31.転生者の少し憂鬱な時間
メルフィーナはその朝、目を覚ましベッドから下りて、ぶるりと震えた。
領主邸の寝室の窓から外を見れば、まだ薄暗い。夏にはとっくに日が昇っていた頃合いなので、季節が変わったのだとしみじみと思う。
朝晩は息に白いものが混じり始めた頃、ようやくトウモロコシの出荷も終了し、荷運びの行列が途切れたことでエンカー村は随分静けさを取り戻した。
戸建ての建築はまだ続いているけれど、本格的な冬が来る前に終わるだろうとリカルドは請け負っている。
メルフィーナの仕事も一気に減って、少しは日々に余裕が持てるようになっていた。
「おはよう、フェリーチェ」
あんっ、とまだ子犬の面影を残した声で応えたのは、先日迎え入れた飼い犬のフェリーチェである。焼き立てのパンのような毛色で足が短く、非常に元気がいい。尻を振りながらメルフィーナの足元をぐるぐると走り回る姿に自然と唇がほころぶ。
繁殖家の下で基本的な躾は入っているし、村に来てからも二日に一度ほどは猟師のゴドーに預けて訓練をしてもらっているので、人前では非常に行儀が良いけれど、主人であるメルフィーナと二人きりの時はこうしてはしゃいだ様子を見せる。
身支度を整え階下に降りると、ふんわりといい匂いがする。つい足取りが軽くなって厨房に入ると、従僕の服にエプロンを掛けたエドが振り返った。
「おはようございます、メルフィーナ様」
「おはようエド、いい匂いね」
「今日はオムレツとスープです。もう用意しますか?」
どうやら少し早く来すぎてしまったらしく、他の住人はまだ揃っていなかった。忙しい日はそれぞれで軽く済ませていたけれど、最近は同じテーブルに着くことも多い。
「いいわ、みんなが揃ってからで」
「では、温かいミルクはいかがですか?」
頷くと、すぐに陶器のカップに温めたミルクを出してくれる。秋の始まる少し前に移住してきた陶器職人がいくつか試作品にと持ってきてくれたものだ。
この時代でも磁器はそれなりの技術で作られている。王宮には華やかな絵付けをされたテーブルセットもあるし、色とりどりの絵付けをされた大型の壺や花瓶などは貴族の財産として広間に飾られているくらいだ。
――もし、ルイスにボーンチャイナの作り方を教えたとしたら。
透き通るような真っ白な陶器は、前世では手軽に手に入ったものだ。それこそ半銅貨で買えるような値段だった。
けれど、この世界では未知の技術である。ルイスはリカルドが推しただけあって技術が高く、生真面目な職人だった。ひと冬も試行錯誤すれば、王室に献上するテーブルセットを製作することも可能かもしれない。
そして、その美麗な白は新しい技術として、多くの貴人が欲しがるだろう。あっという間に彼の名前は王国中に広がり、王室御用達の名を戴くことになるかもしれない。
そうなれば、ルイスを追い出した親方の名は地に落ちるはずだ。
この世界の人々は朴訥だが、娯楽に飢えていて、時に非常に残酷になる一面がある。管理している街の工房からそんな醜聞が出れば、ギルドは容赦なくその工房を切り捨てるだろう。
そんなことを想像して、メルフィーナは小さく震える。
――神様にでもなったつもりなの? メルフィーナ。
手元のカップを見下ろして、細く息を吐く。
こんなことを考える時、自分がまるでこの世界を高い所から見下ろして、盤上でコマを運ぶ「なにか」になったような気分になる。
実際に、やろうと思えばメルフィーナには出来てしまうのだ。ルイスに栄誉を付与することも、それをして彼を虐げた環境やシステムに反旗を翻すことも出来る。
そんなのは本当に、容易いことだ。
どんっ、と足元に重たく柔らかいものがぶつかった感触で、メルフィーナははっと我に返る。フェリーチェが構って欲しそうな表情でメルフィーナを見上げていた。
「フェリーチェ、ステイ」
手のひらを出して命じると、フェリーチェはその場にさっと伏せる。コマンドを実行出来たら思い切り褒める。そのルールに従ってフェリーチェの頭を撫でると、断尾され尻尾のない尻が左右に揺れた。
前世では残酷で不必要だと言われていた行為だが、この世界でフェリーチェの犬種は羊を追うために作られている。長い尻尾が家畜に踏まれて怪我をしないように、そこから悪い菌が入って命を落とさないようにという知恵だ。
時代も場所も、世界すら違う。何が絶対の正しさかなど、メルフィーナに判断できるわけもない。
間違うこともたくさんあるはずだ。
それでも、考えることを止めてはいけない。
手のひらに包んだカップを見下ろす。
均一な厚みで形の崩れも無いカップを作るには、技術が必要だ。それでいて温かみがあり、職人の手が入った優しいフォルムをしている。
領主邸に木の器しかないと聞きつけて、ルイスが作ってくれたものだった。
彼は面倒見がよく、導入したばかりの火鉢について村人たちともよく言葉を交わし、鍛冶職人の二人の相談にも乗っていると聞いている。
なにより、そんな技術を持ったとしても、メルフィーナでは彼を守ることは出来ない。
飛び抜けた技術を持つ職人というのは、この世界では金の卵を産む鶏に等しい。よそで飼われている鶏を略取しようとする者は決して少なくないし、手に入れた技術を隔離して管理するのも当然のように行われている。
今のところエンカー村がそれほど目立たずにいられるのは、この土地が国の北端で、アクセスが極端に悪く、ほとんど陸の孤島のようなものだからだ。
前世の知識があれば、暮らしを便利にし、現存の文化を何段階も上に引き上げることも可能だ。メルフィーナ自身、この土地を豊かにしていこうと決めた。
だが、こうして時々立ち止まって振り返る時間も必要なのだろう。
エンカー地方を発展させ、飢えることなく、笑顔でいてほしい。
でも、神様のように振る舞う自分には、なりたくない。
その間で揺れる時間を失い、ほしいままに振る舞うようになれば、その時自分は「私」でも「メルフィーナ」でもなくなってしまう気がする。
「メルフィーナ様? おはようございます!」
焦った様子で厨房にセドリックが駆け込んできた。その後ろからマリーも顔を出す。
「お部屋に伺ったらいらっしゃらないので、驚きましたよ」
「今日はなんだか早く目が覚めちゃったから、ミルクを頂いていたの。おはようマリー、セドリック」
二人は表情をほころばせておはようございます、と言った。こんな挨拶は、実家でもほとんどした記憶はない。
「マリー、今日の予定は?」
「午前中は決裁を戴く書類が何枚かあります。午後は収穫祭の準備と、冬前の最後の買い出しに必要なものがあれば伺いたいとラッドが」
「布と、色糸を買いましょうか。冬の間はそうそう出歩けなくなるでしょうし、冬用の服を縫いたいわ。それから砂糖と塩を壺でいくらか用意してもらって、あとは」
クリフとラッドもそろったので、エドが朝食の準備を始める。最近はメルフィーナが新しい料理を作るとき以外、朝はエドが、昼と夜は通いで来てくれているエリが受け持ってくれている。
フランチェスカ王国は貴族も平民も、あまり朝食に手をかけない。パンとエールだけだったり、甘くないビスケットを齧るだけだったりするけれど、領主邸ではメルフィーナの希望で一品は温かいものをつけてもらっている。
そして、出来れば住人が揃って朝食を摂れれば、それはとても良い朝だ。
太陽がすっかり昇って、皆が今日一日の英気を養う食事を待っている。
そんな様子を見ているうちに、メルフィーナの胸に凝っていた憂鬱は、ふわりと溶けて消えていった。
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