342. 歴史と時を刻むもの
応接室に招き入れた大工の親方であるリカルドと、その弟子のエディ、鍛冶職人のロイとカールは、同席していた二人の輝くような笑顔にやや気おされている様子だった。
「リカルド、夏の間はお疲れ様。少しは落ち着いたかしら?」
「ええ、出稼ぎの人足たちも大分引き揚げたので、橋の建築の方も一時休止に入りましたし、だいぶ楽になりましたね。冬が来る前に基礎の設置が間に合って本当によかったです」
「迎賓館や街の建物もいくつも手掛けてもらっているものね。発注している私が言うのもなんだけれど、体を壊すことだけはないよう、気を付けてちょうだい」
「仕事が途切れることなく続いていて、最近は弟子どもも大分頼りになるようになりましたから、無理のない範囲でやらせてもらっていますよ。何よりエンカー地方には、そこの嬢ちゃんと嬢ちゃんの兄貴もいるもんな?」
水を向けられて、ユリウスの隣にちょこんと座っていたレナがえへへ、と照れくさそうに笑う。
ユリウスが目覚めるまではあまり外での仕事に積極的ではなかったけれど、ロドは毎日のように橋の現場に出かけていたし、レナも時々はそれについて行っていた。
腕は間違いないけれど、リカルドは大工であって建築士ではない。壁の補修や民家を建てるまでが本業で、築城や架橋は本来は別の専門家がいるものだ。
図面や強度の計算、アーチの角度などは、ロドとレナが相談を請け負って回しているところも大きかった。
「仕事を増やしてしまって申し訳ないのだけれど、時計塔を造るのに協力してもらいたいの」
「時計塔、ですか」
「ええ、正確な……出来るだけ正確な、ということだけれど、時計台を造りたくてね」
テーブルの上に図面を広げると、まずリカルドが、それからロイとカールが覗き込み、みるみると眉間に皺を寄せる。
「ふうむ……水車のように歯車を噛ませた装置ですね。必要な部品はそう難しくないと思いますが、この仕組みが動くことで何が出来るのか、説明いただいてもよいですかな」
「それは僕から説明しましょう!」
メルフィーナが口を開く前に、興奮を隠せない様子のユリウスがずい、と身を乗り出す。
「まずは一日を二十四時間で区切って、一時間を六十分で区切ることとします。この歯車は歯が六十あり、一時間で一回転するようになっています。そしてこの歯車が一回転する間に、こちらの大きな歯車が十二分の一動き、二十四時間で二回転するわけですね。一回転が夜から昼の太陽が中天に昇るまでで十二時間、そこから夜に至るまでにさらに十二時間、合計、二十四時間になるわけです」
「でね、このふたつの歯車と連動する棒を見えるところに立てて、それを見れば今が昼の何時、夜の何時かってすぐに分かるようになるの!」
隣のレナも満面の笑顔で言う。大と小、二人の子供におもちゃの説明をされたような顔をしながら、リカルドはううん、と低く唸った。
「ふむ……ああ、ここに別の歯車を嚙み合わせるのは、時間と分を表す棒を同じ方向に回転させるためというわけですな」
「そう! 分盤と時盤を直接噛ませると、反対方向に回っちゃうんだよね。そうしないために、もう一枚歯車を噛み合わせてるの!」
「なるほどなるほど……この分盤? の歯車を正確に一時間で一回転させれば、一日で時盤が二十四回転するようになっているな」
さすが、エンカー地方の多くの建築に携わってきたリカルドである、最初は不思議そうな顔をしていたけれど、ユリウスとレナが指を指しながら説明すると、すぐに呑みこんだ様子だった。
「これは画期的なことですよ。これまで一定の時間を計るとなると、砂時計を利用するしかありませんでしたが、それも個体差の大きなものが多かったですし、なにより途中で砂が詰まるなんてことが起きていましたからね。この仕組みを聞かされたときは、感動で思わずひっくり返りそうになったくらいで」
「えーとね、盤面は、たとえばこれで日付が変わった直後で、これで朝の六時、こうなると、六時十五分で、六時三十分、六時四十五分だよ」
レナが言いながら植物紙にサラサラと時計の文字盤の絵を描き込んでいくと、リカルドは盤面の読み方もすぐに理解してくれたらしい、禿頭を撫でながら、なるほどなるほどとうなずいている。
一方、部品を作ってもらうために呼んだロイとカールは難し気な表情で図面を睨みつけるばかりだ。
「原理はなんとなく分かりますが、この歯車がきっちり一時間に六十回転するよう制御するのは、相当難しいのではないでしょうか」
「それも問題ないわ。この下にある振り子が左右に揺れる間隔を、一秒に一回に調節すればいいから」
そこから、振り子が左右に揺れる時間は振り子の長さによって定まっていて、振り子自身の材質や重さに影響されないこと、振り子が一秒に一回左右に揺れる長さはおおむね一メートルであること、この周期で歯車を回すことで分針が六十回で一周、時針が七百二十回で一周すると告げる頃には、ロイとカール、エディの目にも好奇心が宿っていた。
「振り子にそういう性質があるとは知りませんでした。となると、建物は縦の長さもですが、内部は最低二メートル、メンテナンスのことも考えるともう少し余裕があったほうがいいかもしれませんな」
「部品は相当の重量になるでしょうし、吊り上げ用の滑車を用意することを考えると塔の屋根を造る前に部品を組みたてて、そこから屋根を造る方がいいかもしれませんね」
「いや、うっかりレンガのひとつも落としちまったら、部品から作り直しになるだろこりゃ。実際にこの歯車を組み立てる場所より少し余裕を持った高さにすりゃあいい」
親方と弟子の意見の交換に、メルフィーナもゆったりとした口調で交じる。
「最初の組み立ては試行錯誤になる可能性もあるから、出来るだけスペースには余裕があったほうがいいわね。最終的には塔の上部に大きな鐘を設えて、朝と正午、夕方にそれぞれ鐘を鳴らすことを考えているわ」
「かなり細かい調整が必要になる可能性もありそうですね……」
「そうね、なにしろ最初の時計だもの、基準になるものが乏しい以上、何度も調整をすることになるでしょうし、メンテナンスも最初のうちは手間が掛かると思うわ」
領主であるメルフィーナの手前はっきりとは言わないものの、現在もエンカー地方での新しい建築は続いており、外から来た資本家たちによる拠点を造る依頼も後を絶たないだろう。
リカルドから、そういったものと並行してこれを造る必要があるのかと問うような視線を向けられる。
その感覚は今の時点では仕方のないものだ。この世界は、前世と比べれば驚くほど時間というものに対する感覚が薄い。
平民はおおむね日の出とともに起きて簡単な軽食を済ませて働きに出て、太陽が中天に昇れば昼食を摂り、日が傾き始めたら仕事を切り上げて帰宅するのが一般的である。
夏は夏の、冬は冬の働き方があり、一日は太陽に委ねられて動き、それで問題なく社会が回っている。現状では、エンカー地方にも時計の導入は急務というわけではない。今回の時計塔はあくまで試作に近いものになるだろう。
エンカー地方はともかく、北部はこの冬の収穫から初期ロットの棒砂糖の生産が始まる。今年は試運転になり、おそらく来年の冬から大規模な労働者を雇い甜菜の栽培と加工が遠からず始まるはずだ。
秘密保持のため分業を徹底することで、何もかも家庭内か、あるいは職人のオーダーメイドが当たり前のこの世界で、ほとんど初めての工場制手工業が誕生する。
――その流れは、いずれエンカー地方にも訪れる。
現在はガラス製品やエール事業は城館内で抱え込んでいる状態だけれど、それも規模を大きくしていき、いずれは領内に工場を建てることになるだろう。
計画的に雇用を行うには、時間の管理が重要になってくる。特に工場制手工業の初期は、他に働き口の少ない若い女性や後ろ盾のない孤児を限界まで働かせるような真似が横行しかねない。
新しい事業形態の最初期のモデルケースになるだろう北部とエンカー地方でそれを常態化させないためにも、時計を開発し、その読み方を一般にも周知していくことは大切な準備のひとつだ。
いずれオルドランド家だけではなく、この仕組みを多くの領主や王家さえも欲しがるだろう。それまでに品質を安定するよう、しっかりテストしておいた方がいい。
「今はなぜこれが必要なのか、理解するのは難しいかもしれないけれど、時計はいずれ必ず世界中に広がることになるわ。皆には、その最初の一台を造ってもらいたいと思っているの」
お茶で唇を湿らせて、ふふ、と笑う。
「きっと百年後も、いいえ、千年が過ぎても、皆の名前が歴史に残る。そういう仕事よ」
多少大仰に言ったけれど、決して大袈裟な言葉ではない。正確な時計が出来て、それを運用し続ければ、おのずとその結果がついてくるはずだ。
「メルフィーナ様がそう言われるなら、そうなるのでしょうなあ……」
「いやぁ、あの橋を架けるだけで、すでに歴史に残ると思いますけどね……イテッ!」
エディの言葉に、リカルドが背中を平手で叩く。ロイとカールは改めて、食い入るように図面を見つめていた。
「このメンバーならきっと出来るわ。信頼しているし、この二人もついているから、疑問に思うことがあったら何でも聞いてちょうだい」
「ええ、どんな些細なことでも質問してください。何しろこれは、世界に革命を起こすものですから」
「レナにも聞いてね!」
この場で誰よりもやる気がある二人がしっかりと請け合うと、リカルドとエディ、ロイとカールはそれぞれ顔を見合わせて、それからしっかりと頷いてくれたのだった。




