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捨てられ公爵夫人は、平穏な生活をお望みのようです  作者: カレヤタミエ


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288.新しい挑戦と歯ブラシ

 時は少し遡る。


 マリアはその頃、夜な夜な植物紙の台帳を眺めては、人知れず唸ることが多かった。


 植物紙は領主館の人間は好きに使えるよう、団欒室に束にして置いてある。最初はメモ書きとして利用していたけれど、和綴じできる道具も揃っているため、今は最初からある程度束ねてノートのようにして使っていた。


 魔石のランプの光は、生まれ育った世界の電気ランタンに近く、蝋燭と違って揺らぎのない光を机上に注いでいる。こうして机に向かっている時だけは、元の世界でテスト前に勉強していた時と変わらないような気持ちになる。


「お金、やっぱりすごくかかる……」


 机に肘を突いて手のひらで額を覆う。お小遣い帳のように数字を並べていても、項目は人件費や材料費といったもので、この世界の金銭感覚をよく分かっていないマリアにとっても、数字もそれなりに大きいと感じるものだ。


 高一の夏休みにアルバイトをした経験はあるし、その時に入ってきたバイト代の大きさに焦るやら嬉しいやら色々な感情はあったけれど、報酬を払って依頼する側となると、考えることがこうも多いのかと頭を悩ませる日々だ。


「試してみたい革が一枚この値段で、予備として五枚は購入したいというからこれくらいになって、発注してから届くのに一週間くらいで、カット用の刃物も専用に作りたいって言ってたっけ」


 メルフィーナから靴を開発してみないかと言われて着手してみたものの、最初から躓くことは多かった。

 簡単に考えていたわけではないものの、なめした革を一枚作るだけでも、一年半も時間がかかるのだという。


 マリアがあまりに簡単に考えていたことが透けて見えたのだろう、動物から皮を剥いで、一か月ほど水に浸け、毛を処理した後ブナの樹皮とともに浸水させて、定期的に樹皮と水をためた桶を換えることを繰り返す。そうやって馬具や革鎧に使われる皮革は作られるのだと、顔の怖い職人に滾々と説明された。


 そうやって作られた革は当然のように高級品だ。一枚で職人の日当の十日分ほどもする。

 数字を睨むのに疲れて、ベッドに移動しても頭は靴で一杯で、ベッドの傍に置いてある木箱から「試作品」を取りだす。


 先端が尖っていなくて、足にしっかりと密着して、歩くのに負担が少ない靴が欲しい。

 そんなニーズを叶えるのに、まず靴の形そのものを開発しなければならないというのはかなりハードルが高かった。


 こちらの世界の靴も色々と見せてもらったけれど、平民の靴は革をブーツの形に縫ってふくらはぎのあたりで紐で結び、折り返して紐を隠すような簡単な造りのものが殆どらしい。

 さらにお金がない層は、靴下の底に足形にくりぬいた革を中敷きのように敷いたものを靴替わりにしているのだという。


 そもそも、この世界の人は兵士や騎士を別として、歩き回るというのが一般的ではないらしい。

 貴族は移動に馬車や馬を使うし、女性はそもそもあまり外出自体を好まないのだという。だから室内や庭園を美しく飾り付け、居心地のいい家を造る貴族が多いらしい。


 一般人は日々の生活のために日が出ている間は働きどおしで、旅行に行くどころか趣味を散歩にする時間も体力もないらしい。

 需要が少ないということは、オーダーメイドするにしてもいちいち高くつくということだ。


「あぁー、でも今更出来ないなんて言えないしなあ」


 ごろりとベッドの上で転がって、情けないひとり言を漏らす。


 領主邸に与えられた部屋はマリアの感覚で十畳ほどの広さがあり、ベッドと物書き用の机、ソファセットが設えられていた。床には模様の細かい絨毯が敷かれていて、少し前まで使わせてもらっていたメルフィーナの部屋より、少し豪華な感じがする。


 元々この部屋は、セルレイネ・ド・ルクセン……攻略対象の一人であるセレーネが使っていた部屋だという。

 マリアとはほぼタッチ差で、エンカー地方を後にしたらしい。


 会ってみたかったような気持ちもあれば、他の攻略対象にあまり良い印象があるわけでもないのでゲームの印象のままにしておいたほうがいい気もしている。


「はぁ、もうちょっと、色々勉強とかしておけばよかった」


 自分はいわゆる普通の女子高生である。少し運動は得意かもしれないけれど、それだって全国でトップを争えるレベルかといえばそんなこともなく、高校もスポーツ推薦ではなく受験して入学した。


 数学と英語が苦手というのはゲームの「マリア」と同じかもしれないけれど、女子高生の六割くらいは英語と数学が苦手なものだと思っている。


 自分はそれなりにオタクだと思っていたけれど、いざ身一つで異世界に来てしまったら、それまでの知識など役に立つことはほとんどないことに気が付いた。

 大抵のことはこの世界が積み重ねて来たシステムで回っているし、ぽっと出の女子高生がそれを変えていくのは、土台無理だ。


 もし自分にチート的なものがあったとしても、それを振りかざしてすでに出来上がっているものの変化を求めるほど、精神的な強さもない。


「メルフィーナって、つくづく、強いんだなあ」


 メルフィーナはマリアが見えない高く大きな壁に感じているそれらのことを、自然にやってのける。

 この世界の何を知っているわけでもないけれど、メルフィーナの治めるこの土地が他の場所に比べて豊かで、のびのびとしていて、活気があることくらいは察していた。


 無理せず、自然に変化させて、それで周りにも慕われている。どうしたらあんな風になれるのか、傍で見ていてもまるで分らない。


「うー、明日も頑張ろう」


 メルフィーナになれないと嘆いていても仕方がない。明日はまた職人が来てくれるし、目の前にあることをひとつひとつ片付けていくしかない。


 予算は、明日の夕飯が終わったら頼んでみよう。メルフィーナはいつも気にした様子もなく出してくれるけれど、最近お金の話が多くて、ちょっと気が重い。


 それでも、やるべきことが前に積み上がって一人で頭を抱えている状態は、王宮の部屋で侍女や騎士に見張られながら豪奢な部屋に閉じこもっていたときより、ずっと気が楽なものだった。



   * * *


 九月に入るとエンカー地方は夏が終わり始めて、朝晩は随分涼しくなってくる。毎朝日の出とともに目を覚まし、身支度をして部屋を出て、食堂で朝食を貰うのが毎朝のルーチンだ。


 二階にはトイレと洗面台のスペースがあって、ここはほとんど女性――それも高貴な女性用として機能している。小まめにメイドさんが掃除をしてくれて、壁には大きな鏡が掛かっていて、花もよく飾ってあった。


 歯ブラシは自分で保管して持っていく形だ。樫の木に豚の毛を植えたもので、ムラのある茶色で少し硬いけれど普通に使うことが出来る。

 渡されたときはこの世界にも歯ブラシはあるんだなあ程度に思ったけれど、今はすっかり見る目が変わった。


 これもメルフィーナが、土台を削る人や豚の毛を処理する人やそれを植える人といった、それぞれの職人を探して、仕事として成立させたのだろう。壁に掛かっている鏡も、花を飾っている小さな花瓶だって元々同じものがこの世界にあったのか、怪しい。


 これまでこの世界になかったものを作ってもらうというのは、本当に手間だ。メルフィーナにはそれを説明するだけの知識とプレゼン力と、事業として成立させるバランス感覚があるのだろう。


「おはようマリア。どうしたの、難しい顔をして」

「あ、おはようメルフィーナ。ごめん、退けるね」

「いいわよ、並んで使いましょう」


 メルフィーナは鷹揚に言うと、長い袖を器用にまくって顔を洗う。いつもハーフアップにしている髪はまだ編まれていなくて、寝間着に使っている柔らかい素材のひらひらとした白いワンピース姿のままだ。


「それで、何か考え事してた?」

「うん、この歯ブラシ、見た目よりずっと手間がかかっているんだろうなあって思ってた」


 歯磨き粉は名前の通り粉で、小さなスプーンで掬って歯ブラシに載せる。泡立つこともなく、味はしょっぱいけれど、磨き上がりは悪くない。


「齲蝕――虫歯で苦しむ人って、こっちでも多いのよね。砂糖や甘いものが一般的ではないからあちらの世界ほどひどくない感じもするけれど」

「虫歯になった場合、どうするの? 歯医者さんなんていないよね、多分」

「他の歯に移らないように、痛くなったら抜いてしまうらしいわ。麻酔なしで、ペンチで」

「ひえっ」

「苦しむ人は出来るだけ減って欲しいから、歯磨きの習慣が根付くように色々やっているの。ある程度大きくなった子供たちはしてくれるけれど、小さな子供と大人は中々習慣づけるのが難しいわね」

「ああ、小さな頃って、オエッてしやすいもんね」


 むせる仕草が面白かったのか、メルフィーナはクスクスと笑うと、じっとこちらを見た。


「マリアも気を付けて。といっても、私達は虫歯になるかも怪しいけれど」

「ばっちぃのは嫌だから、ちゃんと磨くよ」

「それがいいわ。磨いている人が一人でもいれば、そのうち周りに自分もやってみようって思う人も増えるかもしれないし」


 ほら、これだ。


 ささいな、すぐに見逃してしまうようなことでも、メルフィーナは先々のことや影響までちゃんと考えていて、それを当たり前のようにこなしている。


「歯磨き粉って、どうやって作ってるの?」

「これはクレイ――粘土質の土の深い所にある粘土を乾燥して挽いたものに、塩と精油を混ぜて作っているわ。塩だけでも歯磨きにならないこともないけど、ちょっと刺激が強いから」

「粘土……土?」

「あら、粘土ってすごくいい素材なのよ。あちらの世界でも粘土の顔パックとかしたことない?」

「ないなあ。パック自体したことないし」

「若いものね」


 朗らかに笑うメルフィーナを見ていると、自然と、心が柔らかくなる。自分はメルフィーナになれないのだと、嫉妬するような気持ちすら湧いてこない。


 この人に、素敵な靴をプレゼントして、すごいわマリア! と言われたら、きっととても誇らしい気持ちになるだろう。


 メルフィーナの周りにいる人は、多かれ少なかれ、同じ気持ちを抱いている気がする。


「今日は何をするの?」

「職人さんが来てくれることになっているから、試作品の相談と型とかも取るかも。レナとロドがすごく手伝ってくれてて」


 最近頭を占めていることだけに、話し始めるとついつい饒舌になってしまう。

 メルフィーナはにこにこと話を聞いてくれた。


「頑張ってね。応援しているわ」


しばらくマリア視点でお話が進みます

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