320.依頼と忠告
団欒室に入ると、アレクシスはすでに中で待っていた。マリアを一瞥し、オーギュストに外に出ているように告げるのに、思わずえっと声が出てしまう。
「――内密の話だ」
相変わらず、怒っているのかそうでないのかよく分からない調子で言われてちらりとオーギュストを見ると、苦笑された。
これは「頑張ってください」の笑みだ。元々オーギュストはアレクシスの腹心で、一時的にメルフィーナの護衛騎士になっていたのを、さらにマリアが借りている状態なので、元々の主人であるアレクシスに逆らわせるわけにもいかないだろう。
「俺はドアの前にいますね。用があったらお呼びください」
近くにいるからと言外に告げるとオーギュストは一礼して団欒室を出て、扉を閉めた。
団欒室は、一時はマリアの靴作りの拠点になっていたので、領主邸の中でも自分の部屋の次に過ごし慣れた場所だ。アレクシスの座る席の向かいに腰を下ろす。
「ええと、こんにちは」
「ああ」
短く応えられ、そこで一度、沈黙が落ちる。
アレクシスとは同じ領主邸内で過ごしているけれど、二人きりになったのはこれが初めてだ。マリアの周囲にはオーギュストを始め、その日によってコーネリアやレナが共にいるし、アレクシスは菜園の家にいるのでなければ兵士たちと訓練に出ていたり、馬を走らせたりして過ごしていて、マリアと生活圏がそうかぶらないという理由もある。
十以上も年上だし、無口で話も弾まないし、メルフィーナとは仲が良さそうに見えるけれど複雑な関係に見えて、おまけに「友人の夫」というこれまで関わったことのないカテゴリに属する人だ。
公爵だと言われても、どんな態度を取ればいいのかも分からない。
別に避けられているわけではないと思うし、こちらも避けているわけではないけれど、距離がある関係であるのは確かだ。だからこそ優しい友人には頼りにくかった出資に関して、程よく言いやすかったということもある。
「ええと、頼みたい仕事って、なんですか?」
ともあれ、大きなお金を貸してもらったし、公爵家の依頼をこなしていくうちに完済できるとオーギュストも言ってくれたけれど、今は債務者のままである。条件だった仕事くらいこなす努力をするのが義理というものだ。
「君の聖なる力で、救ってもらいたい者がいる」
「まだちゃんと使えてるとは言えないですけど……病人とか、怪我人とかですか?」
「説明が難しいが、体に帯びた魔力が強すぎて、魔物に変質しかかっている状態だそうだ。現在はこの屋敷の地下で眠りに就き、その変質を止めている状態だが、これ以上進行すればエンカー地方を滅ぼす脅威になりかねない」
「えっ……大変じゃないですか」
見えるはずもないのに思わず足元に視線を向ける。
春にここに来て、今はもう秋が終わろうとしている。領主邸の人たちとは一緒に食卓を囲んでいることもありすっかり馴染んでいて、いつも行動を共にしているオーギュストやレナ、コーネリア以外のメイドや使用人たちとも気安く会話が出来るようになった。
メルフィーナが傍に置いているだけあって、みんないい人たちだ。ある日突然現れた、ちっとも似ていない「メルフィーナの妹」に戸惑いもあっただろうに、丁寧に接してくれて、何かと気遣ってくれた。
彼らが危ない目に遭うかもしれない状態を、メルフィーナが容認しているのも、ちょっと信じられない。
「あの、どうして領主邸の地下に? その、一番危ない場所ですよね」
「そこが一番、秘密を守るのに適していたからだろう。このことを知っているのは、メルフィーナと私だけだ。外に秘密が漏れることは防がねばならなかった。もし漏れたら、彼を始末するのはメルフィーナの仕事になる」
「始末……」
あの穏やかで優しい人に、これほど似合わない言葉もないだろう。アレクシスもそれを口にしたことそのものに、気分を害した様子だった。
――この人、本当にメルフィーナのことが好きなんだよね。
他のことではほとんど感情を外に出す様子のないアレクシスだけれど、大した接点がないマリアにも、それだけはよく分かる。長い付き合いらしいオーギュストにはもっと分かりやすいだろうし、むしろどうして、メルフィーナがそれに気づかないのか不思議なくらいだ。
「メルフィーナの大切な人だ。……そんな残酷な真似は、させたくない。君は聖女としての力をはっきりと示した。ならばできるはずだ」
「自分でも全然発動の条件とかタイミングとか分かってないけど、メルフィーナの大切な人だっていうなら、勿論引き受けますよ。むしろ仕事でなくても、言ってくれればよかったのに」
メルフィーナには本当に世話になっているし、自分ができることがあるならいつだって頼って欲しいと思うけれど、マリアが寄る辺がなく、不安定な立場であることを誰よりも気にかけてくれているのも分かっている。
きっとプレッシャーを与えないようにと思ってくれていたんだろう。
「メルフィーナの大切な人って、どんな人ですか?」
メルフィーナは人を大切にする人だ。もしかしたらその人は、元々領主邸の住人や、身近な使用人だったのかもしれない。
あれほど包容力がある人なので、もう一人二人妹がいたりしてもおかしくないかも。
「エンカー地方で雇っている錬金術師で、国内でも屈指の魔力を持つ強大な魔法使いだ。彼女の恋人でもある」
「彼女? マリーさん?」
「メルフィーナの、恋人だ」
「メルフィーナの?」
繰り返し言われても、理解出来ずに反芻してしまう。
メルフィーナは、目の前にいる人の奥さんだ。
傍で見ていても全然彼氏彼女という感じではないけれど、アレクシスは大人であるし、メルフィーナだって年の割に落ち着いていて、おまけにこの世界の恋愛や結婚について自分が無知であるということもある。二人が複雑な関係であるのは察していたけれど、仲は良さそうだし、色々と事情があるのだろうくらいに思っていた。
メルフィーナとアレクシスという夫婦について、マリアが知っているのは、むしろゲームの知識としてのほうが大きい。
ゲームの中の悪役令嬢メルフィーナは、典型的な美しくも恐ろしい貴族令嬢だった
高貴で、傲慢で、贅沢が好きで、美しい薔薇が鋭い棘を纏っているように、今のメルフィーナからは想像も出来ないほど攻撃的に描かれているキャラクターだ。
マリアの教育係になってからは明らかに危険が及ぶことを平然とマリアにやらせたり、作法がなっていなければ扇で手を打ち据えるようなこともしていたので、セドリックからどうやらゲームのメルフィーナとは様子が違うと聞いてはいたものの、初対面の時はだいぶビクビクしていた自覚もある。
マリアにとっては恐ろしい人ではあったけれど、それでもゲームのメルフィーナが、アレクシスを好きだったのは、疑いようがない。
そうでなければあれほど苛烈にマリアを苛めたりするものだろうか。
アレクシスは政略結婚した相手の性格に難があり悩まされているという立場だったし、メルフィーナのキャラクターの描き方からその末路に対して同情するユーザーの声はほとんど上がらなかったけれど、とにかく美しいその外見から、何気にファン・フィクションではアレクシスとメルフィーナの悲恋はそこそこ人気のある題材だった。本人たちを前に言うことでもないと思っているので口にしたことはないけれど、マリアも結構好きで読んでいた。
正直に言えば、マリアには今現実として目の前にいるメルフィーナとアレクシスの関係は、よく分からない。
家族として大切にし合っているように見える反面、やや距離があるように感じているのも事実だ。全てのことに最適な答えを出すメルフィーナが分かりやすく悩んでいる様子を見せるのはアレクシスに関わることばかりだったし、それについて、本人もあまり話したくなさそうな様子だった。
それが、政略結婚しているアレクシス以外に好きな人がいて、アレクシスもそれを知っているからというのは、マリアには受け入れがたいけれど、無いことではないかもしれない。
――いや、私には荷が重いわ。
恋愛観も結婚観もまるで違う世界であるし、日本の感覚を持ち込んでも仕方がないのかもしれない。
どんな事情があるにせよ、メルフィーナはマリアにとって大切な人だ。味方をしてあげたい気持ちはある。
「ええと、私に頼む件については、メルフィーナも了承しているんですよね?」
「していなかったら、なにか問題が?」
その返事にしばし言葉を失い、じわじわと、焦りが湧いてくる。
つまり今、自分は友人の結婚相手からその浮気相手の治療について相談されていて、しかもそれについて当の友人は何も知らない、という状況に立たされている。
「いやいや、問題あるでしょ。むしろ問題しかないでしょう!」
こちらの世界はプライベートとか個人情報という感覚が薄いのは分かっていたけれど、さすがにこれはアウトだ。マリアの感覚的に、なんてことを聞かせてくれたんだという気持ちが強い。
「そういうことは、まず本人の了承を取らなきゃ駄目ですよ! 勝手に言われて知られたなんてメルフィーナが知ったら、絶対傷つくし、下手したらあなたのこと大嫌いになりますよ!」
「……それほどか?」
「それほどです! 絶対に! 私なら勝手に自分の秘密をバラす人なんて、親兄弟でも信用できなくなるし、二度と顔も見たくなくなります!」
あまり表情は変わらないけれど、衝撃を受けている様子にほんの少し安心する。
さすがにこれで何も感じていない様子だったら、本気で人の心があるかどうか怪しくなるだろう。
テーブルに手を突き、勢いよく立ち上がる。
「行きますよ」
ともかく、聞いてしまったものは仕方がない。今更無かったことには出来ないし、かといって無神経なアレクシスのうっかりで、メルフィーナと変な空気になるのもごめんだ。
マリアの意図を飲み込み切れていない様子のアレクシスにも腹が立つ。
「今すぐメルフィーナのところに行って、私に勝手に余計なことを言ったことを謝って! こういうのは後で知ったり、人伝に聞いたりする方がこじれるんだから、今! すぐに! アレクシスの口からメルフィーナに謝ってください!」




