327.新しい家族と姉たち
マリアの朝は、領主邸の他の女性に比べるとやや早い。早朝のジョギングが日課であることと、メルフィーナやマリーのように髪を編んだり身支度をしたりすることに、さほど時間を掛けていないということもある。
マリーは制服のように同じスタイルの色味の濃いワンピースを着ているし、メルフィーナも貴族の女性としてはかなりシンプルなワンピースを身に着けているけれど、それでも結構な枚数を重ね着しているらしく、着るのに時間がかかるらしい。それでいくとシャツにズボンスタイル、上からベストに近い上着を着ているだけのマリアは、服の着脱に関してはアレクシスやオーギュストより簡単なくらいだ。
簡単に髪を括っただけで階下に下りると、いつもの場所でオーギュストが待っていてくれたけれど、今日はその隣にウィリアムが緊張した面持ちで並んでいた。
「おはよう、ウィリアム君も、随分早いね?」
「おはようございます。今朝からウィリアム様も、朝の走り込みに参加したいそうなのですが、よろしいでしょうか?」
早朝のジョギングは、貴族らしいスケジュールで暮らしていたらあっという間に運動不足になりそうだけれど、あまり人目のある時間に一応貴族ということになっている自分が走り回ることも出来ないだろうと思って半ば趣味でやっていることだ。
同じことを他の人がやっても構わないし、どうせなら一緒に走ったほうが楽しいだろう。
「勿論大歓迎だよ。おはようウィリアム君。夕べはよく眠れた?」
「おはようございます、マリア様。はい、しっかり休むことが出来ました」
昨日は紳士らしい一面も見せていたけれど、マリーやメルフィーナ、アレクシスといった身内が傍にいないせいだろう、少し態度がぎくしゃくしている。
領主邸にいる子供たちはみんな年相応とは言い難いほど優秀すぎるので、久しぶりに子供らしい反応を見てなんだかほんわかとしてしまった。
並んで領主邸の外に出ると、空気はますます冷たくなってきている。思い切り呼吸をすると、肺に空気の冷たさを感じるほどだ。
「ウィリアム君は公爵家でもジョギング……走り込みとかしているの?」
「はい、まだ剣術の稽古は始まっていませんが、体力をつけるために走り込みの時間を取っています」
ウィリアムは今年十歳なのだという。日本で言うならまだ小学生だというのに、将来の進路は完璧に決まっていて、そのための努力もしているというのだから、マリアの感覚ではすごい話だと思うし、反面、そういう立場を不自由に感じないものなのだろうかと、少し心配にもなった。
平民でも十歳前後から見習いとして働き始めるというこの世界では、きっと、これが当たり前なのだろう。日本では高校二年生になったばかりだったマリアも、それなりに進路で悩んだ経験はある。
自分の好きに将来を選んでもよくて、無限に枝分かれする将来への道の前で、自分の性格や適性との齟齬に思い悩むことも多い日本と、どちらがより良いものなのだろうか。
――時間の流れが同じなら、そろそろ三年のクラス分けを決める頃だったのにな。
大学に進学するか、なんらかの専門学校に進むか、それとも就職するのか。普通の女子高生のままなら、今頃そんなことで頭を悩ませていただろう。
いつか帰れるとして、それがいつになるのか、戻ったあと、日本にいなかった時間をどう取り戻していけるのか。それを考えるとどんどん不安になるので、目を逸らして棚上げにしていることのひとつだった。
「よし、じゃあ一緒に走ろう!」
「はいっ!」
まずは柔軟だと言うと、さっそくウィリアムに不思議そうな顔をされた。オーギュストは何も言わずに付き合ってくれていたけれど、この世界にはそもそも運動前に柔軟を行うという考え方が無いらしい。
「急に体を動かすと、筋肉や筋を痛めることがあるから、まず軽く体を柔らかくする動作を入れるんだよ」
「確かに、マリア様にお付き合いして俺も同じようにしていますが、効果がある気がします」
「子供のうちは分かりにくいかもしれないけど、大人になると筋肉とか筋が固くなりやすいから、運動の前と後に柔軟の習慣を入れておくのは大事なんだ」
そう説明すると、ウィリアムはほー、と感心したように息を吐いた。
「やっぱり、マリア様はメルフィーナ伯母様の妹君なんですね! 色々なことを知っていてすごいです!」
「あ、えへへ」
メルフィーナはマリアから見てもちょっと度が過ぎた雑学王であるけれど、子供に純粋な目で褒められると、素直に嬉しいものだった。照れ笑いをしつつ柔軟を初めて行うウィリアムに教えながら準備を済ませ、まずは軽く領主邸を一周する。
成人男性で騎士であるオーギュストはほとんど息を乱すことなくマリアについてくるけれど、ウィリアムも自分のペースを守りつつ、白い息を吐きながらしっかりと追走してきた。
三キロほどを軽く流し、汗が冷える前に室内に入る。ジョギングはいい運動になるけれど、朝の気温はもう随分下がってきたし、雪が降ればしばらく日課はお休みだろう。
真冬は団欒室か別館の空き部屋でも借りて、室内で出来る運動に切り替えられるよう、そのうちメルフィーナにも相談してみようと思う。
「今日は、ウィリアム君もエンカー村に行くの?」
「はい、伯母様にお願いしたら、ご一緒しても良いと言ってもらえたので。マリア様も行かれるんですよね?」
「私はお留守番の予定。仕込みで忙しいだろうし、厨房でエドを手伝おうかな」
「えっ、そうなのですか?」
明日はエンカー村の収穫祭で、領主邸でも毎年領主の振る舞いとして無料で配布する食事を出しているのだという。メルフィーナは、今日はその準備の監督に向かうと聞いていた。
「私は準備といってもお手伝いの役に立たないし、あんまり人数が多いと警備の人が増えるだろうから」
メルフィーナの妹ということになっているマリアは、荷物を運ぶといった単純な作業には関われない。かといって指示を出して人を使うような立場が出来るわけでもないし、性格的に向いていないとも思う。
警備を厚くさせるより、安全な場所で料理の下ごしらえでも手伝っていたほうが役に立てるだろう。
「だったら、僕もお手伝いに残ろうかな」
「え、ウィリアム君は行ってきなよ。ていうか、行った方がいいと思う」
不思議そうにこちらを見返すウィリアムに、慌てて言葉を重ねる。
「ウィリアム君、冬の間はこっちにいるにしても、もうすぐアレクシス……公爵様は帰っちゃうでしょ? 家族揃って一緒にいられる時間は短いんだから、そうしたほうがよくない?」
アレクシスは、収穫祭が終わればすぐに領都に戻ることになっているそうだ。そこから冬の間は北部の各地で出現する魔物の討伐に赴くことになるらしい。
北部の冬は長く、とても寒いのだという。魔物の恐ろしさはマリアには分からないけれど、毎年死者もそれなりに多く出る大変な戦いらしい。
アレクシスが攻略対象であり、魔物の討伐で死ぬようなことは滅多にないのかもしれないけれど、それはマリアやメルフィーナの感覚であって、ウィリアムやオーギュストにとってはいつアレクシスの身に危険が及ぶかなんて分からないはずだ。
ましてウィリアムは、相当若いうちに父親を討伐で亡くしているのだという。現在の保護者であるアレクシスに関しても、不安は尽きないだろう。
ただでさえアレクシスはここしばらくは領主邸に滞在していたのだから、今のうちに一緒にいる時間をたくさん取れればいいと思う。
「それなら、なおさらマリア様もご一緒でないと……」
しょんぼりとした……どこか慮るような目で見つめ返されて、思わずあっ、と声が出るところだった。
メルフィーナの妹であると紹介された自分も、ウィリアムにとっては「新しい家族」の一人という認識らしい。その視点がすっかり欠けていたことに気づいて、ほんのり頬が赤くなる。
「あー、ええと、うん、そうだね。じゃあ、私も……行こうかな」
「はい! 僕、着替えてきます!」
マリアの返事に嬉しそうに笑って、ウィリアムは軽く一礼し、踵を返して走り去っていった。
振り向くまでもなく、少し後ろに控えているオーギュストから、面白がっている気配が伝わってくる。
「……オーギュスト、笑わないで」
「笑っていませんよ」
「うそ、絶対笑っている」
「腹の中のことまでは、証明しようもないのですから、勘弁してください」
それは、おなかの中では笑っていると白状したようなものではないだろうか。ちらりと肩越しに護衛騎士を睨みつけたものの、涼しい顔を返されてしまっただけだった。
「子供には敵わないなあ。……弟に会いたくなっちゃった」
「そういえば、領主邸の女性って全員「姉」なんですよね。一人っ子のウィリアム様とは相性がいいのかもしれません」
すました声で言うオーギュストに、なんとか上手くやりこめてやれないものかと少しだけ悪戯心が湧いてしまった。
「オーギュストは、お姉さんはいないの?」
「俺も一人っ子ですね、そういえば」
「じゃあ、私がたまにお姉ちゃんになってあげてもいいよ」
いつも余裕たっぷりの護衛騎士は、珍しくきょとんとした表情をして、それからくっくっくっ、と耐えきれないように肩を震わせた。中々収まらない笑い声に、悪戯を仕掛けたマリアのほうが段々恥ずかしくなってくる始末だ。
「いや、やめ、やっぱり今のなし」
「いえ、折角ですので、たまにお願いします。――マリア姉様? あ、お姉様のほうがいいですか?」
「なしって言ったのに!」
「俺、記憶力はすごくいいんですよ。北部の地理も全部頭に入ってるくらいなので」
いつも頼ってばかりで細かいところまでフォローしてくれるオーギュストをからかおうなど、土台無理な話だと、少し考えれば分かることだったのに、明らかな判断ミスだった。
むしろなんでこの人をからかえるなどと思ったのか、自分で自分が分からないくらいである。
「もう、私も着替えて来るから! オーギュストも汗冷えしないうちに着替えてきなよね!」
「あ、今の、姉っぽいですね。いやあ、照れますね、こういうの」
「それはもういいから!」
明るい笑顔で見送られて、恥ずかしいのか悔しいのかよく分からないまま階段を駆け上ると、ちょうど身支度を済ませて部屋から出てきたマリーと鉢合わせして、驚いた表情でぱちぱちと瞬きされることになってしまったのだった。