306.駆けつける人と支える人
黙々と手元の布に視線を落として指を動かしていると、団欒室のドアがノックされた。裁断役のロジーの手伝いをしていたセドリックが素早くドアに向かい、すぐにメルフィーナの名を呼ぶ。
「大獅子商会の訪問だそうです。正門前に停めているそうですが、前庭に入れる許可を出してもよろしいでしょうか」
「すぐに通して。私が出迎えるわ。マリーはここで、皆と一緒にいてちょうだい」
「お任せ下さい」
マリーも裁縫の腕はかなりのものだ。すいすいと針を動かしながらしっかりと頷いてくれるのに安心して、階段を下りる。
「アントニオ!」
「メルフィーナ様。このような時間の訪い、ご無礼をお許しください。至急とのことで、ご所望のものをかき集め、参上しました」
そう告げるアントニオの後ろにはロバにつながれた荷馬車が二台並んでいて、その誘導のためだろう、アントニオの隊商の男性たちが数人、控えていた。
悪疫の発生はまだ公表していないけれど、アントニオは一流の商人だ。領主邸から明日、布の在庫を全て買い取るという連絡と、兵士たちが移動するざわめき、人の動きから、何か大きなことが起きていると推測するのは容易かっただろう。
まだまだ野生生物との距離が近く、治安がいいとは決して言えないこの世界は、夜は人の活動の範疇の外だ。暗いうちに移動しようという考えがそもそもない。だから、そのための道具なども基本的には存在していない。
とっくに深夜に近い時間だ。細い月が出ているとはいえ外は真っ暗で、ロバや馬に荷を引かせるどころか徒歩で移動するのも心許なかったはずだ。
アントニオはいつものように爽やかな笑顔を浮かべているけれど、夜道を歩くには明らかに不足の小さなランタンをいくつも馬車に提げていた。
何が起きたかもわからないまま、足下を照らすその光を頼りに、どんな思いでここまで来てくれたのだろう。
唇をぎゅっと引き締めるメルフィーナに、アントニオは明るい太陽の下と同じように、礼を執る。
「エンカー地方に置かせていただいている倉庫からかき集めた木綿の布全てです。大獅子商会からエンカー地方への困難の一助に、どうぞ、お納めください。また、他に何か必要なものがあれば何なりとお伝えいただければと思います」
「ありがとう。支払いは後日、必ずさせてもらうわ」
困難の一助、という言い回しは、本来領主が領地が危機的な状況に陥った時に、その土地の農民や出入りの商人から物資を供出させるときに使われるものだ。それらは無償か、本来の価値よりかなり低く買い叩かれることが殆どである。
必ず礼をするという意味で告げると、アントニオは静かに首を横に振った。
「ちょうど会頭が秋祭りのために大量の物資を運んできていますので、倉庫をそろそろ空けなければならない頃合いだったのです。何より、メルフィーナ様のお力になるのに利益など求めていては、私が会頭に叱責されるでしょう」
アントニオもレイモンドも、商人だ。おいそれと身銭を切るような真似をすれば、間違いなくそちらの方が叱責の元になるだろう。メルフィーナのそんな考えを見透かしたように、アントニオはあくまで朗らかな様子を崩さなかった。
「なんでしたら、会頭がいらしたときに、ほんの少しお茶を飲む時間を取っていただければ僥倖です。以前いただいた赤豆の利用法で国の事業は潤っていますし、会頭と顔を合わせる度にメルフィーナ様には無条件で便宜を図るように言い含められていますので」
「――わかったわ。本当にありがとう、アントニオ。明るくなるまで応接室で休んでいって」
「いえ、まだ倉庫での仕事が残っておりますし、メルフィーナ様もお忙しいでしょう。私たちはこれで失礼いたしますので、どうぞ、お気遣いなくお願いいたします」
あくまで何も起きていない、時間を除けばいつもと変わらないという様子で、アントニオは荷台から荷物を降ろさせて、すぐに城館を辞していった。
「気持ちの良い商人ですね」
「ええ、本当にそうね」
セドリックの言葉に頷いて、しみじみと答える。
「本当に、良き隣人だわ」
* * *
夜半を過ぎる頃に一度お茶を淹れて休憩を挟み、ひとまず今日の分のマスクと予備が完成したところで、ジャンヌとお針子たちには睡眠を取ってもらうことになった。
幸い領主邸の三階には元々使用人が使うための部屋と寝床があり、現在も維持されている。明日は少しゆっくり起きてもらって、朝食を済ませたあとに少しは余裕をもって針仕事を頼めるだろう。
就寝が日の入りとほとんど変わらない生活をしている彼女たちには、日付が変わり朝の方が近い時間までの夜更かしは随分堪えた様子だった。半分瞼を落としながらおやすみの挨拶をして、互いに支え合うように三階に続く階段を上っていく背中を見送る。
「メルフィーナ様も少しお休みになってください」
マリーに苦い表情で言われたけれど、首を横に振る。
「私は執務室にいるわ。マリーこそ、ずっと針仕事をして疲れたでしょう。少し休んできてちょうだい」
「メルフィーナ様がお休みにならないのに、私が横になって眠ることが出来ると思いますか?」
「私が倒れたら、代わりに動いてくれるのは秘書であるマリーしかいないもの」
「メルフィーナ様」
マリーに怒りを向けられるなど、滅多にあることではない。けれどその怒りの根には深い思いやりがあると、さすがに分からないわけもない。
「今は非常事態よ。それに、これは私がやらなければならないことなの」
「ですが……」
「私にしか出来ないことがあるの。わかるでしょう?」
マリーは何度も何かを言いかけ、口を閉じて、最後はしっかりと頷いてくれた。
「どうか、無理をせずに。メルフィーナ様はエンカー地方の領主ですが、私にも、お兄様にも、ウィリアムにとっても、大切な家族です」
「ええ、分かっているわ」
悩まし気に眉を寄せたまま、マリーは踵を返して彼女の寝室に入って行った。それを見送って、ちらりと隣の護衛騎士に目を向ける。
「私は鍛えておりますので、二日三日の徹夜ならば何の問題もありません」
「さすがに私もそこまでは頑張れないわ。お茶でも飲みながら少し待って、報せが来ないようなら仮眠を取りましょう」
コーヒーがあればよかったけれど、生憎この世界ではまだお目に掛かったことがない。温かい紅茶を淹れて厨房で傾けている間も、マスクがひと段落したことでやや気が抜けて、うとうととしてしまう。
「昔……前世では徹夜なんて当たり前だったのに、駄目ね、すっかり夜更かしに弱くなっているわ」
「神の国はそうなのですか?」
「あちらは夜も昼間のように明るくする道具が沢山あるし、治安も良くて魔物は存在していないし、人の多く住む場所では滅多に危険な野生動物も出ないから夜に活動することに障害が少ないの」
「あまりに条件が違い過ぎて、想像が出来ません。まるで毎日が夜会のようですね」
「みんな用が終わったら自分の家に帰るのよ。月が中天に上るまで移動できる公共の交通機関があるし、個人で借りることのできる馬車は一日中休みなく走っているから」
こちらの世界の夜会は、開催した家は招待客を宿泊させるのが前提なので、夜道の移動をする必要もない。
王城にも、クロフォード侯爵家の専用の部屋があったほどだ。
「ふふ、こんな時間まで起きているなんて、随分久しぶりだわ。子供の頃、どうしても眠れない夜以来かしら」
「メルフィーナ様にもそのようなことがあるんですね」
「子供の頃って、急に不安になって夜中に目が覚めたりしなかった?」
「一気に背が伸びた年は、特に夜間、体が痛くて眠れなくなったことはありましたが」
セドリックとゆっくりと話をするのは、なんだか久しぶりだ。
再会してからずっと傍にいてくれるけれど、彼はカーライル伯で、騎士団長の役割もある。こんな時間もいずれまた、終わるだろう。
こんな夜だからだろうか、妙に感傷的な気持ちになり、会話が途切れると少しうとうととする。すぐに目を覚ましてまた何かを話し、しばらく過ぎた頃だった。
門番の兵が伝令の訪いを告げる。すぐに出向くと、兵士の服を着た男性が礼を執った。
「飯場周辺の封鎖は完了しました。中でコーネリア様が説得してくださった様子で、今のところ移動を強行する者もおりません」
「そう、よかったわ」
「こちらが、コーネリア様のお返事です。必ずメルフィーナ様に直接渡すようにと申し付けられました」
兵士が差し出した植物紙をメルフィーナが手ずから受け取り、開く。ぐっと唇を引き締めて、それからほっと息が漏れた。
「――こんなに暗い中を、本当にありがとう。兵士たちも交代で休むように伝えてちょうだい。飯場の近くに留まっているのかしら」
「はい、道を塞ぎ、今は川を囲む形で土嚢を組み、出入りできる場所を制限し、常時監視の目を光らせています」
「日が昇るまで、その状態を維持してください。新しい指示は追って伝えます」
兵士は礼を執ると、監視の隊に戻ると告げて城館を出て行った。
正門の兵士にも今夜は休んでもいいと告げたけれど、急報が来るかもしれないので朝の交代までここにいると断られてしまう。
「どうせ兵舎に戻っても、気になって眠れず戻ってきてしまいそうですし、ここにいさせてください」
「日が昇ったらすぐに休んでくださいね。約束ですよ?」
「はい!」
溌剌とした声は夜に思わず響く。本人もそれに驚いたように手で口を押えていた。セドリックと厨房に戻り、手をしっかりと洗う。
「エンカー地方の人たちは働きすぎだと思わない?」
「領主を見習っているのでしょう。――何か打開策が見つかったので、これからもうひと働きしよう。そんな顔をされていますよ」
「あら、顔に出ていた?」
勘のいい護衛騎士は、ふ、と息を吐くように笑う。
「メルフィーナ様がそのような顔をされているときは、大抵、物事はいい方に転がっていくと、何度も経験しましたので」
「そうね」
メルフィーナはその言葉に、しっかりと頷く。
「みんなが頑張ってくれたおかげで、きっといい方に向かっていけるわ」




