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30.トイレ問題と信頼

「トイレ、ですか?」

「ええ、当面は戸別の設置ではなく、ある程度の距離ごとに共同トイレを作ることで対応することになるけれど……難しいかしら」


 ゲームの中でのストーリーは、ハードモードのみ直接農村に出向くことになるけれど、それ以外はほとんど舞台は王宮内で進む。


 王宮は水の魔石による清潔な水が使えて下水道が整っているし、ゲームの中ではそんな話題も出てこなかったけれど、その世界の中で生きるには避けて通れない問題……つまり、トイレ事情だ。


 王宮や大貴族の屋敷を例外として、この世界のトイレ事情は非常によくない。桶やおまるに排泄して、それを窓から外に捨てるのが当たり前の習慣としてまかり通っているのである。


 前世、メルフィーナの記憶、その両方からNGが出る習慣だった。農閑期である冬のうちにどうにかしたい問題でもある。


「領主様のことですから何か考えがあってのことだと思いますが、その考えを伺ってもよろしいでしょうか」

「親方、そんな失礼な」

「うるせえな。ちゃんとニーズを聞いておかないと、それに応えられないんだよ、特にこのお方はな」


 リカルドの弟子は恐縮したように肩をすぼめる。その反応は可哀想なくらいだ。


「ちゃんと意図を気にしてくれて、嬉しく思います」


 職人は依頼されればその通りに作る。作ったものをどう使うかまで意見しないというのが一般的らしい。リカルドも最初はそんな態度だったけれど、あれこれと注文をするうちに段々それは何故? どうしてと尋ねるようになってくれた。


「まずね、排泄物というのは、すごく不潔なの」

「まあ確かに、臭いはしますな」

「人が多くて石畳の街なんかは、夏は臭くてたまらなかったりしますね」

「悪臭だけが問題ではないわ。排泄物が腐ることによって人は色んな病気になったり、水が汚染されてお腹を壊したり、ネズミのような害獣や害虫を繁殖させたりする原因になってしまうの。それに、とても勿体ないことでもあるのよ」

「病気、はなんとなくわかりますが勿体ないとは?」


 捨てられた人糞は、豚の餌になるか雨で流されていくかのどちらかである。その豚もあちこちで排泄をするし、流されていくと言っても下水が発達していないので、単に薄まってそこらに広がるだけだ。

 つまり現状、排泄物はただただ、人の住む場所の周辺に闇雲に廃棄されているだけだった。


「……これについて、あなたたちの意見を聞かせてもらいたいの。リカルドは、私が肥料を作っていることを知っているわよね」

「ええ、エンカー地方の大豊作の理由ですよね。なんでも藁や動物の骨や残飯なんかを集めて作ると聞きました」

「……人間の排泄物でも同じことが出来るといったら、それを使って作られた食べ物に、抵抗はあるかしら?」


 牛糞を使った堆肥はこの世界にも存在し、利用している地域もあるけれど、人間の糞尿はただ邪魔者として捨てられるだけだ。


 けれど、人間の排泄物を原料とする肥料も前世では大昔から利用されていた。


 江戸時代では直接排泄物を買い付けたい農家と、排泄物を買い上げて販売する下肥問屋とより高値を付けた者に販売し、長屋の所有者は多大な利益を得たというから、どれほど優秀な肥料だったかよくわかる。


 メルフィーナの問いにリカルドとエディは目を瞠り、それからううん、と唸る。


「小便や大便を使って作られた野菜ですか……」

「……正直、そうしていると聞いたら、抵抗があるかもしれません」


 口は重いけれど、明らかな難色を滲ませている。


「普段はそこらへんに投げ出されていて、踏んだり、下手したら頭の上から降って来たりするのに?」

「踏めば嫌な気持ちになりますし、上から降って来たものを被れば怒鳴り込んで小銭を巻き上げるくらいのことはしますからね。触りたくない、忌々しいものではありますよ」


 となれば、トイレを作っても排泄物は山に捨てるか川に流すかしかない。それを運ぶ仕事も嫌がる者が多いだろう。

 糞尿の処理は次の暖かい季節が来るまでに対処したいものだし、その運搬人も絶対に必要な仕事であるとは思うけれど、嫌がる仕事を無理にさせるような真似はしたくない。


 悩んでいると、メルフィーナの隣に座っていたマリーが手を上げる。


「メルフィーナ様、元農奴の集落で、試験的に試してみたらいかがでしょうか」

「試してみるのは構わないけど、エンカー村ではなく集落のほうがいいのかしら?」

「元農奴の集落は、真っ先にメルフィーナ様の肥料を作り始めた地域ですので、メルフィーナ様のされることに最も信頼が厚いです。メルフィーナ様には抵抗があるお話かもしれませんが、元農奴は汚物の始末などにも慣れていますし、共同トイレからコンポストへの移送も嫌がらないと思います」

「排泄物を利用した肥料は、当面は集落の自給自足用の畑に使ってもらうというのはどうでしょう。職人たちにそうしたように、最初の数年は無料か格安で提供することにすれば使いたい家は多いと思いますし、その効果が実証されて欲しがる者が増えれば、自然とトイレ事業にも協力的になると思います」


 後ろに控えていたセドリックがマリーの言葉にそう続ける。


「そうね……何だか集落の人たちの弱い立場に付け込むみたいで、抵抗はあるけれど……」

「いえ、むしろメルフィーナ様の役に立てるならと喜ぶと思いますよ。彼らはメルフィーナ様が大好きですし、それで生活が豊かになると信じていますので」


 その信頼は重く、またくすぐったいけれど、それに応えたいとも思う。


「では、ニドには後日私から頼むことにしましょう。リカルド、それで、トイレの建設の件ですが……リカルド?」

「ああ、すみません。……いや、私も親方として領都の貴族の屋敷に呼び出されて仕事を受けることはありますが、こんなに周りの方に意見を言われて、取り入れる当主様というのは、まだ慣れませんね」

「領主様との仕事に慣れたら領都では相当気を引き締めないといけないと思います」


 リカルドの言葉に弟子のエディも真剣な顔で頷いている。


「自分に足りないところは、周りに補ってもらった方がいい結果が出ると思いますよ」

「それが分からん人も、多いのですよ」


 妙に重い口調で言い、リカルドはパン、と膝を打つ。


「さ、話も決まったところで、トイレとはどんな仕様で、どういう形にするか、教えてください」

「基本は、深い穴を掘り、水分を通さないよう穴の内側を加工します。その上に便器を置き、周囲から見えないよう壁で囲います。当面は決まった場所で排泄するのに慣れてもらうために公衆トイレにしますが、いずれは一戸にひとつ設置したいですね」

「後から戸別に作る場合は、今ある建物に外付けになりそうですね」

「共同トイレなら、大きく作って便器の数を複数にしないと順番待ちで揉めそうです」

「汲み取り、ということはこの穴から排泄物を汲み取るんですか?」

「いえ、基本は穴を横に大きくして、トイレの外から汲み取れるようにします。桶で汲み取った排泄物を大きな壺か樽に詰め、別の地面に掘った穴に移し、蓋をします。夏は二か月ほどで肥料として使えるようになるはずですが、冬は様子を見ながら試行錯誤することになるでしょうね」


「メルフィーナ様、藁を使った肥料は空気を入れなければならなかったはずですが、穴に入れるとそれは難しくなりませんか?」

「人の排泄物を使った肥料には、それは要らないの。ただしばらく置いておけば、使えるようになるわ」


 藁や骨粉、残飯などを使って作った肥料はぼかし肥、いわゆる好気性菌を利用して発酵させた肥料だが、排泄物のみを使って作る下肥は嫌気性菌による発酵を利用する。

 嫌気、文字通り空気を嫌う菌だ。


「溜めておくのは絶対必要なのですか? 汲み取ったらすぐに使った方が効率が良いと思いますが」

「藁で作った肥料の時にも、肥料自体が熱を放って温かくなっていたでしょう? あれが排泄物の肥料でも起きるの。その熱で悪い虫や病気の元を殺すから、絶対に必要な過程なのよ」


 なお、あまり密閉しすぎるとガスが溜まって爆発する可能性があるので多少空気を通すようにすること、利用するときは水で薄めて使うことも周知徹底する必要があるだろう。


 黙って話を聞いていたリカルドは、顎を撫でると、ふむ、とひとつ頷いた。


「初めてのことなので、とりあえず試作を作ってみることになりますが、話を聞く限り出来ないと言うことはありませんな」

「それにしても、メルフィーナ様はどこでこのような知識を得たのでしょう。私も家庭教師について貴族の教養については学びましたが、このような内容に触れたことはありませんでした」


 マリーの問いに、少しぎくりとなるけれど、それは押し殺して微笑む。


「私も家庭教師からはマナーやダンス、計算も簡単なものしか教わらなかったわ。この手の知識は個人で買い求めた本や図書館で得たものよ。他の令嬢より知識欲が少し高かったんでしょうね」

「そうなんですね。素晴らしいです」

「さすが、侯爵家の令嬢となると違いますね」


 セドリックも褒めてくれるけれど、これらは前世の知識を流用したもの、それもゲームの他に漫画や小説といったもので知っただけで、体験して得たものではないので、そんなに褒められると少し居心地が悪い。


「後は、決まった場所でトイレを済ませてくれることが徹底されるといいけれど。これまでの習慣を一気に変えろというのも無理だろうから、時間がかかるかもしれませんね」

「メルフィーナ様が言えば、みな従いますよ」

「それに、これまでの習慣が一気に変わることに、そろそろ皆、慣れてきたと思います」


 気を遣ってくれているのだろう、秘書と護衛騎士は明るくそう言うけれど、実際は中々難しいに違いない。


「リカルドも、この数のトイレの設置は大変な仕事になると思いますが、よろしくお願いします」

「なぁに、仕事があるのは職人にとって誉です。頑張らせていただきますよ、領主様」


 リカルドはにっ、と力強く笑ってくれた。


 次々と作られていくトイレを村民は我先にと利用し、ある程度数が増えるまで毎日のように汲み取りに通っていると聞かされるのは、それからしばらく過ぎた頃のことだった。



ヒト由来の病気や酵素、寄生虫などは発酵させるときの発酵熱で死滅します。

実際に寄生虫を媒介したり赤痢の原因になった事件は、発酵不足が原因なので、

メルフィーナはよく発酵させること、水に薄めて利用することを指示して

人糞堆肥のデメリットを回避しています。

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