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捨てられ公爵夫人は、平穏な生活をお望みのようです  作者: カレヤタミエ


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309.光り輝くもの

不衛生な表現があります。苦手な方はお気をつけください。

 手を合わせて祈るとき、思い浮かぶのはいつも神様ではなく、頭を撫でてくれた父の手と、抱きしめてくれた母の腕だった。

 子供の頃に戻れたような気がして、気持ちが安らかになって、神殿に馴染むことは出来なかったけれど、祈りの時間だけは好きだった。




 出稼ぎの労働者が居住しているという関係もあり、昼食の時間からしばらく過ぎて、飯場はもっとも人気がない時間帯だ。敷地に入っても目に映るところに人の気配はなく、しんと静まり返っていた。


「こんにちはー、リラさんー?」


 中に入ると、もうそれだけで鼻をツンと刺すような、饐えた臭いが漂ってくる。ここで暮らしていた時はさほど気にならなかったけれど、常に清潔に保たれている領主邸で生活しているうちに、すっかり麻痺していた鼻も元に戻ったらしい。


 いや、自分が暮らしていたときより、明らかに悪くなっている。

 饐えた臭いは、床に染みた痛んだエールが放っているものだ。ここではエールをこぼしても、こぼした本人はおろか他の誰も拭こうともしないし、それを気にすることもない。こぼれた食べかすを狙ってネズミが走り回り、小さな虫を狙って蜘蛛が天井にいくつも巣を張っていて、当然、それを払う者もいない。


 神殿は神を祀っている場所ということもあり、常に清浄であることが求められる。貴族出身の修道女が一番に教えられるのは掃除と洗濯のやり方であり、壁や床を磨くのを拒絶して泣く若い修道女を宥めるのが、先輩の仕事のひとつでもあった。


 コーネリアもそうした環境に身を置いていたため、自然と掃除をする習慣が身についていた。この飯場に流れ着いた後も、空いた時間があればせっせと窓を開け床を磨き、リラになんでそんなに掃除ばかりしているのだと呆れられたものだった。


 メルフィーナが衛生環境を改善するよう、飯場の管理者に命じたはずだけれど、対策されている様子はなかった。


「リラさんー? 留守ですかー?」


 食事を出している女性の姿を探して、厨房を覗く。労働者たちは昼食は屋台でそれなりのものを食べているけれど、リラはいつも彼らの食べ残しで済ませていた。少ない肉や硬いパンは労働者たちが食べ尽くしてしまうので、残るのはいつも少し芯の残った煮たり焼いたりした野菜ばかりだ。


 コーネリア自身は昼食は屋台で買って食べていて、リラはその環境を苦にしている様子はなかったけれど、根が食べることが大好きなコーネリアとしては、いつも気のいい彼女のことが心配だった。


 今は、領主邸の家庭教師となったことで懐に余裕がある。行く当てもなくエンカー地方に来てしまい、計画性のない出奔で、働こうにも保証人もなく途方に暮れていたコーネリアに声を掛けてくれたリラに恩義を感じて時々こうして訪ねているけれど、差し入れを携えて飯場に訪れるコーネリアに、毎回リラは物好きを見るような、呆れた顔をするばかりだった。


 厨房に姿が見えないので、その奥にある小部屋のドアを開ける。元々は物置きとして作られたのだろう小さな部屋だけれど、リラと、ここにいる間はコーネリアの寝床になっていた場所だ。


 一応ノックをしてみたけれど、返事がない。そっと引き戸をずらして中を覗くと、リラがこちらに背中を向けて横たわっているのが見えた。


 どうやら昼寝をしていたらしいことに、ほっとする。


 眠っているなら起こさない方がいいだろう。目が覚めるまで少し建物の中を掃除していようかと思いドアを閉めようとして、苦し気な、小さなうめき声に振り返る。


 悪夢でも見ているのだろうかと思ったけれど、治療院で働いている時によく聞いた、苦し気なものだった。気になって部屋の中に入り、リラの肩を軽く揺すると、薄い服の布が手のひらにしっとりと濡れた感触を伝えて来る。


「リラさん、大丈夫ですか?」


 リラはすぐに目を覚ましたようで、ゆっくりと肩越しにこちらを振り返る。

 その目の下はげっそりと落ちくぼみ、唇は乾いて、縦皺がいくつも浮いていた。


「ああ、コーネリアちゃん……あんた、また来たのかい」

「はい。屋台で美味しそうなご飯を売っていたので、リラさんにも食べて欲しくて。――体調がよくないんですか?」

「ああ、夕べ遅くからどうにも腹の具合がよくなくてね、朝食を作った後に眠ってしまったみたいだよ。さっきまでひどく汗が出ていたんだけど、なんとか止まったみたいだ」


 それは、とてもよくない状態だ。


 従軍中も、腹を壊した兵士が水を摂れる環境になれないまま意識を失い、衰弱していくというのは、よくある光景だった。


「お水持ってきますね」

「ああ、要らないよ。何か口にすると、すぐに下から出てきてしまうからさ。服の替えなんてないからね」

「洗濯くらい私がやりますから。唇を湿らせる程度でいいので」


 構わないと言葉を重ねるリラを部屋に置いて、裏手に回り、眉を寄せる。


 領主邸のような貴族が住まう屋敷には水の魔石を利用した水道が備え付けられているけれど、平民は井戸を使うのが当たり前だ。飯場の井戸は建物の裏にあるけれど、そこにたどり着くまでの地面にびっしりと、汚物が捨てられて泥のようになった酷い光景が広がっていた。


 部屋で壺や容器に用を足して、そのまま窓から捨てているのだろう。エンカー地方以外ではよく見る光景で、そしてエンカー地方では、領主であるメルフィーナが禁じていることでもある。


 コーネリアも、領主邸とエンカー地方の村の中を知らなければ、何も感じずに水を汲んでリラの元に戻っていただろう。

 けれど、ここの水を使いたくないと、気持ちが拒絶してしまう。


 少し離れているけれど、他の井戸で水を汲んで来よう。そう思い再び建物の中に戻ると、低いうめき声が薄い木板の壁越しに、あちこちから聞こえてくる。


 ――ああ、これは。


 多分、大変なことになってしまった。

 冷たい汗が背中に流れたけれど、ぎゅっと拳を握り、胸に押し当て、顔を上げて、外に向かって歩き出した。




    * * *


 幸い財布の中にある半銀貨と銅貨数枚で、村の男性に飯場まで水を運んでもらう依頼をすることが出来た。


 そっちにも井戸があるだろうと不思議そうな顔をされたけれど、水が減っているようだと言えば少し同情的な顔をされて、中樽に汲んだ水を飯場まで運んでもらうことができたけれど、エンカー村に住んでいる人間には、この周辺の臭いは耐えがたいのだろう、樽は後で取りに来るからとだけ告げて、そそくさと出ていく背中を見送り、運べるだけの水を容器に移してリラの元に戻る。


 そこからは、狭い個室のひとつひとつを訪ねて助けを求める人たちに水を配り歩き、汚物で汚れた服を集めて、これは仕方がないので井戸で汲んだ水を桶に溜めて踏み洗いを行った。


 幸い天気は良かったのですぐに乾くだろう。そうしている間にもびちゃっ、と背後で汚物を捨てる音が響き、建物を見上げるとすぐにぴしゃりと鎧戸が閉まる。今は構っていられないし、おそらく今更だろう。


 リラの元に戻り、よく煮た麦粥を食べさせると、ほんの少し食べてもういいと言われてしまった。


「私も、ここまでかねえ」

「何を馬鹿なことを言っているんですか。エンカー地方ではお腹を壊しても、そうそう大変なことになったりはしないんですよ」

「私はここの住人とはいえないさ。そうだろう?」


 自嘲するように言われた言葉が悲しくて唇を引き締めると、リラは困ったように苦笑した。


「いいんだよ。ここにいる連中はみんな、流れ者とそう変わらない身の上だ。出稼ぎ先で病気になってそのままなんて、よくある話だよ。私の旦那も、それで戻ってこなかったからね」


 まだここで暮らしていた時、若いうちに夫を失くして女手ひとつで子供を育てていたけれど、その子も悪い風が入って神の国に旅立ってしまったと聞いたことがある。


 悪い風は容易く、大切なものを奪っていく。治療院で働くことの多かったコーネリアは、そんな場面を何度も見てきた。


 それだけに、悪い風というのは恐ろしがられるものだ。リラのいう「ここの住人とはいえない」はとても厳しい現実で、領地によっては悪疫の発生した地区を隔離し、治まるまで放置するか、過激な領主は病気の枝を剪定するかのごとく、火を放つこともあるという。


「コーネリアちゃん。すぐここを出て行ったほうがいい。あんた、いいとこのお嬢さんなんだろう? 巻き込まれちまったら、親が悲しむよ」

「リラさん……」

「親はね、どんなに破天荒な子でも子供が大事なもんさ。ちゃんと迎えを寄越してくれたんだ。あんたは大事にされてるよ。だから、そっとここを出て家に戻って、何が起きても関係ないって顔をしな」


 コーネリアの両親は、もうずっと昔に、とっくに神の国に行ってしまった。


 神様なんているのかな。だったらどうして、お父様とお母様はわたしを置いてこんなに早く神の国に行かなければならなかったんだろう。


 神殿に入って神に仕える立場になってからも、それはいつも、心の片隅にある疑問だった。

 お祈りの時間に手を組んでも、頭によぎるのは見たことも話したこともない女神様ではなく、頭を撫でる父の手と、抱きしめてくれる母の腕ばかりで。

 コーネリアを助けてくれたのは、結局神様でも神殿でもなく、目の前に横たわるリラだったり、噂を聞いてわざわざ迎えに来てくれたメルフィーナだったりした。


 祈る時、思い出すものが変わったのは、ほんの最近だ。


 美味しい食事に感謝するとき、浮かぶのはおかわりはいかがですかと笑う少年の笑顔になった。


 一日の終わりに、今日も良い日だったと思うときは、ホールのパイを自分の分は少し大きめに切り分けてくれる、金の髪と緑の瞳を持つ女性だ。


 もう輪郭も朧げになってしまった過去ではなく、輝くものが思い浮かぶようになって、その分父と母の面影は少しだけ、遠くなった気がする。


 でもそれは、きっと悲しいことではないのだ。


「大丈夫ですよ。お腹を壊してしんどくて、ちょっと弱気になっているんですね。お腹が治ったら、弱音を吐いて恥ずかしいね、なんて言えるようになりますよ」

「コーネリアちゃん」

「他にもお腹を壊している人たちがいるので、麦粥を配ってきますね。リラさんはここで安静にしていてください」


 元々病人の扱いには慣れているし、ひとまず、今苦しんでいる人たちの不安を和らげるよう動いてみよう。


 あの人がここにいたら、見ないふり知らないふりなんて、絶対にしない。


「大丈夫、きっと全部、なんとかなりますよ」


 根拠のないコーネリアの言葉に、リラは馬鹿だねえと笑って、滲んだ涙を隠すようにごろりと寝返りを打った。


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