336.流儀の違いとエスコート
足元に置いた籠の中から、林檎の甘酸っぱい匂いが馬車の中に漂っていた。
楽しい時間はあっという間に終わってしまい、コーネリアへのお土産に花飾りと籠に盛られた林檎を購入し、日が傾き始める前にあらかた片付けを終えて、帰路の馬車に乗ることになった。
いつもならそろそろ夕飯の時間だけれど、さすがに今日は屋台であれこれとつまんでいたので少しもお腹が空いていない。今日はエドも、振る舞いのための料理を用意する予定だったので、夕飯は元々出ない予定である。
祭りの興奮が過ぎると、どっと疲れが出てしまった。ウィリアムは特にそうらしく、マリーにもたれかかってうとうとしている。
「今年のお祭りも、楽しかったわね」
「はい、随分盛大になりましたし、来年は本当に、二日間の開催になるかもしれません」
「出店は抽選になるでしょうし、不公平感を出さないためにはそのほうがいいかもしれないわ。……ふふ、もう来年のお祭りの話をしているなんて、気が早いわね」
メルフィーナは優しい表情でウィリアムを眺めて、背中を座席の背もたれに預ける。
「明日から冬支度を始めて、雪が降る前にピクニックに行って、あっという間に冬が来てしまうわね」
その声はどこかしんみりとして、寂し気に聞こえたのは、もう数日すれば、アレクシスが自分の領地に戻るということもあるからかもしれない。
アレクシスは言葉が少なく、兵士の鍛錬に出かけている以外はメルフィーナの菜園の家でぼんやりしていることが多いので、あまりマリアの暮らしに関わることはないけれど、それでも共に食事をし、時にメルフィーナのエスコートを務めている人だ。いなくなったらきっと、その分の空白に慣れるのに時間がかかるだろう。
それに、アレクシスは冬の間、ずっと魔物の討伐のために広大な北部を巡行するのだという。言うまでもなく、その最大の脅威は四つ星の魔物と呼ばれるプルイーナ戦であることは、マリアも知っていた。
ゲームの中ではアレクシスルートに入れば必ず出て来る魔物だ。ただのゲームのプレイヤーとしては攻略対象への好感度のパラメータ調整のためのイベントのひとつでしかないけれど、この世界では多くの犠牲を払って討伐される、大きな脅威だ。
プルイーナの討伐はいつだって命がけで、アレクシスは攻略対象だから簡単にどうにかなることはないだろうけれど、いつだって待つ側は不安だろう。
いつまでも続くと思っていた日常が、あまりにも唐突に壊れてしまったマリアにとって、それは他人事とは思えなかった。
城館に着いて馬車の扉が開くと、騎馬で先に着いていたアレクシスが手を差し出してくる。それに手を重ねようとして、ふと、メルフィーナが馬車を振り返った。
「マリア、エスコートが苦手なのは分かるけれど、馬車を降りる時くらいはオーギュストにエスコートしてもらったほうがいいわ」
いつものように一人で降りるつもりだったのに、メルフィーナに優しく言われてしまう。
「手を預ける方が不安定じゃない?」
「そんなことないわ。鍛えた騎士というのは樫の手すりより頑丈だもの。マリアが全体重を預けても問題ないわよ」
「手すり……」
「試してみましょうか。――アレクシス、お願いしてもいい?」
静かに頷くと、アレクシスはメルフィーナの手を取り、反対の手を腰に回す。マリアが瞬きするほどの短い間に、ひょい、とメルフィーナの体が宙に浮いて、そのまま空中で半回転ほどして、ふわりと地面に下りる。
メルフィーナはマリアより身長が高いし、スタイルもいい。羽根のように軽々とというわけにはいかないはずなのに、まるで重力を感じさせない軽やかさは、ダンスでも踊っているようだった。
「ね? 淑女をエスコートする男性は、騎士や兵士でなくてもとても鍛えているものよ。逆に、紳士の差し伸べた手を取らないのは、私はあなたの力量を認めていませんと言っているようなものなの」
単に動きづらいというだけでそんなことを考えていたわけではないけれど、メルフィーナがこう言う理由は少しだけ理解出来る。
マリアが領主邸に引きこもっている間は何も言われなかったけれど、少しずつ、マリアの世界も広がってきている。この先も何度も城館の外に出るだろうし、マリアの振る舞いを見る者も増えていくだろう。
この世界は、時々眉を顰めたくなるほどあからさまに男尊女卑だと感じることもある一方で、男性は女性を守らねばならないという社会規範もあるようだった。
騎士も兵士も必ず男性であり、家族のために出稼ぎをしてきつい肉体労働をするのも、また男性ばかりだ。
マリアの感覚では、同年代、年上に限らず、男性が女性を守るべきであるという考え方はあまり肌になじまないものだ。手を添えたり抱き上げられたりなど、ずっと子供の頃に父親にしてもらったくらいしか記憶にない。足腰が弱ったお年寄りでもないのに、馬車や階段の上り下りくらいで手を取ってもらうなんて気恥ずかしいし、馬鹿げているとさえ思う。
「ええと、オーギュストのこと、頼りにならないって思ってたわけじゃないからね?」
「はい、心得ていますよ」
「うん、でも、なんかごめんなさい」
少し共に過ごしただけでよく分かるほど、オーギュストは合理的な考え方をする人だ。それなのに、何度大丈夫だと言ってもそれが必要そうな状況ではマリアに手を差し出してくれていた。
そのたびに大丈夫だと笑って拒んでいたのは、彼に恥をかかせていたのかもしれない。
この世界で生きていく以上、合わせるべきところは合わせた方がいいだろう。いまだに理解出来ないと思うことも少なくないけれど、少なくとも最初の頃に比べれば、この世界なりのルールがあり、それで日々が回っていることを、マリアも理解出来るようになってきた。
オーギュストの手に、手のひらを重ねる。アレクシスや他の騎士たちと比べれば、どちらかと言えばシュッとして粗野な感じもまるでないけれど、その手のひらは鍛えられた男性のもので、ごつごつと硬い。おっかなびっくりしていては却って危なそうでぐっと力を込めてみるけれど、なるほど、その腕は力強くて、びくりともしなかった。
「閣下たちに倣って、抱き上げて下ろしましょうか?」
「もう、すぐそうやってからかう! 微妙に信用できないの、そういうとこだからね」
「マリア様、懲罰いたしましょうか?」
その背後から、セドリックに真顔で尋ねられてあはは、と笑う。さすがにエスコートしてもらっているのにそこまでするのは気が引ける。
今日はスカートだし、夕方ということもあり足元の視界も昼間よりは悪い。とんとん、とタラップを踏んで地面に足を着けるまで、確かに手すりを掴むように安定して下りることが出来た。
「大丈夫。――うん、意外と不安定じゃなかった」
「それはよかったです」
「えーと、これからも、お願いします」
「どうぞお任せ下さい」
マリーはセドリックの手を借りて、もう片方の手でスカートをつまみ、静かに馬車を降りる。その所作はとても優雅で、これが淑女の正しい馬車の乗り降りなのだと感心する。
ほのぼのとした、何気ない一幕だ。けれど数日もすれば、ここからアレクシスの姿はなくなってしまう。
もしかしたら、いつかは、永遠にそうなる日が来るのかもしれなくて。
「あのさ、メルフィーナ。疲れていると思うけど、後で部屋に行ってもいいかな」
少し前を歩いていたメルフィーナは振り返って、すぐに頷いてくれた。
「勿論いいわよ。一緒に寝る?」
「ううん。話がしたいだけだから」
お互いの部屋は廊下を挟んではす向かいなので、移動するのに全く手間はない。寂しくて、お喋りしたくなってメルフィーナの寝床の隣を借りたことは何度かあるけれど、今日はそうではない。
メルフィーナは分かったわ、と静かに告げる。
西の空の向こうにゆっくりと沈んでいく太陽が、赤く周囲を焼いていた。
次回からメルフィーナの抱える悩みと選ぶ相手について少し触れます。結構しんどい展開になるかと思うので、緊迫した雰囲気が苦手な方は三話ほど様子をみていただければと思います。




