310.不安と暗い道
まだ日が高い頃合いだというのに、一人、二人と飯場に戻って来る者が増えつつあった。
朝は問題なかったけれど、体調が悪くなり仕事にならないから戻ってきたらしい。誰も彼も腹を抱えて、粘ついた汗をかいている。
こみ上げてくる緊張感を押し殺し、すでに起き上がれない者の部屋に水を運んでいるうちに、そろそろ夕食の仕込みに入らなければならない時間だった。
飯場は朝と夜、粗末だが食事が出るけれど、飯炊き女として雇われているリラは到底動けそうもない。
幸い黒パンは在庫があったので、それをカットし、大麦の粥に豆を混ぜたものを炊いて塩で調味する。あとはこれにエールを付ければ、飯場の夕飯の出来上がりだ。
リラが仕込んだらしいエールは酸っぱくて、少し黴臭い。ついこの間まで、コーネリアも当たり前にこれを食べていたし、修道院の食事もこれにチーズが付く程度で、大して変わらない内容だった。
改めて領主邸での食事に感謝しながら夕飯の仕込みを終えると、ささやかな晩餐の匂いにつられたように、腹を減らした労働者たちが食堂に入って来る。
「なんだコーネリア! 出戻りか?」
「こんばんはー。今日はリラさんが体調が良くないというので、お手伝いに来たんですよー」
豪快に言う男に言われて、コーネリアもにこにこと笑いながら豆と大麦の粥をよそう。
「コーネリアちゃんは商家の娘さんって聞いたが、よく親が許したな」
「うちはもう諦めてますねー。変に反対して遠くに出ていかれるよりはマシだと思ってるみたいです」
「あんま親を心配させんなよ」
「もうちょい多めによそってくれ。腹が減って死にそうだ」
飯場の環境は良いとは言えないが、そこに出入りしている男たちは決して悪い人たちではない。中には行き場のない流れ者もいるけれど、ほとんどは暖かい時期に家族のためにお金を稼ごうと故郷から離れてここにいる人たちだ。
帰る場所があり、大切な人がいる、そんな人たちばかりである。
「あ、井戸の辺り、今掃除しているので使わないでくださいね。水は入口のとこにある樽に入ってるんで、そこから飲んでもらえれば」
「ああ、デカい樽が置かれてるからエールかと思ったら、水なんだな」
「あんなところにエールを置いてたら、みなさんが全部飲んじゃうじゃないですか」
「ハハッ違いねえな!」
食事をしている間不機嫌な者はここにはおらず、簡単な夕飯を済ませてしばらく顔見知り同士と会話に興じるのがいつもの流れだ。
家族が傍にいない分、寂しいのだろう。お喋り好きな者が多く、給仕と片付けをしているコーネリアの耳にも自然と噂話が聞こえてくる。
「しかし、今日は妙にこの飯場の人間が少なかったな」
「ああ、腹を壊して午後で帰るやつが多かったからな。もう少しでここでの仕事も終わるっていうのに、間が悪いことだ」
「だが、借りた金の返済は済んでいるだろう?」
「借用書には、指定された日数を満期やりきるって書かれていたから、どうなるかは分からんな」
飯場に流れる不穏な気配を、彼らも感じ取っているのだろう。食堂に来る者も、コーネリアのいた頃に比べると半分近くになっている。
残りの半分は、割り当てられた部屋で腹痛に苦しんでいるはずだ。
「みなさん、お粥のお代わりいかがですか? 今日は人が少なくて、ちょっと余ってしまいました」
「お、貰えるなら貰うぜ!」
「粥はいくら食っても腹に溜まらないからなあ」
「お豆が沢山入ってるところをどうぞ。あ、エールも少しありますよ」
明るく言っておかわりをよそえば、腹が膨れたことで不安は和らいだらしい。窓の外が完全に暗くなるころには、明日も日が昇れば食事をして働きに行く男たちは自然と自分の部屋に引き上げていった。
後片付けを終え、蝋燭に火をつけてリラのもとに戻ると、つんと鼻を突く異臭がする。
リラはまだ眠っている。だがその額には玉のような汗が浮いていた。異臭は、寝ている間に下してしまったせいだろう。
「リラさん、着替えだけさせてくださいね」
声を掛けて、汚れた下着を脱がせて清拭をする。幸い昼間洗った服が乾いていたので着替えさせ、汚れた下着はすぐに洗ってしまうことにする。
これが終わったら、また体調を崩している人たちに水を配りにいこう。
辺りはもう真っ暗で、水を使う手が冷たくかじかむ。領主邸の石鹸があればもっときれいになるだろうにと思うけれど、無い物は仕方がない。
リラも悪い風が入った人たちも、寒い思いをしているはずだ。
飯場は春から秋までの出稼ぎの人たちのための施設なので、防寒のための設備が存在しない。火鉢があれば腹を壊して冷たい汗をかいている彼らも、少しはマシな夜が過ごせるだろうに――。
「いけません、わたしも気持ちが弱くなっていますね」
自分を戒めるように独りごちて、息をつくと、飯場と街道をつなぐ小さな小道に、灯りがちらちらと揺れるのが見えた。
暗くなってから外を歩くような物好きは、この辺りにはいないはずだ。物盗りだって、ここではなくもっと裕福な民家の並んだ地区を狙うだろう。
「どうかしましたか?」
近づいて、少し大きな声を掛けると、灯りがぴくりと揺れて、それからこちらに近づいてくる。
「失礼、領主様の命で人を捜しているのですが、ここにコーネリアという女性はいますか?」
近づくと、ランタンに照らされてその男性が兵士の服を着ているのが見て取れた。
「コーネリアはわたしです。ああ、そうです、メルフィーナ様にご連絡しなければならないのに、わたしったらすっかり忘れていました」
「はは、すぐに見つかってよかったです。どうぞ、この暗さでは馬車は使えませんが、領主邸まで僕が護衛させていただきますよ」
気の良さそうな兵士はそう言うけれど、コーネリアはそっと飯場の敷地の外まで兵士と共に進むと、そこで一歩、後ろに下がる。
この寒く暗い中、聞き耳を心配する必要もないだろう。
「すぐに領主邸に戻り、メルフィーナ様――領主様に、報告してください。この飯場で、悪疫が発生しました」
兵士はぎくりと体を強張らせ、恐れを滲ませた目でコーネリアを見返してくる。
「今は領主邸に公爵閣下も滞在しています。わたしが戻れば、メルフィーナ様たちに悪い風を移してしまう可能性があります」
それが何を意味するかは、兵士にも理解できただろう。
エンカー地方の兵士にとって、メルフィーナは明るく輝く太陽そのものだ。
その気持ちは、よく理解できる。
「ここを離れて、綺麗な水で手を洗い、喉をすすいで水は吐き出してください。今わたしが言ったことを別の兵士に告げて、その方も領主邸の高貴な方たちとは少し距離を空けて、報告をお願いします」
「……あなたは、どうなさるのですか」
強張った声で聞かれて、ふっとため息を漏らすように笑う。
「わたしは、ここで半日過ごして、すでに悪疫に倒れた人たちとも多く接してしまいました。もしかしたら、もう悪い風が体に入っているかもしれません。ですから、わたしは領主邸に戻ることが出来ません。今日の午後から体調を崩す人は爆発的に増えましたが、まだ半数ほどは問題なく、明日も仕事に出るつもりのはずです。ですから、今夜中にこの飯場周辺を封鎖するよう、お伝えください」
「ですが、その、あなたは」
兵士の言いたいことは分かる。
封鎖されれば、飯場から人が出入りすることは許されなくなる。
その時中にいるコーネリアも、それは同じだ。
今ならばそっとここを後にすることも出来る。すぐに領主邸に戻れなくても、悪い風が体から抜けるまでどこかで静養することも出来るだろう。
「……わたしは、ひどい人間です。異変を感じ取っているまだ無事な人たちに、笑いながら何も起きていないように振る舞って、夜になるまでの時間稼ぎをしたんですから」
悪疫を広めないために、まだ悪い風が入っていないかもしれない人たちがここから逃げ出さないように、身動きが取れなくなる夜まで意識を引き付けた。
その上で自分が逃げ出すなど、本末転倒もいいところだ。
コーネリアは、周囲がそう評価してくれるほど、自分を善良だとは思っていない。
気安く自分の名を呼んで、笑ってくれる人たちに笑い返しながら、そんなことが出来るような人間だ。
「わたしは大丈夫ですよ。このことは必ず、メルフィーナ様に伝えてください」
兵士はぐっと息を詰めて、迷うようにしばらくそこに立ち尽くし、それから深く頭を下げた。
「すぐにメルフィーナ様に、お伝えしてきます」
「はい、お願いします」
遠ざかっていくランタンの明かりを見送り、とても心細い気持ちになった。
帰りたい、領主邸に、メルフィーナの元に。
エドの作ってくれた温かいスープを飲みながら、不安で、すごく怖かったんですよと話を聞いて欲しい。
「ふふ……」
わざと笑って、そうすると、ほんの少し、気持ちが楽になる。
前は平気だったのに、最近はずっと幸せ過ぎて、それを忘れそうになっていた。
何が起きても大丈夫。
これまでだってそうだったように、神の国にいる父と母が、不安や悲しみは、預かってくれているから。
「さ、お水を配りにいきましょうか」
そう声に出して、暗い、一寸先も怪しい夜に足を踏み出した。




