表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
332/573

332.糸の花と祭りの歌

 国や領地の端というのは、ほとんどの場合環境が決まっている。


 まず一番分かりやすいのは文字通り土地の終わりであり、その先は海が広がっている立地だ。次に急峻な山、もしくは人の手の入っていない巨大な森がある場合。対岸が見えないほどの湖、もしくは河で隔てられている場合などだ。


 海や河、湖はそれ自体が資源であるが、森や険しい山の場合、吹き下ろす風が体力を奪い、野生生物が耕した田畑を荒らし、肉食の獣が放った豚や家畜を襲い、大抵の場合厳しい環境である。


 領と領を越えることが日常の行商人にとって、領地の端を越えれば後は荒涼とした風景が数日続くのは見慣れたものだ。そうした土地を切り開き、十分な人数を養うための開拓を行うのは時間も手間もかかり、また、危険な仕事であり、端の村は畑を耕しその日を生きる以外の人間や年老いて痩せた牛馬以外見るものもない。


 そうした村は大した購買力も有していないので、商人にとっては関わっても実入りのいい話に結び付くことはほとんどない。実際、二年ほど前までエンカー地方という名を聞いたことのある商人は、ほとんどいなかっただろう。


 ――塩が売れてくれて、助かった。


 塩は水運との相性が悪く、また、人間が生きていくためには絶対に必要な物資だ。冬直前のこの時期は、特に潰した豚を加工するために需要が高まることもあり、大きく外れる心配がないので行商人にとっては鉄板の仕入れのひとつだが、同時に扱う商人の数も多いので、直前に訪れた商人から大量に買い付けたばかり等、機会を外すと安く買い叩かれることも多い。


 王都を出る際、エンカー地方の名はすでに大きく轟き、商人の間では名を聞かない日はなかったほどだった。岩塩を仕入れた後ふとこの塩をどこに売ろうかと考えたとき、エンカー地方を選んだのは景気が良く、かつ国の端という立地ならば塩も高く売れるだろうと思いついた、その程度だった。


 まさか祭りにぶつかり、大規模な隊商が来たばかりとは思わなかった。


 当てが外れてよほどしょぼくれた顔をしていたのだろう、話を持ち込んだ店の主人は随分同情してくれて、腐るものではないからと言い相場よりやや色を付けた値で買い取ってくれた。


 丁寧に礼を言うニクラスに恩を着せようとせず、また何かあったら持ってきてくれと言う主人は朗らかだった。


 つまり、その店――いや、この村には、それを行うだけの経済的な余裕があるということだ。

 ニクラスは今年二十五歳になる商人である。王都で上から数えた方が早い規模であるアルタウス商会の会頭を父に持ちこの世に生を受け、兄弟たちの中で最も父の商才を受け継いだと言われていた。


 フランチェスカ王国は完全な長子相続主義で、次男以下の男子は親の愛情でいくらかの現金を渡され、追い出されるように独立するのが常だ。だが兄弟の中で「鑑定」の「才能」を持ったのがニクラスだけだったということもあり、将来は後継ぎである兄の補佐となるため十六で成人した後も他家に出されることはなく、実家で商才を振るっていた。


 王都の貴族邸に日常的に出入りし、超一流の商売をしてきた自負もある。兄ではなくニクラスを名指しで呼びつける高位貴族もいたほどだ。それでも驕ることはなく、兄を立て、一商会員として真面目に勤めていた。


 はっきりと風向きが変わったのは、三年前に兄の長子である甥に「鑑定」の「才能」が出た辺りだろう。はじめのうちは何となく扱いが悪くなった、特別な商談に同席させられなくなったと感じた程度だったけれど、しばらく後に長年商人として辣腕を振るった父が突然倒れ、帰らぬ人になった辺りでその溝は完全に埋まらないものになった。


 父の弔いを終えたあと、商会の本店から王都の端の倉庫を兼ねた店舗に異動を命じられ、さらに半年後、兄から本来はとっくに家を出ていた身なのだから弁えろと強く言われることになった。

 兄とは仲がいいとは言わずとも、悪いとも言えない関係だと思っていた。兄は父の先妻の子だが、後妻に入った母は常に先妻の子である長男と次男を立てていたし、余計な野心を姉とニクラスに吹き込むこともなかった。いつから、どこから兄に疎まれていたのか、思い返しても心当たりもない。


 家を追われたところで十の年から見習いを始め、二十五になるまで商人として生きて来たニクラスに、他に出来ることもない。会頭になった兄の目を憚り表立ってニクラスの擁護をする者もいなかったが、秘密裏に餞別をくれる顔なじみの商人は意外と多く、それを元手に馬車とそれを引く馬を買い、行商人として生きることになった。

 幸い、長年培った商人としての勘は裏切らなかった。その矢先に起きた飢饉で上手く品物を捌き、幾ばくかの財産を築くことすら出来た。


 商人というのは、噂に非常に敏感なものだ。王都の大店が仕入れを誤り窮地に立たされている、長年勤めた目利きを捜しているという噂を耳にすることもあったけれど、もはや切れた縁だと僅かに残る未練を振り払った。


 こんな北の端まで来てしまったのは、そんな噂からもっと遠くに逃れたいという気持ちもあったからかもしれない。

 軽く肩にすれ違った少女がぶつかる。塩が売れた安堵にぼんやりと歩いていて、気が付けば随分人が多い場所まで来てしまっていた。


「ごめんなさい! あ、もしかして行商の方ですか?」


 十代の終わり頃だろう、麦わらのような色をした髪の少女がぶつかった詫びをしたあと、屈託なく尋ねて来る。


「はい、先ほど取引を終えたばかりで、今日が祭りということも知らなかったのです。とても盛況ですね」


 そう答えると、少女はぽかんと驚いたような顔をした。


「あの?」

「いえ! すっごく綺麗で丁寧な喋り方だから、驚きました! まるで貴族様みたい」


 行商人はあまり丁寧にしゃべるのを嫌うので、普段はニクラスももう少しくだけた口調を使うけれど、長年貴族の出入り商人をしていた癖が出てしまったらしい。


「あ、ぶつかったお詫びにお花をどうぞ! 紐で服に結び付けたり、他の人に貰ったら紐同士を結んで繋げたりしてください。エンカー地方のお祭りの名物の、糸結びの花です。出会った人とのご縁をつなぐって意味もあるんですよ」


 これ、領主様が考えたんですよと明るく言って、糸を編んで作った花を差し出される。思わず受け取ると、じゃあ、よいお祭りを! と笑って少女は踵を返し、すぐに人ごみに紛れていった。


「あ、ちょっと、お嬢さん!」


 声を掛けようとしても、一足遅く、ニクラスの手には糸を結んで花の形にしたものが残されていた。


 ふと周りを見れば、同じものを服に結んだり、いくつも連結して腰に巻いたりして装飾品のようにしている者も多い。どうやら親しい者同士で交換しあっているようで、あちこちで鉄貨一枚程度で売られていた。


 ふらりとこの地を訪れたニクラスにはこれ以上貰える花はないだろうが、ふと、折角ここまで来たのだから少しは祭りを楽しんでもいいのではないかという気持ちになった。


 家を出されてから、ずっと鬱屈した気持ちで商いに励んできた。飢えていると分かっている農村に手持ちの食料を高く売りつけたのも、家財の類を安く買い叩いたことも、時価で勝負をしている商人にとっては間違った行いだったとは思っていない。


 それでも、重たい荷を抱えてすでに十分行き渡るほどの塩が届いた後だと知り途方に暮れていたニクラスに、折角ここまで来てくれたのだからと色を付けて買い取ってくれた店主の心遣いは胸に染みたし、人ごみで肩が触れ合っただけの相手にきちんと詫びて、言葉遣いが丁寧だと笑い、花をくれた少女の行きずりの好意は素直に嬉しかった。

 噂話から逃げるように北へ北へと進むばかりで、たどり着いたこの土地のことをよく見ていなかったことに気が付く。


 エンカー地方。もはや商人の口に上らない日のほうが珍しい、北の端の開拓地。


 田舎の宿は総じて安価で、その分屋根と壁があり眠れればそれでいいというものだが、昨日から逗留している宿は広さはよくある狭い宿だが掃除が行き届いていた。トイレは決まった場所でやるのがこの土地の決まりだと先にしつこいほどに念を押されたが、なるほど村や町といった人が住めば必ず付きまとう悪臭が、この村にはない。


 北部の領都は通称「北の大華」と呼ばれているが、ニクラスが生まれ育った王都は「花の都」の名を持っている。


 先々代の王妃がこよなく花を愛していたため、時の王が庭園を贈るだけでは飽き足らず、王都の商会は店の規模に対して花を飾る数を定められ、裕福な平民も収入によって軒先などに花を植えた鉢を置く規定があり、これを破ると税が余分にかかる仕組みを作り、それが今でも残っている。


 花、つまり食物でもなければ生活必需品でもなく、宝石のように財産になるわけでもないものを、手間をかけて育てているのだ。それが出来るほどの経済的な余裕と豊かさを誇示するからこそ、フランチェスカ王国の王都は世界一美しい花の都と呼ばれている。


 この村には、王都のような華やかさはない。だが咲き乱れる花の下に覆い隠されていた悪臭も、人と人の冷たいやり取りも感じることはない。

 不思議なくらい心地よく、それに気づいた途端、足取りが軽くなってくる。


 この地を治める領主がスープと一杯の酒をふるまっているようで、道行く者たちの表情は明るく、陽気な様子だ。


 異国の商人たちが楽器をかき鳴らしているらしく、気づけば辺りは陽気な音楽が流れ、美味そうな食べ物の匂いもそこかしこから漂っている。


 ――俺もスープの一杯も貰って、屋台で何か買ってみるか……。


 店を回っているうちに、もしかしたら面白い仕入れが出来るかもしれない。


 楽器の音に交じって、まだ若い娘たちの声で、歌が聴こえてくる。


 少し調子が外れているようなのに、それがかえって若々しく、未来に希望が溢れているように感じられた。


 少し肩が触れただけの相手に屈託のない好意をくれた少女も、今頃どこかであんな風に歌っているのかもしれない。


 ニクラスの胸にずっと淀んでいた怒りや悲しみ、苛立ちといったものが、すうっと抜けていくような清らかな歌声だった。


情けないお知らせですが、少し腰を痛めてしまいました。数日で治ると思います。

座位が一番つらいので更新が不安定になるかもしれませんが、大病や被災などではありませんので、ご心配をお掛けしないようご報告です。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
こういう小さな優しさの瞬間がとても好きで……! 経済的・社会的には取るに足らないような事が、実は自分の人生を形作っているのを思い出します。
[気になる点] ニクラスのニ(に)が二(2)になっています。 PCで書いているならスペースではなくF7キーで変換することを勧めます。
[一言] 腰痛つらいですよね。お大事に。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ