308.お手伝いとそれぞれの立場
仮眠を終えて簡単に身支度を済ませ、外に出る。
コーネリアは不在で、ラッドとクリフはまだ戻って来ていないらしく、メイドたちの華やかなお喋りの声も聞こえてこない領主邸は人の気配が薄く、それが今は非常事態であることをひしひしと伝えて来る。
団欒室に顔を出すとメルフィーナより一足先に起きだしていた針子たちはすでに今日の作業に入ってくれていた。それぞれに労いの声を掛けて階下に下りると、厨房にはエドとアレクシスがいるだけだ。
テーブルに着いたアレクシスの前には荒布を敷いた上にこんもりと豆が盛られていて、なぜか黙々と豆を剥いていた。
「手持無沙汰だっただけだ」
「まだ何も言っていないわ」
アレクシスにはそんなつもりはなかっただろうけれど、それが言い訳のように聞こえて苦笑が漏れる。
貴族の趣味の中で、料理はかなり眉を顰められる位置にある。使用人の仕事を奪うことになるし、また使用人の真似事をしているようにも映るからだろう。
まして豆は、農民の主食ともいえる作物だ。貴族が口にすることは滅多にない。北部の、特に男性は堅物で非常に威厳や誇りを大切にする傾向があり、北部の男性の象徴のようなアレクシスがちまちまと豆を莢から出している姿は、妙にコミカルにすら思える。
――アレクシスって、頭が固いようで、変なところで柔軟というか、こだわりがないのよね。
エンカー地方にいる間は日当たりのいい場所でぼうっとしていることも多い。王都で「氷の公爵」と呼ばれているなど、この姿を見た後だと信じられないだろう。
「メルフィーナ様、セドリックさん、おはようございます! 昼食は食べられますか?」
「おはようエド。そうね、あまりお腹が空いていないから、スープとパンだけもらえるかしら」
「私も同じもので構わない」
「すぐ温めますね!」
エドの変わらない笑顔と元気のよさにほっとしながらアレクシスの向かいに腰を下ろす。豆はまだ半分ほど残っていて、なんとなく、メルフィーナもそれに手を伸ばす。
セドリックもアレクシスに挨拶をすると、無言で豆を剥き始めて、公爵と公爵夫人、宮廷伯の三人で豆を剥くという、不思議な構図になってしまう。
「もう冬豆が採れはじめる時期なのね」
「今年の初物だそうだ。これは、美味いのか?」
「美味しいわよ。パイに入れてもほくほくとしているし、茹でてサラダに入れるといいアクセントになるわ。小さく切ったチーズと一緒にパンに練り込んでもいいし、ミルクと一緒によく煮て細かくすり潰してポタージュにしたものは、多分飲んだことがあるんじゃないかしら」
エドの料理は北部では手に入りにくいロマーナ産の材料や、高級な食材を利用したものばかりでなく、普段からエンカー地方で採れる作物や近隣の行商人から購入した果実なども多く使われている。
アレクシスが滞在している間もそれらの料理を普通に出しているので、気づくことのないまま口にしていることもあるだろう。
「領主邸内はそれでいいけれど、他に貴族を招くことがあったら、気を付けなきゃいけないわね」
城館内には現在、高貴な身分の者が滞在する迎賓館を建築中だ。今はその予定もないけれど、形が分からないまま農民の食べ物を供していたと知られてトラブルになる可能性だってあるだろう。
公爵夫人であるメルフィーナの悪評は、アレクシスの評価にもダイレクトにつながるものだ。
以前はそんなことを気にしたこともなかったし、それを言うならこうして北の端で領主をして公爵夫人としての役割を放棄しているので、今更と言えば今更ではあるけれど。
――私も、変わったわ。
指先で豆の鞘を剥いて中身をボウルに出しながら、前世を思い出したばかりの頃とは、何もかもが変わったのだと思う。
実家を出て嫁ぎ先に向かう馬車の中で、メルフィーナは子供を産んでたくさん愛し、愛されて幸せになりたいと思っていた。
前世の記憶を取り戻して、それがどれだけ足掻いても手に入らないものだと気が付いた。
北部の事情を知れば知るほど絶望的な願いであることが理解できるばかりで、でももう、その頃にはメルフィーナはエンカー地方の領主であり、一人ではなかった。
ひとつの願いを、ただ願い続けることさえ、こんなにも難しいものかと思う。
「メルフィーナ様、キャベツと鶏肉のスープです。重たいようなら、残してくださいね」
「ありがとう、エド」
メルフィーナの皿にはひと口大に切った鶏肉が、セドリックの分は豪快に、レッグの部分が丸ごと入っている。
キャベツは半透明になるまでしっかりと煮込まれていて、鶏肉はスプーンでも簡単にほぐれるほど柔らかい。弱火でじっくりと煮たのだろう、野菜は甘みが出ていて、それが溶け出したスープが胃に落ちていくと、自然とほう、と息が漏れた。
味付けは優しく塩もほんのり効いているだけなのに、それが逆に肉と野菜のうまみをしっかりと引き立てている。パンはふわふわと柔らかくて、これも温め直してくれたのだろう、ほんのりと温かく、バターの香りが鼻をくすぐった。
「あの、メルフィーナ様。僕にも、何かお手伝いできることはありませんか?」
「エドは、十分やってくれているわ。急に滞在する人が増えたし、ラッドとクリフが不在で手伝いの手も減っているでしょう?」
「でも、まだ余力ありますよ。僕も背が伸びたし、それなりに力もついたので! 力仕事でもなんでもできます!」
人には人の職分があって、エドの仕事は料理人だ。普段やりつけないことをして手を怪我したりすれば本末転倒でしかない。
けれど、そのまっすぐな瞳と、何よりひたむきに自分も役に立ちたいと思っている気持ちがまぶしい。
「じゃあ、ヨーグルトを作ってもらおうかしら」
「ヨーグルト?」
「ミルクを発酵させて作る食べ物……飲み物かしら? どろどろとした半固形の酸っぱいものなのだけれど、おなかにすごくいいの」
乳酸菌は天然の整腸剤でもある。赤痢の回復期には錠剤で処方されることもあるはずだ。
「アレクシスも手伝ってあげてくれる?」
「ああ」
メルフィーナがスープとパンを食べている間に豆を剥き終わり、再び手が空いているアレクシスに声を掛けると、表情を変えないまま頷いた。
「今は私が現場に出るわけにはいかないが、厨房で何かをしている分には、出しゃばっているとまでは言わないだろう」
魔物が出たというような状況ならばともかく、今回は政治的な手腕で片付けなければならない状況だ。
元々住んでいた人たちはともかく、今は多くの資本家や商人がエンカー地方には出入りしている。
彼らは時流に敏感な耳目を持っている。アレクシスが騎士や兵士たちに指示を出し先頭に立って動いている姿に、メルフィーナの統治力に疑問を持つ者が必ず現れるだろう。
それは長い目で見れば、領主としてのメルフィーナの影響力に影を落とす可能性が高い。
「――ありがとう」
「豆を剥いて厨房の手伝いをするのは、私の暇つぶしだ。礼を言われることではないだろう」
「お手伝いをしてもらったら、感謝するのはたとえ相手が子供でも当たり前のことよ。ウィリアムにもそうしてあげて」
「ああ、収穫祭に合わせてこちらに来ることになっているから、機会があったらそうしよう」
悪疫が完全に治まらない限り、公爵家の跡取りであるウィリアムがエンカー地方に来るのは中止になるだろう。
彼と会うのも今年の春の始まり以来だ。成長期でもあるので、随分大きくなっているかもしれない。
以前聞いた話では、同じ公爵家で暮らしていてもアレクシスは本館に、ウィリアムは別館で暮らしていて、中々日常的に交流する機会を持ちにくいという。
マリーを叔母と慕い、マリーも甥として慈しんでいる彼には、何の憂いもなく楽しんでもらいたい。
「じゃあ、頑張らなきゃね」
「そうだな」
身分や立場、職能など、貴族も平民も案外そういったものに雁字搦めで、自由に出来ることは多くないけれど、悪いことばかりではないとも思う。
食事を終えたら、エドにヨーグルトの作り方を教えて、針子たちの様子を見に行こう。
ヘルムートが戻ってきたら現状の報告を受けて、そこから次の対策を考えよう。
無事に困難を乗り越えて、その先に笑い合えるように。
「エド、美味しいパンとスープのお陰で元気が出たわ! ありがとう!」
エドはぱっと瞳を輝かせ、照れくさそうに笑顔になった。
「ヨーグルトを作ったら、夕飯も美味しいものを用意しますね! お針子のみなさんたちにも、美味しいって喜んでいただけるように!」