313.報告と悪疫の終息
騎士と兵士たちによる現場の報告書に目を通し、メルフィーナは苦い表情でそっと拳を口元に押し当てる。
報告書として出来る限り客観的な事実のみが羅列されているけれど、それでも深刻な有様であったことが文面から伝わってきた。
「やっぱり、ひどい状況だったようね」
独り言ちると、報告書の提出に訪れたローランドが背筋を伸ばし、こちらも思わし気な表情で答える。
「はい。メルフィーナ様の衛生状態の改善命令の後も実行した形跡は見られず、住人への聞き取りによればトイレに関しても適切な回収を行っていなかったため、汚物槽が溢れて利用する者がいなくなったとのことでした」
「それで、汚物を窓から捨てるのが横行していたのね」
そして、窓に面した場所には井戸が掘られていた。
今回のことがなくとも、遅かれ早かれ何らかの悪疫が発生したのは間違いないだろう。
「地魔法の魔法使いにトイレの汚物槽ごと埋めてもらって、土をかぶせ、その上から火を焚くように指示してちょうだい。飯場周辺の表土は、火の魔法使いを雇い入れてこちらも厳重に焼いてください」
「かしこまりました。すぐに手配いたします」
「井戸は埋めるしかないわね。処置に当たる兵士たちは必ずマスクを装着して、石鹸での手洗いと処置が済んだら入浴を強く義務付けて。この悪疫は高熱に弱いので、身に着けた服は全て煮えた湯で洗うよう、そちらも指示を」
前世のように密閉できるビニールやプラスチックの容れ物も、土壌消毒が出来る消毒剤も存在しない以上、熱で処理するのがもっとも確実な方法だ。
飯場そのものも取り壊し、残存物は焼却したほうが良いだろうけれど、ひとまず土壌と水を優先し、建物の方は所有者と話をする必要があるだろう。
「飯場の所有者について、分かったことはあった?」
「現場はリラという飯炊き女が面倒を見ていたようですが、持ち主はエルバンに商会を持つ資本家でした」
「その人は今どこに?」
「エンカー村の宿に逗留していることを確認しております」
資本家の仕事はお金を出して事業を運営することで、大抵現場は別の監督者に任せているものだ。
メルフィーナも実家からの持参金として割り当てられた鉱山を含めいくつかの財産を所有しているけれど、利益から配当を得ていても、実際の鉱山に足を運んだことはない。
今回のように資本家本人が現場の近くにいるのは、かなり珍しいケースと言えるだろう。
「飯場は常に満室で、運営自体は潤っていたのでしょう。他にもエンカー地方で事業を起こそうと考えていたようですね。エンカー村の不動産もすでにいくつか貸借権の取得を済ませていました」
「召喚の手間が省けてよかったわ。調査が終了後、当人を呼び出して、その間に逗留している宿の部屋から荷物の類は全て押収しておいてちょうだい。随行している者が妨害しようとするなら、領主の命令だと告げて構わないわ」
問題がなければ押収した荷はそのまま戻せばいい。
問題があれば、そのときはしかるべき処理をするだけだ。
「本当はあまり、こんなことはしたくないのだけれどね」
「命令に従わなかったのはあちらですので、ある程度の強行手段は必要だと思います」
セドリックの言葉に頷き、もう一度、住人を移した後の広場の様子を記した報告書に目を落とす。
管理するべき責任者が、改善の通告があったにも拘らずそれを怠り、被害者が出た。
もっと強く警告し、定期的に監視しておかなかったことを悔やむ気持ちもあるけれど、それと所有者の責任はまた別の問題である。
「ひとまず、悪疫が終息しそうで、よかった」
かなりの人数が下痢や腹痛、発熱などの症状を訴えていたものの、幸い死者は出なかった。
一時は家族で狭い部屋を利用し、そこで出産まで行っていたようだけれど、こちらは厳しく制限しメルフィーナが代替の滞在先を用意したこともあり、悪疫の発生時に乳児や幼い子供がいなかったことも幸いしたのだろう。
悪疫の発生は苦い事態ではあったものの、飯場での出産をきっかけにメルフィーナがコーネリアを見つけることが出来たことを含め、色々な幸運もあった。
「住人の隔離を行い三日が経ちましたが、新しく症状を訴える者は出ませんでした。すでに症状が出ていた者も、全員が回復傾向にあるそうです」
「悪疫が早期に発見されて、対策を立てられたおかげね。コーネリアは、本当に頑張ってくれたわ」
ほっと息を吐いて、自然と口元に笑みを浮かべる。
今回コーネリアが動いてくれなければ、ことはもっと深刻な状況になってから発覚することになっただろう。
死者が出ていた可能性もあるし、診断が遅れ、出歩く住人に症状が出て感染が広がり、周辺の住人との軋轢が生まれて最悪の展開になっていた可能性だって、決してゼロではなかった。
「コーネリア様ですが、領主邸への帰還を勧めておりますが、ご本人に発熱の症状が出ており、熱が下がるまでは帰還を辞退するとのことです」
これにはローランドも少し困っている様子だった。
元々コーネリアを捜索していて今回の騒ぎだ。随時上がって来る報告からも、コーネリアが今回の件で随分奮闘してくれたことが伝わってくる。
危険な状態にあっても、まるで問題ないというように朗らかに笑っている彼女を思い出して、胸が痛む。
「たとえ発症していても、看病はこちらで行うので構わないから連れ帰ってちょうだい。――彼女、いつもそうなのよ。自分のことは後回しにして、意外と頑固だし、人に頼るのが上手ではないの」
かつて飯場から領主邸に引き取った時も、あれこれと理由を付けて拒んでいた彼女のことだ。少しでも懸念がある状態では、自分から首を縦に振ることはないだろう。
「では、メルフィーナ様のご命令ということにさせていただきます」
ローランドが微笑みながら言うのに、苦笑が漏れる。
「領主邸にはご馳走が用意されていて、戻らなければ無駄になるかもしれないと付け加えてくれる?」
「かしこまりました」
優雅に礼を執り、ローランドは執務室を退室していった。マリーとセドリックとともにそれを見送り、思わず大きなため息が漏れる。
「どうやら、これで一息つけそうね」
「お疲れ様でした、メルフィーナ様」
「ようやく、ゆっくり休んでいただけそうで何よりです」
マリーとセドリックに左右から言われて、苦笑する。
悪疫の発生からたったの四日の間に、何度この二人に休めと言われたか。数えていたらそれなりの回数だったに違いないと思えるのは、ようやく余裕が出てきたからだ。
「二人ともお疲れ様。コーネリアが戻って資本家との話も済んだら、しばらくは休養しましょう」
すぐに収穫祭もやってくるし、それが終わればあっという間に霜が降りて、冬支度が始まる。
それまでの間くらい、のんびりしても罰は当たらないだろう。
新しいお茶を淹れましょうか、マリーがそう言ってくれたのとほとんど同時にノックの音が響き、セドリックがドアを開けるとオーギュストが礼を執って入室してきた。
「メルフィーナ様、悪疫が収まったと伺いました」
タイミング的に、執務室を出て行ったローランドと顔を合わせたのだろう。
「ええ、正確には小康状態に入っただけだけれど、上手く管理すればここから先は発症した人たちも回復するでしょうし、ひとまず終息したことになると思うわ」
「良かったです、本当に……」
その言葉は重々しく、オーギュストにしては珍しく深刻そうな表情をしている。
そうして、彼の護衛対象であるマリアが傍にいないことに、首を傾げることになった。
「マリアはどうしたの?」
「今は菜園の温室にいます。閣下がテラスにいるので、俺はしばらく席を外す許しを頂きました」
菜園にいるということは体調が悪いという意味ではないだろう。
けれど、アレクシスに代理を願ってまでマリアの傍を離れる必要がある理由があったはずで、オーギュストの様子を見るに、それはおそらく、良い理由ではないことが伝わってくる。
この数日、悪疫の対策のために執政官たちと会議を開き、お針子や騎士たちへの指示をこなし、マリアを気に掛ける余裕がなかった。
「……マリアに何かあったの?」
その問いかけに表情を曇らせると、オーギュストは重い声で告げた。
「悪疫が落ち着くまでメルフィーナ様を煩わせたくないということで口止めされていましたが、これ以上は見ていられません。どうかマリア様を止めて下さい」
そう言って深々と頭を下げたオーギュストに戸惑いながら、マリーとセドリックと複雑な気持ちで視線を交わし合うことになった。
 




