318.公爵と公爵夫人の会話
アレクシスの口は重く、中々話し始めようとしなかったけれど、話す気がないわけではなさそうな雰囲気ではあったので、少し雰囲気を変えるためにお茶を淹れることにする。
小さな魔石のコンロでお湯を沸かし、備え付けのポットに茶葉を入れる。ゆっくりと蒸らして香りを出している間に、アレクシスが二人分のカップを用意してくれた。
きっとエンカー地方に来るまで自分で食器を並べるなんて考えたこともないだろうに、今はすっかり慣れた仕草だ。豆を剥くのも堂に入っていたし、公爵という高い地位に座しているアレクシスのそういう一幕を見るたびに、なんだか悪いことを教えてしまったような、それでいて面白く感じるような気持ちになる。
ここも元々は農具や菜園の収穫物を一時的に保存し、メルフィーナが種の「鑑定」を行うために残された家だったのに、「菜園の家」もすっかり各人の居心地のいいたまり場のようになった。
暖かい時期はアレクシスがテラスでぼんやりしていることが多いし、温室は気温が下がってからはほぼ女子会の会場で、寛ぐための道具も自然と揃ってきている。
もう少し本格的に寒くなってきたら、温室にはストーブか簡易な暖炉を設えることになるだろう。冬は日照時間が短く、そう長く屋外にいられないということもあり太陽の光を浴びるのは貴重な機会だ。ますますここが贅沢な時間を過ごす場所になるかもしれない。
「棒砂糖は大盤振る舞いしてしまったけれど、小分けしたものが少し残っていたわ」
砂糖を入れた熱い紅茶をゆっくりと飲んで、ほう、と息を吐く。
「あんな風に引っ張られてくるから、驚いたわ。本当に、一体何を言ったの?」
マリアは活動的で少しだけ衝動的な一面もあるけれど、反面、やや臆病な気質も持っている。微妙に距離感があるアレクシスにあんな暴挙に出るなど、よほど頭に血が上っていたのだろう。
「……仕事の依頼の話をしていたら、そんな大事なことを君抜きで話すなと言われた。もう自分が聞いてしまったから、今すぐ君に許可を取れと」
「プライベート……私的なことね」
アレクシスがメルフィーナのプライベートについて、マリアに何かを頼むという、その何かに、全く心当たりはない。
「何を言ったの?」
「……君の大切な人を、救ってやってほしいと」
「大切な人?」
その言葉に少し首を傾げる。
仕事云々と言い出したタイミングからして、マリアの聖女としての能力を頼りたいという意味だろうとは思っていたけれど、メルフィーナの周囲で癒しを必要としている心当たりは、一人しかいない。
「もしかして、ユリウス様のことをマリアに頼んだの?」
アレクシスは、神妙な様子で頷いた。
聖女の力が安定しないためこれまで言い出すのを控えていたけれど、それについてはいずれメルフィーナもマリアの協力を仰ぐつもりでいた。
ユリウスのことは、エンカー地方だけでなく最悪の場合、北部全体の問題になりかねないので、中々次の手を講じかねているメルフィーナに焦れてマリアに依頼したという流れも、分からないでもない。
「なんというか、その言い方はちょっと微妙じゃないかしら」
マリアが夫婦観がどうの、プライベートに巻き込まれるつもりはないとまで言い放った言葉と合わせても、アレクシスの中に大変な誤解がある気がする。
「……念のために、本当に念のために言っておくけれど、私とユリウス様の間に友人以上の関係も感情も、ないわよ?」
アレクシスは元々あまり感情が表情に出ない人ではあるけれど、それでもほんの僅かに目を瞠ったのを見て取り、額に手を当てる。
「もし、私に遠慮をしているのなら」
「していないから! 大体、ユリウス様がエンカー地方に滞在している間もほとんどは領主邸ではなくメルト村に入り浸っていたのよ? もし愛人関係だったらそれこそ私にべったりしているはずだし、あの頃はセドリックだって傍にいたんだから、そんな不貞を許すわけもないでしょう!」
アレクシスは到底納得しているとは言えない様子だったけれど、むしろ何故そんな風に思ったのか――いつからそう考えていたのか、メルフィーナにはさっぱり理解できなかった。
一時のように不貞を疑われてすぐに頭に血が上るということもなくなったけれど、それでも不愉快な疑いであることに違いはない。思わず睨みつけると、アレクシスは静かにそれを受け止めていた。
「君はとても合理的な人だ。意味のないことはしないし、他者の働きには正しく報酬を与え、自らの働きにも対価を要求する、そういう人だろう」
「……それで?」
「私は、君がエンカー地方そのものをとても大切にしていることも知っている。君はこれまでどれほど莫大な金貨を手にしようと私腹を肥やし贅沢に溺れることもなく、領を豊かにすることに注力し続けてきた。彼の魔法使いは君のために命を尽くし、君もエンカー地方と天秤にかけても彼を生かすことを選んだ。そこにあるのは無償の想いであり、その意味も、おのずと分かるというものだ」
「待って、ちょっと待ってちょうだい」
両手の平を突き出してアレクシスの言葉を止め、腕を組んで、ううん、と小さく唸る。
状況証拠を並べて箇条書きにすれば、どんなシナリオだってそれらしく見えるものだけれど、話を聞くうちにアレクシスの「誤解」については、少しこちらに分が悪い気がして来た。
ユリウスがあの場で本当に助けたかったのはメルト村であり、その中心にいたのはレナであることは明らかだ。
だがあの場で護衛騎士だったテオドールは馬の暴走で傍にいなかったし、馬車に同乗していたマリーは気を失っていた。
レナにはユリウスが魔物化したことを隠蔽するため、あの場で起きたことは他言しないように強く言い含めてあり、ユリウスの命に関わることもあり、両親や兄にさえ、一言も漏らした様子はない。
あの時のことで客観的な証言が出来るのはアルファだけということになるけれど、そんな証言をしにわざわざ顔を出してはくれないだろう。
そして、契約主義であり、それこそ合理主義者であるアレクシスから見れば、それらを逸脱してメルフィーナとユリウスがお互いに無償の愛を捧げているように見えても、ある意味仕方のない状況なのかもしれない。
家族と呼び合うようになって以降も、メルフィーナとアレクシスの間にある関係のほとんどは、取引と対価というビジネスを挟んだ関係だったのだから、なおさらだ。
――マリアに、地下で眠っている私の恋人を救って欲しいとでも、持ちかけたということね。
なるほど、現代日本の価値観と倫理観を持つ少女があれほど焦り、またメルフィーナに無許可でそんなことを持ちかけたアレクシスにあんな反応をしたわけだ。
既婚者の友人の愛人の話を、その夫から持ち出されて、高校生の少女に冷静に受け止めろというのは難しいだろう。
この誤解を解くために、どうアプローチするか考えながら、ただでさえ甘くした紅茶に更に砂糖のかけらをふたつほど入れ、よくかき混ぜてぐっと飲み干す。
歯が痛むと錯覚するほどの強い甘さに、少しだけ混乱が収まる気がした。
「……あのね、アレクシス。あなたももう知っているように、私には前世の記憶があって、そこは、すごく個人の権利を大切にする世界だったの」
「? ああ」
急に話が変わったと思ったのか、やや怪訝そうな表情を浮かべながらも、頷く。
「そこでは、誰かのために誰かが犠牲になるという価値観は縁遠いものだったし、どんな理由があっても人権……きちんとした住居があって、食事をして、衣服にも困らない、生きるために必要なものはどんな人でも、どんな状況でも保障されなければならないという考え方が当たり前だったの」
「だが、病や働き手との死別といった、どうしても生活が立ち行かなくなる場面も出て来るだろう」
「その時は税金から生活費の保障が出るわ。子供は労働力としてではなく乳児院のような施設があって、そこで十八まで育てられることになるし。それぞれの苦労は勿論あるけれど、生きるのに困るということは、基本的に起きないように調整されているの」
全てが理想的に機能しているとまでは流石に言い切ることは出来ないにしても、メルフィーナやマリアにとっては当たり前のことだ。
対照的に、ここは人間の所有権が売買される、それが当たり前の世界である。
これまでも、価値観の齟齬はメルフィーナを思い悩ませてきたものの一つだった。
「領主としては相応しくない考え方だという自覚もあるわ。でも、どうしようもないの。心が拒否してしまうのよ。たとえ悪人だって、罰を受けることはあってもだから死んで当然だなんて思えないの」
アレクシスは広大な北部の支配者となるべくして生まれ、それにふさわしい教育を受けて成長したはずだ。
たった二十歳で公爵位を継ぎ、そこから大過なく北部を治めてきた。
きっとメルフィーナのこうした個人的な甘い部分は、理解しがたいものだろう。
「ましてそれが友人なら、何があっても生きて欲しい、たとえ彼が生きることで多くを犠牲にしてしまう可能性があるとしても、その手で殺せと言われて、そうすることは出来なかったの」
ユリウスにナイフで心臓を刺せと言われて拒んだ、あの時の選択に後悔はない。
何度あの場に戻っても、きっとメルフィーナにそれは出来ない。
けれど領主としての自分は、その選択を強く非難している。それが出来ない弱さに憤りすらある。
この葛藤は、領主である限りこの先も抱き続けることになるだろう。
「ユリウス様は、友達よ。私の甘い部分が切り捨てることを許さなかった、もう一人の家族のようなものよ」
今日は夜にもう一話更新できそうです。




