせてエドがおやつを持ってきてくれるようになるかもしれないわよ」
「ああ、それは素敵ですね!」
それに答えたのはコーネリアだった。マリアはあはは、と声を出して笑う。
「確かに、それはすごくいいかもしれない」
マリアが頷いたところで、団欒室の開けっ放しだったドアを律儀に叩く音が響き、噂をしていたエドがひょっこりと顔を覗かせる。
「皆さん、おやつにクッキーを焼いたんですが休憩にいかがですか……って、どうしたんですか?」
あまりにも良いタイミングに、全員が思わず黙り込み、それからささやかに立った笑い声を持って、不思議そうな表情を浮かべる素晴らしい領主邸の料理長を迎え入れることになった。




