303.不安な時間と思わぬ報せ
日が傾き始める頃になると、領主邸内には窯を使って焼くパンと、日によって肉料理や魚料理のよい香りが漂い始める。誰もがその匂いに今日の仕事をきりのいいところで終わらせる算段を始め、そうして一日の仕事が片付いた頃に晩餐が始まる。
こちらの世界では一部の例外を除き、日が落ちる前に夕食を済ませて家族や仲間と団欒し、日が落ちるのと同時に寝床に入るのは身分の貴賤を問わず普通のことだ。
地域によっては危険な魔物や野生生物が出没するし、明かりをともすのにそれなりに費用がかかる。夜はすぐに寝てしまい、朝、日の出と共に起きて早めに仕事を始めるサイクルが完全に出来上がっていて、領主邸でもそれは変わらない。
コーネリアが戻っていないと最初に報告があったのは、城館の門を守る兵士からだった。
戦争が禁じられているこの世界において、堀を周囲に巡らせている城館には常時立ち番を必要とするほどの脅威は存在しないので、日が落ちる前に城門を閉じ、彼らも宿舎に戻る。
例外は、その日外出した記録のある者が戻ってこない時だけだ。
「もう日が暮れるわ。マリー、兵士に、飯場に様子を見に行くように伝えてくれる?」
「はい、すぐに」
「領主邸から夕飯を振る舞うので警備についている兵士には申し訳ないけれど、しばらく城門に留まってもらえるかしら?」
「皆、喜んでそうさせていただくと思います」
報告に来た兵士も、朗らかに答えて礼を執る。兵士や文官たちの宿舎と領主邸は食事の場所が違っているけれど、領主邸の料理長の作る食事が大変に美味であるのは有名な話だ。
エドに、体が温まるような具がたっぷり入ったスープを作ってもらうよう、頼んでおくのが良いだろう。
「それにしても、どうしたのかしら。コーネリアが食事の時間まで戻ってこないなんて、初めてのことだわ」
「飯場には仲のいい女性もいたようなので、話が弾んでしまったのかもしれませんね」
「それならいいのだけれど……」
セドリックの言葉に曖昧に頷く。
窓の外に目を向ければ、モルトルの森が夕焼けで赤く焼けているのが見えた。秋になった今、ここから日暮れはあっという間にやって来る。
コーネリアはおっとりとして穏やかな人だけれど、従軍経験が豊富で危ないことにも慣れている。
北部はまだ魔物が出る季節ではないけれど、森からふらりと野生生物が下りて来ることだってあるし、暗くなってから外を移動する危険を知らないはずもない。
「何事も無いなら、それでいいわ」
ただ仲のいい相手に会って、思わず話が弾んでしまったり仕事を手伝っているうちに抜け出せなくなったというのは、コーネリアの性格ならありそうなことのようにも思える。
そのうち料理長の温かい夕飯を食べ逃してしまいました。とほほとそんな風に言って戻ってきてくれるだろう。
* * *
その日の夕食はつつがなく、けれど少し味気なく済んだ。
コーネリアが領主邸の住人に加わってまだそれほど長い時間が過ぎたわけではないけれど、彼女が毎回のようにうっとりと、この料理のどこがどれほど素晴らしいか、これを食べて自分がどれだけ幸福な気持ちなのかを少し早口で告げるのが、もう当たり前になっていたらしい。
「メルフィーナ様、今日の夜は、少し厨房に残ってもいいですか? その、試してみたい料理もありますし、コーネリアさんが帰ったら、料理も温めてあげたいですし」
メイドたちとともにすっかり夕食の後片付けを済ませた後、おずおずと告げて来るエドに、心配を押し殺して微笑みを向ける。
ラッドやクリフと共に城館内にある宿舎で暮らしているエドが、日が暮れた後まで領主邸にいるのは珍しくないけれど、それも彼が必要だと思った時だけだ。
「コーネリアの夕飯は、私が温めるわ。エドは明日も早いでしょう? 夜はちゃんと寝てちょうだい」
朝からパンを焼くこともあるエドは、領主邸の住人の中でも最も早く起きて働き出している。
その分日中は長く休んでもらっているけれど、まだまだ成長期なのだ、夜は出来るだけ長く寝た方がいい。
「明日の朝、コーネリアにはうんと美味しい朝食を出してあげればいいわ。さ、心配しないで、おやすみなさい、エド」
「はい……、おやすみなさい、メルフィーナ様」
後ろ髪を引かれる様子で領主邸を後にしたエドを笑みを浮かべて見送ったものの、ドアが閉まると、ほう、とため息が漏れた。
夕食を終え火種を落とせば、皆もうベッドに潜り体を横たえる時間だ。メルフィーナもいつもならば、とっくに寝室に入って着替えを済ませている頃合いだった。
「セドリックとマリーは、休んでもいいわ。私はもう少し食堂にいるから」
「いえ、今日はなぜか目が冴えているので、少しお付き合いさせてください」
「私も、今日は鍛錬を休みますので、温かいお茶でも飲んでのんびりしたいと思います」
マリーとセドリックに畳みかけるように言われて、苦笑が漏れる。コーン茶を淹れて三人でぽつぽつと会話をしていると、マリアまで降りてきてしまった。
「なんか落ち着かなくて。私も一緒にいていい?」
「勿論よ。お茶を淹れるわね」
「あ、いいよ。自分でする」
食器棚から陶器のカップを取り出して、ポットに残ったコーン茶を手ずから注いでいる。もう温くなっているそれを一口、唇を湿らせる程度に口を付けて、小さく息を吐いた。
「――この世界の夜って真っ暗だよね。王宮を出た時、セドリックがまだ明るいのに宿を取ったの、なんでだろうと思ったけど、日が暮れたらすぐ理由が分かったよ」
「王都や大きな都市になれば中心部は夜でも明るいけれど、それ以外だと街灯もないし、民家の明かりもほとんどないものね」
そんな暗い道をコーネリアが歩いているのではないと思いたい。そう思って少し暗くなりかけた雰囲気に明かりをともすように、マリーが言った。
「港都エルバンでは、日中だけでなく夜も市が開かれるので、夜も煌々と明るいんです。少ない明かりでも反射してより明るく見えるようにという理由で、建物の壁は白く塗ることが義務付けられているくらいで」
「海には魔物が出ないというけど、そんなに違うのね」
「とても美しいので、いつかメルフィーナ様にも見てもらいたいです」
「エルバンは足を運んだことがありますが、あちらも屋台文化が発展していて、海で獲れる魚や貝類を出す屋台も随分多いです。夜警を終えた後、よく声を掛けられて、売れ残りを安く売ってもらったものでした」
メルフィーナはこの世界で生まれて育ったけれど、王都でもそう活動的に動き回っていたわけではないし、実際に自分の目で見たものは案外少ない。
北の大華と呼ばれるソアラソンヌに滞在したのもせいぜい二日というところで、北の流通の玄関口である港都エルバンも、取引では商人からよく名前と話を聞くけれど、足を運んだことは無かった。
アントニオ曰く、エルバンでは海の魚もよく食べられているのだという。
北の海の魚は脂が乗っていて非常に美味であることが多い。貝類も身が詰まって味が良いというのが前世の価値観だ。
この世界にも牡蠣はあるのだろうか。
アワビやホタテ、あさりなどはどうだろう。
「海の幸、いいなあ。タコ焼き食べたくなってきちゃった」
メルフィーナだとアジをなめろうにして麦焼酎と合わせたいという気分だけれど、女子高生のマリアはもっとガッツリしたもののほうがいいらしい。
「今年はもう冬が来るけれど、いつか行ってみたいわね。エドとコーネリアも連れて」
「お兄様とウィリアムも、一緒に行けるといいのですが」
「アレクシスは屋台で買い食いなんてあまりしなさそうだものね。皆で行きましょう」
心配を塗りつぶすように明るい話題ばかりを選んで話し込み、二杯目のお茶を淹れるとマリーが立ち上がったのと、ほとんど同時に、領主邸の正門ドアが激しく叩かれる音が響いた。
真っ先にセドリックが立ち上がり、すぐに奥の部屋からオーギュストが飛ぶようにやってくる。
「オーギュスト、三人をここで見ていてくれ」
「いえ、私も行くわ」
門番が立っている城門を抜けてドアを叩いているのだ。それに、あの剣幕は尋常ではない。
「閣下を呼んできますので、せめてそれまではお待ちください」
オーギュストはそう告げると、まるで風のように立ち去った。連絡口からアレクシスが滞在している別館は直通だが、すでに休んでいただろうに、ものの数分でシャツにトラウザーズという軽装に、長剣だけを携えたアレクシスと共に戻ってくる。
「アレクシス、ごめんなさい。もう寝ていたんじゃない?」
「いや、問題ない。何があった?」
「これから確認するところよ」
四つ星の魔物と向かい合えるアレクシスと「剣聖」の「才能」を持つセドリックは、どちらも攻略対象だけあって、単独でもこの世界有数の強さを誇る二人だ。
よほどのことでない限り危険はないだろう。
扉越しにオーギュストが誰何の声を掛けると、扉を叩く音はぴたりと止まり、コーネリアを捜索していた駐在している兵士の一人であり、門の立ち番をしている兵士も同道している旨を告げる。
「火急の報告により、ご無礼をお許しください!」
逼迫した声に、悪い予感に血の気が引く。自然と、マリーが右手を、マリアが左手を握ってくれた。
けれど、次に出た言葉は、予想もしていないものだった。
「オルレー川に建築中の橋の近くにある飯場のひとつで、悪疫の発生が確認されました!」




