337.知らない未来と見えない未来
サウナで体を温めて部屋に戻り、室内着に着替えてメルフィーナの部屋を訪ねる。
メルフィーナはこの屋敷の主だというのに、マリアの部屋と変わらない。必要なものがあらかじめ必要な場所に置かれているだけという風情で、あまり飾り気がない。けれど、今日はテーブルの上には浅い木箱が置かれていて、その中に色とりどりの花飾りが入っていた。
歩く端から顔見知りらしい人々に次から次に渡されていたので、こうして見ると中々大変な量だ。メルフィーナに贈られた分だけで、一人でお針子たちが仕入れた糸の原価くらいは回収できたかもしれない。
「散らかっていてごめんなさいね。折角貰ったから、布を張った板に縫い付けて、ファブリックパネルを作ろうかと思っていたの」
「あ、いいね。私もそうしようかな」
「本格的な冬になれば室内で過ごす時間ばかりになるから、一緒にやりましょうか」
メルフィーナはそう言って、木箱を大切そうに抱えてクロゼットに仕舞う。マリアが来るまでひとつひとつ形を整え、眺めていたのかもしれない。
メルフィーナのさりげない仕草のひとつひとつから、どれだけエンカー地方とそこに住む人たちを大切にしているのか、伝わってくる。
夜だからだろう、火鉢に掛けていたヤカンで淹れてくれたお茶はコーン茶だった。温かいお茶を口に入れて、ほっと息を吐く。コーン茶は日本ではほとんど馴染みがなかったけれど、今では随分飲み慣れて、日常の味になった。
「それで、どうしたの? 何かあった?」
「うん。……あのさ、メルフィーナはハートの国のマリアの追加ディスクは、プレイしてないって言っていたよね」
「ええ、記憶にあるのは追加ディスクの発売が決定して、レイモンドとショウのシルエットが公開されたところまでね。その説明に大商人であり亡国の王子と、そこに仕える忠義の戦士だって書かれていたわ」
うん、ともう一度頷き、カップを置いて、膝の上で指を組む。なんと切り出したものかしばらく悩んだけれど、メルフィーナは静かに待っていてくれた。
「追加プレイの攻略対象はレイモンド・ディ・ロマーナと、ショウ・ライオンの二人だけだけど、その分結構ボリュームがあって、やり込み要素も多くてさ。出会いもヒロインがロマーナの海賊に攫われたところからだったり、レイモンドが商談としてフランチェスカ王国に来たり、聖女としてロマーナに招かれたり、いくつかルートがあったんだ。相変わらず雑学だらけで、本編をやったあとに追加ディスクに手を出すのは本物のマゾだって言われてたくらいで……」
「面白そうね!」
食いつきにあはは、と乾いた笑いが漏れる。
マリアはノーマルモードでクリア済みだけれど、それでも結構な時間を費やすことになった。もしメルフィーナがプレイしていたら、ハードモードで散々やり込んだのだろうと、想像に難くない。
「それでね、エピソード選択によって、フランチェスカ王国が舞台のルートもあったんだけど、その中に、四つ星の魔物の根絶イベントがあって」
その言葉に、メルフィーナは好奇心にきらきらと輝かせていた瞳を見開いた。
四つ星の魔物は毎年決まった時期に顕現する人類の厄介な敵。それが本編ディスクでの扱いだったし、攻略対象によってはマリアが毎年のように出向いて討伐の手助けをすることになっていた。
聖女として、最も公人としての色が強いエンドになるだろう。
根絶――二度と顕現出来ないようにするのは、本編ディスクでは語られなかった、メルフィーナすら知らない更に未来の情報だ。
マリアが知っているのは、正確には「四つ星の魔物の根絶方法」であり、プルイーナについてはこれから調べる必要が出て来るだろう。
けれどそれも、聖女の力とメルフィーナの頭脳があれば、出来ないことではないと思う。
「四つ星の魔物が決まった時期に発生するのは、近くに強い魔力溜まりがあるからなんだ。深い穴とか洞窟に魔力が溜まって、魔物は魔物として繁殖しているんだけどその時点ではあまり強い魔物ではなくて、そこから四つ星の魔物に変異する個体が出るのに一年の時間が必要で、毎年その土地で一番魔力が高まる日に目覚めるんだって」
「つまり、四つ星の魔物は毎年同じ個体が復活しているわけではなく、別の個体ということなのね」
うん、とメルフィーナの言葉に頷く。
マリアがそのダンジョンを浄化することができれば、四つ星の魔物は二度と発生しなくなる。そしておそらく、その土地も浄化できるだろう。
四つ星の魔物が出る土地は、人間が住むことの出来ない土地だ。さらにそれを広げないためにその周辺を治める領主が討伐の任を与えられているけれど、基本的には何も生み出さず、生きることが困難な場所である。
そのルートでは、マリアは四つ星の魔物を根絶し、土地を浄化して亡国の王子であるレイモンドと共に、新たな国――神聖ロマーナ王国を興すことになる。
そんな自分は全く想像も出来ないけれど、少なくとも乙女ゲームであるハートの国のマリアでは、四つ星の魔物は根絶可能な存在ということだ。そしてプルイーナを根絶すれば、アレクシスの重責はかなり軽減されるはずだ。
ウィリアムだって、そんな場所に戦いに赴かなくてもよくなる。
その重責が外れれば、まだ子供なのに、中毒前提で魔力耐性を上げさせようなんて人も、きっといなくなる。兄のように慕っているというセレーネとだって、再会しやすくなるかもしれない。
アレクシスとメルフィーナだって一緒にいられる時間は長くなるし、もしかしたらいい方向に進むかもしれない。
「それは、何か代償が必要ではないの?」
「ゲームの中ではクエストを受けたりあちこちの遺跡を回ったりしていたけど、それは攻略対象の好感度を上げるためのイベントで根絶に何か特別なアイテムが必要ということはなかったし、多分。今年はダンジョンの浄化に間に合わなくても、本編みたいにプルイーナを弱らせることくらいは今の私でも出来るかもしれないし」
正直に言えば、マリアだって浄化のために戦場に赴くのは怖い。
回数制限の外れた治療魔法が使えるようになったと言っても、血みどろの怪我人を治療したことはないし、目の前に重症の人が運ばれて来たとき、毅然としていられるかも分からない。
いざとなったら体が竦んで何も出来なくなることだってあるかもしれない。
――でもメルフィーナもアレクシスも、一回も、私に討伐に参加してほしいとは、言わなかった。
二人ともマリアが討伐に参加すれば、被害を抑えることが出来るのは分かっていたはずだ。それでもアレクシスは黙ったままエンカー地方を去ろうとしているし、メルフィーナも静かにそれを見送ろうとしている。
「最初は、自分がそんなことが出来るなんて思っていなかったし、やりたいとも思えなかった」
突然違う世界に放り出されて、家族や友人、それまで当たり前にいた環境から引き離されて、何もかもが怖かった。
自分の置かれた現状を受け入れることが出来なくて、この世界のために何かしたいなんて到底思えなかった。
エンカー地方に来てからも魔物自体を見たことはなくて、日常は生々しいくらい当たり前に続いていて四つ星の魔物といってもどこか自分とは関係ないもののように思えていた。
変わったのは、それで父親を亡くし、自身もいずれはそこに身を投じることを当然とされている立場のウィリアムと出会ったからだろう。
それでようやく、アレクシスはまさに今、その立場に立たされているのだと思い知った。
「私、メルフィーナが好き。アレクシスだって、その周りの人だって、怪我をしたり、その、し、死んだりするなんて考えたくないし、それでマリーやウィリアム君が悲しむようなことにもなってほしくない」
適性があろうとなかろうと、いずれウィリアムは討伐に出向くようになるという。
彼の父親の話を、マリアは事実のほんの表層しか知らない。けれどその上で、マリアを家族として迎えてくれた少年が、おそらくそう遠くはない未来に同じ場所に戦いに行かねばならないなんて、そんなことになってほしくない。
「マリア……」
「私、幸せになってほしいの。メルフィーナも、アレクシスも、マリーも、ウィリアム君も。セドリックやオーギュストや、領主邸のみんなに、ずっと今と変わらず笑っていてほしい、だから!」
テーブルに手を突いて身を乗り出すと、メルフィーナはぐっと息を呑んで唇を引き結び、静かに目を伏せた。
まるで、何か辛いものがお腹の中から出てくるのを、とどめようとしているようだ。
「……マリア、あなたの気持ちは本当に嬉しいわ。プルイーナの根絶に何か対価が必要だって言われたら、どんなことをしても支払うに相応しい、すごいことよ。……でもあなたの望みが、今と変わらない私たちの関係だというなら、それは、どうなるか分からない」
アレクシスの身を案じているメルフィーナならば、喜んでもらえると思ったのに、その言葉に混乱する。
「そりゃあ、そのために努力してほしいとは言わないよ。そんな勝手なことないもん。ただ、皆仲が良くて、お互いを大事にしてて、それが続けばいいなって」
メルフィーナはそれにも、ゆるくかぶりを振る。長く伸びた金の髪が揺れるのに、マリアのほうがどうしていいか分からなくなってしまった。
「私も、そうあればいいと思っているわ。皆がいて、私がいて、今と変わらずにいられれば、どんなにいいかって」
「だったら」
「でも、きっと私は、あなたを失望させてしまう」
「メルフィーナ?」
今度は、次の言葉が出るまで、マリアが待つ番だった。
メルフィーナがこれほど強く葛藤を滲ませている様子を見るのは、初めてだ。ほっそりとした手を震えるほど強く握りしめて、マリアから目を逸らすように、うつむいてしまう。
「私、エンカー地方を発展させるために色々なことをしてきたわ。産業を作って、新しい技術を導入して、衛生環境や栄養状態を整備して、文官を導入して私が直接指揮を執らなくても回るように制度を整えて。勿論、私が判断しなければならない突発的なことは起きるけれど、基本的には適正に管理していけば、それでエンカー地方は回っていくと思う」
「うん……」
「そのためにあとひとつだけ、やらなければならないことがあるの。それはとても大変なことで、でも、数年のうちには必ず私が成さなければいけないことで」
何かをこらえるようにぎゅっと手を握り締めて、うつむきがちになっていた姿勢から上げた顔は、少し青ざめていた。
「……私、子供を作らなければいけないの」
重たい口調で、メルフィーナは言った。
これまでも、メルフィーナが子供好きなのは伝わってきていた。彼女はいつも優しくて、他人に親切だけれど、特に小さな子供たちに対しては可愛くてたまらないというように相好を崩すことが多い。
メルフィーナが子供が欲しいと言うのは違和感はないし、いいママになるだろうとマリアは思う。でも今の言い方は、まるでそれが、果たさなければならない義務のようだった。
形のいい唇をぎゅっと引き締めて、震える息を吐き、決して外に出したくなかった言葉を口にするように、メルフィーナは言った。
「私にはどうしても子供が……エンカー地方の跡継ぎが、必要なの」