312.不安の先と守護の灯火
本日は二回更新しています。
疲れに引きずられるようにテーブルに突っ伏して取っていた浅い眠りから、コーネリアを引き戻したのは、響き渡る怒号だった。
慌てて体を起こすと、少しくらりとした。何度か頭を振って立ち上がり足早に玄関に向かうと、門の辺りで飯場の住人が揉めているのが目に入る。
食って掛かられている相手は、顔の下半分を布で覆う奇妙なものを装着している。身なりからして兵士ではなく、騎士だろう。
少し離れているのに、殺気だった雰囲気がびりびりと伝わってくる。
「どうして仕事に出ちゃいけないのか、説明しろって言ってるんだよ!」
「領主様より、今日は敷地内から外に出ず、待機せよとの命令だと言っているだろう」
「だからそれが何でかって聞いているんだ!」
「こっちは一日仕事がないだけで、どれだけ困るか分かってるのか!?」
声を荒げているのは二、三人で、残りは騒ぎを聞きつけて集まったものの状況が掴めないまま門の辺りに佇んでいる様子で、むしろ激昂している男を止めようとしている者も交じっているようだ。
「おい、その辺にしておけよ」
「領主様に今日は休めと言われたら、従うしかないだろう」
共同体において代官や執政官の命令は絶対である。ましてそれが、領主から下されたものなら、覆しようはなく、粛々と従うしかない。
騎士の大半は貴族出身であり、指示に従わないようなら無礼討ちにされ、苛烈な支配者ならば騒乱を止めなかったという理由でその場にいた平民も連座にされる可能性だってなくはない。
ごくりと喉を鳴らそうとして、緊張感で口の中がカラカラに渇いていることに気が付く。そのくせ、ぎゅっと握った手のひらは汗でじっとりと湿っていた。
「あのー、とりあえず、朝食にしませんか? 寝坊してしまいましたが、これから私が作りますんで」
あえて明るい声で割り込むと、男たちはほっとしたように表情を緩めたけれど、兵士に食ってかかっていた数人は、コーネリアに対しても懐疑と苛立ちを込めた目を向けるばかりだ。
同じ飯場で暮らしていると言っても、一定期間働いている間に顔見知りになったというだけで友人というわけでも、仲間というわけでもない。余裕のない状態になれば、敵意や猜疑心は水にインクを落とすように広がっていく。次に何を言われるかと緊張していると、騎士がああ、と大きな声を出した。
「領主様から、食料と振る舞いが届いているから、それを使うといい。水も樽で運ぶので、しばらくこの飯場の井戸は使わず、そちらを飲むようにとのことだ」
「まあ! 領主様からの振る舞いですか!? エンカー地方の領主邸は食べ物が美味しいことですごく有名なんですよ。いいのでしょうか!」
コーネリアが歓声を上げると、普段朝食は薄い麦粥をすするばかりの飯場の男たちに、ざわりと期待が走るのが伝わってくる。
「まったく、先にそれを言うつもりだったのに、そこの男に食ってかかられて困っていたところだ。貴女がこの飯場の責任者か?」
「いえ、私はただのお手伝いの飯炊き女です。もう一人いるのですが、今日は体調が悪いので、代わりに私が」
「では、過不足なく行き渡るように、手配を頼む」
騎士は鹿爪らしく目録を読み上げる。食料の中に、パンと肉類が入っていることで男たちは目に見えてそわそわとし始めた。
「それと、経口補水液がひとまず大樽に一杯だ。こちらは滋養を付け体の渇きを癒すものなので、その体調の悪い女性にも飲ませてやるといいだろう。追加は順次行うので、弱っている者には残量を気にせず飲ませるようにと、領主様からのご指示だ。それ以外の者にはエールを用意してある。こちらも希望者は好きなだけ呑んで構わないそうだ」
騎士がよく通る声でそこまで告げると、先ほどまでの刺々しい雰囲気は、もうすっかりと和らいでいた。
形のない不安は、目に見える利益の前では朝露のように儚いものらしい。
「まあ、エンカー地方の領主様は、なんて慈悲深いのでしょう。わたしもしっかりと働きます」
「うむ、仕事を任せてしまう形だが、貴女もしっかりと食べて、無理なく休息をとるようにな」
騎士は少しぶっきらぼうにそう告げて、それから次々と荷馬車に載せた樽と食料が入ってきた。
朝食用の箱には全粒粉を使ったパンと、すでにボイルされたフランクフルト、各種野菜が詰められている。竈に火を入れて温めている間にフランクフルトに切れ込みを入れ、香ばしさが出る程度にフライパンで焼いて、刻んだ野菜と一緒にパンに挟んだものを作り、配っていく。
「これ、エンカー地方の屋台で売られているのに似ているな」
「平焼きパンのサンドイッチですね。私もそれ、好物なんですよ」
人間、腹が減ると必要以上にイライラするものだ。一日の稼ぎが減るのは困るにせよ、腹いっぱい食べて普段は中々手の出ない領主邸のエールを好きなだけ呑めることで、彼らの焦りも和らいだ様子だった。
一通り食事を配り終え、それをつまみにエールを呑んでいるのを確認して、経口補水液と呼ばれた樽からコップに汲んで一口飲んでみて、驚いた。
間違いなく砂糖が使われている。こっそりと「鑑定」をしてみれば、中身はやはり、水に砂糖と塩を混ぜたものだ。
それを大樽にいっぱい。そして順次補充するのだという。
流石にやや緊張し、同時にメルフィーナが水ではなくエールを寄越した理由も理解した。
経口補水液と呼ばれるものは、味も悪くない。甘味を知らない人間が口にすれば、物珍しさも相まって元気のある者が我先に飲み干してしまうだろう。
彼らがエールに夢中なうちに小樽に移して、まずはリラに、それから割り当てられた部屋で寝込んでいる者たちにせっせと与えていく。すっかり自分の朝食を忘れていたことに気づいたのは、太陽が大分高い場所に上がった頃だった。
昼食には肉の入ったスープを作ろうか。その前に少しつまみ食いを……そんなことを考えていると、開け放した厨房の窓から顔を覆った兵士たちが敷地に入ってくるのが目に入る。
「これから住人の移動を開始する! 荷物を持つ必要はないので、まずは自分で歩ける者から、誘導に従って進むように!」
再び不安がるようなざわめきが立つけれど、もう食ってかかる者はいなかった。外に出たコーネリアに、騎士が丁寧に声を掛けてくれる。
「お嬢さん、貴女も一緒に」
「あの、中に寝込んで、動けない女性もいるんです。わたしは彼女と一緒に行きたいのですが」
「大丈夫、我々が丁重に運び、決して乱暴なことはしないと約束します。――よく頑張りましたね」
「……とても、お世話になった方なんです。よろしくお願いします」
移動にはロバの引く馬車が使われ、着いた先は、天幕の張られた広場だった。
コーネリアに割り当てられた天幕に、ほどなくリラも担架で運ばれてきて、兵士の一人に、彼らが顔に着けている布を手渡される。
「こちらの紐を耳にかけて、鼻と口を覆って下さい。今住人に入っている悪い風は、汚物に触れた手指を口や鼻、目に触れることで他者に移るのだそうです。一日に一度、取り替えますので、指で目に触れないことだけ気を付けて下さい」
布に触れただけで、それが上等な綿で作られているのだと分かる。それこそ、メルフィーナの衣装に使われるようなものだ。
悪い風を遠ざける物など、神殿に所属していたコーネリアですら見たことも聞いたこともない。おそらく夕べ、悪疫の発生を知ってからメルフィーナが作ったのだろう。
目の奥が、じわりと熱を持つ。
姿が見えなくても、あの優しい人もまた、人を、土地を守るために戦っているのだと、それだけで伝わってくる。
「他の住人は我々で風呂と着替え、洗濯を致しますが、女性は貴女にお任せしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、ええ、勿論です」
「すぐに食事も用意いたしますので」
丁寧に告げて、兵士はそのまま天幕を出て行った。
ここにいると、飯場がどれほど悪臭に包まれていたのか、よく分かる。
パチン、と炭の爆ぜる音に、天幕には火鉢が用意されていて、すでに火が熾されて暖められていた。それにようやく気付くくらい、自分も余裕がなかったらしい。
赤い炭の熾火の色が、何だか目に染みてしまう。
ベッドに寝かされたリラも、経口補水液を与えた後からは、少し顔色が良くなっているようだった。
自然と胸で手を組んで、祈っていた。
――ありがとうございます、メルフィーナ様。
ここにいなくても、彼女が傍にいるのだと感じることが出来る。
その見えない腕で抱きしめられ、温められているような、そんな気がする。
助けられて、守られている。
強く、そう感じることが出来た。




