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340.アップルパイと聖女の決意

 晴れた秋の空が高く高く澄むのは、こちらの世界でも変わらない。雲一つない青空はまるで天が抜けたようだった。


 先ほどまで荷物の積み下ろしでにぎやかだった前庭も、準備を終えて今は静まり返っている。もういつでも出発出来る状態だった。


「お兄様、どうかご無事で」

「ああ、お前も息災で」


 淡々とした声とは裏腹に、いつも冷静な表情を曇らせて言うマリーと、軽く抱擁を交わす。


「伯父様、無事のお帰りをお待ちしています」

「すぐに戻る。お前も多くを学び、健やかに過ごしなさい」


 唇をぎゅっと引き締めて頷くウィリアムの頭を大きな手が撫でると、ウィリアムは感極まったようにアレクシスの腰に抱き着いた。


「どうか、どうかお気をつけて」


 もしかすれば、これが今生の別れになるかもしれないという意識があるのだろう。苦し気にそうつぶやくウィリアムの背中をとんとん、とアレクシスの手が優しく宥めるように叩いた。


 プルイーナの討伐まであと一か月以上あるというけれど、大きな戦いのためにそれまでにも色々と準備が必要なのだという。アレクシスは本来別の領地の領主であるということはマリアも知っているし、マリアがここに来てからもアレクシスがいない時間の方がずっと長かったけれど、ここしばらくはずっと領主邸に滞在していたので、別れは一際重たいものに感じられた。


「オーギュスト、ここは頼む」

「お任せ下さい。――本音を言えば、俺も連れて行って欲しいところなんですが。閣下の傍を離れるとは何事だと、親父にどやされるのが今から目に浮かびます」

「傍にいることばかりが守ることでもないだろう」


 一礼をした後ぼやいたオーギュストに、アレクシスは表情を変えないまま告げる。二人は長い付き合いと聞いていたけれど、慇懃なやりとりの中でも気の置けない関係であることが伝わってくる。


「マリア、君の申し出はありがたかった。調査の結果は後ほど遣いを送る」

「うん、よろしく」


 マリアとの別れはあっさりとしたものだ。マリアにも心配する気持ちはあるけれど、彼の家族がこんなに身を案じているのを見ると、自分があまり大仰な態度を取るのも違うかな、という気持ちになった。

「アレクシス、道中、気を付けて」

「ああ。ウィリアムをよろしく頼む」

「ウィリアムはいい子だもの、むしろ私が守ってもらう側かもしれないわよ」

「お任せください! 伯父様が留守の間は、僕が伯母様たちをお守りします」

「ふふ、もうすっかり、騎士様ね」


 メルフィーナが笑うと別れに重たくなっていた雰囲気もふっと柔らかくなった。


「今回も、心遣いに感謝する。エンカー地方のエールはもはや討伐に参加する騎士や兵士たちの生きがいのようなものだからな」

「今年のエールは出来がいいのよ。それから、討伐が終わる頃にはとても良い物が出来上がっている予定なの。そちらも楽しみにしていてちょうだい」

「君の言う「とても良い物」か。何が出ても驚かない準備をしておこう」

「あら、人聞きが悪いわね」


 ささやかに笑い合い、一度言葉を切って、二人はそっと抱擁しあう。


「本当に良い物よ。試さなかったらきっと、すごく後悔すると思うわ」

「ああ、楽しみにしている」


 それはほんの一瞬で解けて、アレクシスは改めて彼の家族に別れを告げるとあっさりと馬車に乗り込んだ。


「伯父様! 行ってらっしゃい!」

 ウィリアムの声に軽く手を振ると、先導の騎馬に合わせ馬車はゆっくりと進み出す。城館の正門を抜けて荷馬車がその後ろに続き、やがてそれもすっかり城館から去っていった。

「――外は冷えるし、中に入りましょうか。温かいお茶でも飲みましょう」

「はい、伯母様」

「冬支度を始めて、雪が降る前にピクニックに行けるように準備もしないとね。最近は湖の近くが保養地になっていて、随分手が入っているからウィリアムも驚くかもしれないわ」

「それは楽しみです! 天幕で食べる食事も、いつも美味しいですし」


 ウィリアムは消沈した気持ちを奮い立たせるような、わざと明るい声で言った。

 彼らの中でアレクシスの存在がどれだけ大きいのか、伝わってくる。


 例えば父や弟が帰ってくることが出来ないかもしれない場所に赴くことになってしまったら――。きっと彼らほど落ち着いた態度ではいられないだろう。泣いて喚いて、行かないでくれと縋ってしまったかもしれない。


 ――みんな、強いな。


 マリアの抱く気持ちは、彼の家族はもう乗り越えて、その先にいるのだろう。


 いつも近しい場所にいて笑っている彼らが、今も傍にいるというのに、なんだかとても遠くに感じてしまって、それがやけに寂しかった。




     * * *


 エドが用意してくれたおやつを手に菜園の温室に向かうと、ユリウス、レナ、コーネリアがテーブルに向かってオセロに興じているところだった。


 この手のゲームに関してはロドとレナは負け知らずで、兄妹だとロドの方にやや軍配が上がる。二人があまりに強いので領主邸では二人と対戦したがる者はいなかったけれど、ユリウスが参入してからは三人でよく楽しんでいた。


 温室に入った時にはコーネリアとユリウスが対戦していたけれど、不思議と良い勝負なようでテーブルの真ん中に陣取ったレナも眉間に皺を寄せて成り行きを見守っている。どちらも集中しているようで、マリアとオーギュストが入ってきたことにも気づいていない様子だった。


 オーギュストと目を見合わせて、ひとまず勝負が終わるのを見守ることにする。メルフィーナが作ったオセロは中に磁石が入っていないので、袖で引っ掛けないよう気を付けながらひっくり返すたびに指先で位置を整えるため、日本のそれより少し時間がかかる。


 中々白熱しているようで、石はくるりくるりとひっくり返されていき、しばらくして、コーネリアがほう、とため息をついた。


「負けました。全然勝てませんねえ」

「いえ、良い勝負でしたよ、お嬢さん」

「五手前にこっちに置いていたら、コーネリアさんの勝ちだったよ! あ、でもその場合、ユーリお兄ちゃんがここを、こうして……」

「いやあ、そうなった場合二手後でこっちが詰んだんじゃないかな」


 負けたというのにコーネリアは少しも悔しそうな様子を見せず、ここがこうだったら、ああなったらと盤上をいじっている二人をにこにこと眺めている。おっとりとしたコーネリアとやや破天荒なユリウス・レナの組み合わせは相変わらず相性がいいらしかった。


「三人とも、ゲームもいいけど、おやつはどう?」

「マリア様。あらあら、いつの間に」

「オセロに熱中してたから観戦させてもらっていたけど、エドの焼きたてアップルパイも魅力的じゃない?」


 コーネリアは頬を赤らめて微笑み、レナもいそいそと椅子に座り直す。アップルパイと木皿を入れた籠をテーブルに置き、オーギュストが片手に提げたミルクの入った紅茶のポットをその隣に置いた。


「閣下のお見送りはお済みですか?」

「うん、出発したよ。やっぱり私は場違いだったかな」


 対外的にはメルフィーナの妹と名乗っていることから見送りには参加したけれど、家族だけで過ごしたほうが彼らにもよかったのではないだろうか。

 そんな気持ちが見送りのあとも続いていて、結局エドのおやつを抱えて領主邸から出てきてしまった。


「マリア様がいてくれてよかったです。俺も閣下を見送れましたので」

「必要ならその間は寝室にでも籠っているから、私に気を遣わなくていいよ?」

「いやあ、マリア様の前とそれ以外では、俺も格好つける割合が大分違いますからね。閣下も安心して出立できたと思います」

「オーギュスト、私の前では格好つけてるの?」

「女性の前では男は格好よくありたいと思う生き物なんですよ。あれで、閣下もメルフィーナ様とマリー様の前では相当格好つけていますから」

「えっ、そうなんだ!?」


 まだ温かいアップルパイを切り分けると、なんとも言えない甘酸っぱい匂いが温室の中に漂い始める。パイ生地から漂う濃厚なバターの香りも、ナイフを受け止めてサクサクと立つ音もごちそうの一部だ。

 今回はこの場に主人に相当する人がいないので、各々適当にフォークを刺して食べ始める。


 パイの底にはクラムが敷き詰められていて、その上に厚切りにしてじっくりと熱を入れた林檎がゴロゴロと載っているのが嬉しい。しゃくしゃくとした歯触りはしっかりと残っているのに、芯まで火が入っていた。


 しっとりと甘い林檎のフィリングにさくさくのパイ生地が、びっくりするほどよく合う。


「バターを惜しみなく使ったパイがフォークで砕ける感触から、ごちそうは始まっていますね。甘さと酸っぱさに秋の豊かな実りを実感しながら口の中で溶け、油断したところにずしんと口の中に重たく響くようなクラムの甘さが印象的です。息を吸うたびに濃厚なバターと林檎の甘酸っぱい匂いが鼻孔をくすぐり、呼吸すら愛しく感じます。クラムにしみこんでいるのはただのお砂糖ではなく、酒精を飛ばした強いお酒ですね。風味とコクが非常に強く、ともすればくどくなる一歩手前で仕上がっています。秋の実りと料理長の腕が合わさって、これは食べる黄金と言っても過言ではありません」

「おいしいね。林檎、まだ残っているはずだからまた作ってもらお!」


 コーネリアは相変わらずだが、マリアにはその手の語彙力はないので率直に頷く。パイを食べながら、お祭りは楽しかった、久しぶりに妹のサラとたくさん過ごせて嬉しかった、屋台で買った料理を持ち帰ってその日の夜もごちそうだったと言うレナに、ユリウスもにこにこと相好を崩している。


「雪が降ったら定期便の馬車も減るから、今のうちにたまに帰ろうかなって思ってるんだ。マリア様も泊まりにくる? お兄ちゃんのベッド余ってるし」

「私が行くとオーギュストもついてくるし、レナがいるならユリウスも一緒だろうから、狭くなるんじゃないかな」

「僕は床でも寝ることが出来るので平気ですよ」

「いや、ユリウス、貴族なんだよね? 床で寝ちゃまずくない?」

「王都にいた頃は、眠り続けている間以外はベッドで寝ていない時のほうが多いくらいでしたから。どこでも眠れるんです。でも、最近はそういうことも少なくなりましたね」


 ユリウスは魔力が強すぎて、体が大きくなる前は昏々と眠り続けている時間が長かったのだという。彼がやたらと子供っぽいと感じることがあるのも、そのせいかもしれない。


「ユリウスは、もう体は大丈夫そう?」


 ユリウスが氷漬けだったのは、ほんの半月ほど前のことだ。見た目には元気そうに見えても何かしら問題が残っていないとも言えないと思ったけれど、あっけらかんと笑って頷かれた。


「おかげさまで魔力に汚染されていた体はきれいさっぱり浄化されたようです。睡眠時間も随分短くなって、一日が長くて時々びっくりしますね。これならあと十年くらいは、問題なくやっていけると思います」

「そっか……」


 ユリウスの強い魔力は生まれつきのものだ。浄化されても、再び自分の魔力で肉体が汚染されていくのだろう。


 そうして、また同じことが起きる。その猶予である十年という時間は、短いとは言えずとも、彼の残りの人生のリミットとしては決して長いとは言えないはずだ。


 短い付き合いでも、ユリウスが子供のように無邪気な反面、非常に合理主義者であることは伝わってきていた。

 もしその時が来て、マリアの浄化が望めない状況ならば、その場にたまたま居合わせた誰かにどうこうしてもらうなんて不確実なことは、彼はしないはずだ。


 十年後、自分はどうしているのだろう。それを思うとフォークで切り分けたアップルパイを口に入れる手が止まる。


 マリアがそこにいなかった時、ユリウスが取るだろう手段を想像すると、気が重たくなる。ユリウスを慕っている様子のレナは、ようやく今の自分と同じくらいの年になるはずだ。一度は救ったのに次はそうではないかもしれない自分を、彼女はどう思うだろうか。


「じゃあそれまでになんとかしなきゃだね。十年もあるんだもん、ユーリお兄ちゃんと私なら、何か方法が見つかるよ」

「だねえ、まあ、きっとなんとかなると思うよ」


 そんなマリアの鬱屈とした思いをからりと吹き飛ばすように、レナはあっさりと言って、それに応じたユリウスも笑いながら頷いた。


「方法……」

「うん、マリア様が出来たんだから、今は見つかっていないだけで、きっと何かやり方があるんだよ。そうしたら、魔力中毒になる人もきっと減るよね」

「魔法使いはどうしても短命になりがちで、象牙の塔の研究者もしょっちゅう代替わりするからねえ。知識の蓄積という意味でも魔法使いの寿命を延ばすのはとても重要だから、是非挑戦してみたいね」


 二人がまるで諦めていない……そんな気もないことに、目からうろこが落ちた気がした。

 今すぐ答えが見つからなくても、明日どうなるか分からなくても、それは諦める理由にはならないのだと言われた気がした。


 ――そっか。


 今日メルフィーナのために出来ることがあるなら、今日はそれをやればいいだけだ。たとえ徒労に終わったとしても、後悔だけはしないように。


「そうだよね。魔力が強く生まれたとか、耐性が弱いとか、誰かのせいじゃないのにそれで我慢するのは、おかしいことだよね」


 今は無理でも、未来も無理とは限らない。探さなければ見つからないものだってあるだろう。


「私も手伝うよ! 見つけよう、魔力をどうにかする方法を! 何でも協力するよ!」

「えっ、なんでも!?」

「本当ですか、聖女様!」


 キラキラとした……いや、ギラギラとした目でユリウスとレナに見つめられて、思わず乗り出していた体を思わずスンと引く。


「あっ、なんでもっていうのは、あれだよ、えーと、人道に反しない限りっていうか……」

「マリア様が協力してくれるならもう絶対うまくいくねユーリお兄ちゃん!」

「聖女様は可能性そのものだからね。十年どころか、ひょっとしたら一年も掛からないかもしれないよレナ!」

「あのう、聞いてる?」


 思わず助けを求めるようにオーギュストに視線を向けると、あーあ、と言うように苦笑していた。微笑みながらアップルパイを食べていたコーネリアは、おっとりと笑っている。


「言質を取られてしまいましたねえ、マリア様」


 そんなつもりはなかったよ! と思うけれど、その言葉に嘘はない。


 実際には何年かかるか分からないし、その時に自分が何を選択しているかも分からないけれど、それは今努力しない理由にはならない。


 ――私もそろそろ、この世界の「お客さん」をやめる覚悟を決めなくちゃ。


 これまでマリアは、この世界では外から連れてこられて右往左往するばかりの異邦人だった。


 多少馴染んでからもこの世界を自分が深く関わるものという意識はほとんど持つことも出来ず、いつか日本に戻りたいと、漠然と考えるばかりで。


 けれど、それでは嫌だ。


 メルフィーナが選ぼうとしている道を、選ばせたくない。

 今度はマリアが、メルフィーナを助けてあげたい。


 ある日不意に日本に戻る方法が見つかって、何もかもを投げ出してしまう日も来るかもしれない。でも、積み上げたものを次の誰かに受け渡すことはできるはずだ。


 何が起きるか分からない未来のために、今足を竦ませている自分は、到底好きになることが出来ない。


 ――メルフィーナと違って、私は頭を使うより、気持ちが背を押すままに走っていた方が、ずっと向いているんだから。


「うん、がんばろ! あくまで人道に反しない程度で!」


 そこのところは念を押すことを忘れずに拳を握って言うと、温室にいたメンバーは笑って、そうしましょうと言ってくれたのだった。


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