321. 地下室と眠る人
その日の深夜、ささやかに響くノックの音にベッドから下りてドアを開ける。
寝間着に着替えていなかったのですぐに部屋を出ようとすると、迎えに来てくれたメルフィーナに外套を渡された。
内側が毛皮の、モコモコとしたものだ。コートというよりフード付きのポンチョに近い形で、嵩のわりに軽く、羽織ると温かい。
「地下は冷凍庫みたいなものだから、防寒が必要なの」
「ありがとう。これ、あったかいね」
「よければ貰ってちょうだい。マリアの冬の服も、新調していかないとね」
「これって何の毛皮?」
「テンの夏毛ね。冬毛の方が暖かいのだけれど、真っ白になるから捕まえにくくて、手に入りにくいの。冬毛のオコジョの毛皮は、一時は王家しか身にまとってはいけないと言われていたくらいよ」
そう言うメルフィーナの羽織っている外套はキツネなのだという。多分この世界でも、毛皮は高級品なのだろうし、普段はあまり感じないけれど、それをぽんとくれるというメルフィーナの金銭感覚もやはり貴族なのだと思う。
「実家から輿入れする時の目録の中に入っていたのよ。私は銅貨一枚も出していないわ」
そんなことを考えていたのが見透かされてしまったらしく、囁くように言われてしまう。
魔石のランプは光量を絞っていて、足元をほんのりと照らしている。音を立てないように階段を下りていると、住み慣れてきた領主邸だというのに、なんだか冒険でもしているような気持ちになってきた。
「ごめんなさいね、おかしな感じで巻き込んでしまって。アレクシスから、大変な誤解を口にしたって聞いたわ」
あの後、メルフィーナはすぐに領主邸に戻ってきたけれど、何だか思いつめた様子で、夕食の時も少しぼんやりとしているようだった。
夕食が終わった後に、みんなが寝静まった後に迎えに行くので地下まで付き合って欲しいと言われて頷いたものの、メルフィーナの沈んだ様子にあまり会話をすることも出来ずに、今だ。
「気にしないで。こっちこそ、変なことを聞いて、悪かったなあって」
「マリアが気にすることはないわ。アレクシスがあんな勘違いをしているなんて、私も想像もしていなかったの」
「あ、やっぱり誤解だったんだ、よかった」
ほっとして、つい溜息が漏れてしまう。メルフィーナに恋人がいるなんて絶対に何かの間違いだろうと思ってはいたけれど、自分の知らない一面があるかもしれないと、少し悶々としていたのがすっと晴れた。
同時に、メルフィーナがまだ少し、沈んだ様子なのも気になる。アレクシスと喧嘩になったのかとも思ったけれど、夕食の席の雰囲気ではそれとも少し、違う気がした。
「えっと、アレクシスの誤解は解けたんだよね?」
「ええ、地下にいるのは私の友人だって、説明したわ」
絞ったランプの光の中では、その横顔から細かい雰囲気は伝わりにくい。夜の空気を壊さないような囁きに近い声も、いつもと違い過ぎて、判断が出来ない。
「アレクシスもそうだけど、何かあったら、いつでも相談して。なんでも出来るとは言えないけど、私に出来ることなら、頑張るから」
メルフィーナを元気づけたくて、潜めた声でそう告げると、ようやく口元が笑みの形になってくれた。
「ありがとう、マリア」
階段を下りると、アレクシスとコーネリアがやはり外套を羽織った姿で待っていた。倉庫の扉を開けてするりと入ると、アレクシスがメルフィーナの手を取り、階段をエスコートする。一歩下りるごとに、なるほど冷気がじんわりと染み入ってくるほど寒くなっていった。
地下は領主邸内で消費する食品の保存庫で、エールやチーズといった温度管理があったほうがいいもの、必要なものから、砂糖といった高級品などの保存に使われている。マリアの立場だと用がないので下りるのはこれが初めてだ。
思ったより長い階段を下り切ると、中々広い空間になっていた。壁際に棚が並べられて、見慣れたエールの樽や丸いチーズ、使いかけの砂糖の塊のほか、乾燥させた香辛料やソーセージが吊り下げられていたりする。
物珍しくてきょろきょろと周囲を見ていると、メルフィーナはまっすぐに、一番奥の扉に向かう。首から紐を結んで提げていた鍵を使って扉を開くと、ふわっとその先の空間との温度差で、冷たい風が頬を撫でる。
保存庫が冷蔵庫なら、その奥は冷凍庫になっているらしい。コーネリアと並んで、先行するアレクシスとメルフィーナの後ろを進む。
「ここは、最初に領主邸を改装した時に造ってもらったの。あの頃は秘密にしておきたいことが多かったから、ここで色んなものを作ったわ。今あるエールもチーズも、砂糖も、最初はここで生まれたのよ」
エンカー地方の料理が美味しいのは明らかにメルフィーナのおかげだろうけれど、さらにその元となったのがこの場所らしい。
「開発、楽しかった?」
「ええ、すごく楽しかったわ。やることは多かったけれど、まだあんまり領主としての自覚とか責任も薄くて、頭に浮かんだことをそのまま実行出来ていた頃だったし。当時はエンカー地方全体で三百人くらいしか住人もいなくて、長閑で、今思うとだいぶ慎重さに欠けたところも多かったわね」
その頃のことを思い出しているのだろう、メルフィーナの声が、少し弾んでいる。そうしてやや歩き、一番奥に、最後の扉があった。
アレクシスが重たげな扉を開き、扉が閉じないようストッパーを噛ませる。その中は真っ暗だったけれど、ランプの光量を最大にすれば、部屋の隅々まで十分照らし出すことが出来る。
部屋の大きさは、最初の倉庫と同じくらいだけれど、棚や荷物がない分広々として見える。石の床と壁で出来た部屋の天井にやや太い配管のようなものが走っていた。
その中央に、木箱を組んだ上に布を敷いただけの簡素な寝台のようなものが置かれている。魔石のランプの光を反射して、青白く光っていた。
「起こしてほしいのは、彼よ。今は本人の魔力の氷に包まれて眠っているけれど、間違いなく生きている……と言われたわ」
そこだけ妙に自信なさげに言うメルフィーナに頷いて、横たわる人に近づく。
見ただけだと、氷に包まれた死体のようにしか見えなくて、少し不気味だ。その氷漬けになっている男性がやたらと顔立ちが整っているせいもあって、妙に現実感がない。
ただ、その氷の中で眠っている顔には見覚えがあった。「ハートの国のマリア」の攻略対象の一人である、魔法使いのユリウスだ。
「どこかにユリウスがいるのかなあと、何となく思ってたけど、まさかこんなことになっていたなんて」
ぽつりと漏らすと、メルフィーナが不思議そうにこちらを見た。
「ここにきた最初の頃、「鑑定」が暴発して倒れちゃったことがあったじゃない? あの時、色んな情報の中にユリウスの名前が見えた気がしたから」
「すごいわね……使いこなせれば、間諜も出来そうだわ」
「そのたびに熱を出してひっくり返ってたら、すぐ怪しまれちゃうよ」
わざと明るく笑って言って、それからすう、と息を吸う。冷たい空気が胸を冷やすけれど、そのおかげでこれが紛れもなく現実であるのだと思うことが出来た。
ゲームの中の「ユリウス」の印象は、正直いいものではない。魅力と危なっかしさが半々で、残酷な一面も持ち合わせていたキャラクターだった。
けれど、すでにゲームの中とは全く違う、俺様というより無礼千万な第一王子と、クールと言えば聞こえはいいけれど全然気が利かない公爵と、真面目というより取りつく島がないとしか言えない宮廷伯、その上優しくて大好きな悪役令嬢を見た後だ。
ユリウスも、メルフィーナにとって大切な友人というからには人に優しくて思いやりがある穏やかで落ち着いた人だったりするのかもしれない。
「コーネリア、ユリウスを起こすのに必要なのって浄化なのかな。それとも回復?」
「そうですねえ、さすがにこういう患者さんは、わたしも初めてです」
こんな時でもおっとりとしているコーネリアは、頬に手を当てて、うーん、と小さく唸る。
「メルフィーナ様は魔石を浄化したことがあると伺いましたが、それと同じ方法では起こせなかったのですよね?」
「というより、情けない話だけれど、私の魔力の範囲が小さすぎて、彼を包む氷を突破できなかったの」
メルフィーナの魔力は少なくて、体の魔力耐性も低いという話は、折に触れて聞いてきた。
メルフィーナの「分離」を見たことも何度かあるけれど、それで取り出せるのは大豆の粒よりもずっと小さな量だった。
ずっと、ユリウスを起こすため、一人で頑張っていたんだろうか。
こんな寒くて暗い中で、大切な人たちにも秘密を抱えて。
――そんなのはメルフィーナには似合わないし、悩みを解消してあげたい。
「じゃあ、範囲はユリウスの体を包み込むくらいでいいのかな」
「出来そう?」
「範囲を絞るくらいなら、たぶん。コーネリアにたくさん教えてもらったし、レナにもアイディアを考えてもらったから」
だてに靴作りと手習いの傍らで毎日水を出して、炭酸水を作って、講義を受けていたわけじゃない。まだ自分の能力については分からないことだらけだけれど、今できることをやってみよう。
三人には少し離れてもらって、ユリウスを包むように魔力の「層」を作る。これは「鑑定」の応用なので、比較的最初の頃に覚えたものだ。
ユリウス・フォン・サヴィーニ
年齢 22歳
身長 195cm
体重 71キロ
魔法属性 地・水・火・風・氷
能力 「鑑定」「演算」「隠密」「細工」
健康状態 魔力過多
配置 攻略対象05
更新履歴 ・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・
記憶がよみがえるように、情報が頭に浮かんでくる。
攻略対象05の文字に、うんざりとした気持ちが胸をもやもやとさせた。
自分を「鑑定」したら、「聖女」と出るのか。
それとも聖女の後に、番号が振られているのだろうか。
――ほんっと、人を馬鹿にして!
第一王子のヴィルヘルムはともかく、それ以外に関わったゲームのネームドキャラクターたちは、みんなそれぞれ悩んだり思い違いをしたり苦しそうだったり誰かを好きだったり、人間らしい人たちだった。
きっとメルフィーナも、この気持ち悪さと、ずっと一人で戦ってきたのだろう。
運命なんて、物語の中でだけ輝けばいいものだ。これまで関わってきた人たちに、攻略対象だの悪役令嬢だのとレッテルを貼って、運命通りの道を進ませようだなんて、腹が立つ。
それをしているのが、おそらくはマリアを許可なくこの世界に放り込んだのと同じ存在だろうから、なおさらだ。
――そんなの、絶対にひっくり返してやるんだから!




