282.浄化と治療魔法
そういえば、と改まってメルフィーナが告げ、小さな革袋を取り出す。中身は透明な爪ほどのサイズの石で、テーブルの中央に置くとマリアは首を傾げ、コーネリアはすぐにそれが魔石であると分かったようだった。
「使い切ったか、浄化されたまま魔力が充填されていない魔石ですか?」
「ええ、去年、コーネリアが参加してくれた時の魔物から出てきた魔石よ。アレクシスから見せてもらった時に、私がうっかり浄化してしまったの」
その言葉には、さすがにコーネリアも驚いた様子を見せる。
「その場にいた数人も、私が魔石を浄化したのを見ていたわ」
「メルフィーナ様が嘘を吐くとは思えないので、きっとそうなのでしょうが……驚きました。魔石の浄化は、神殿の中でも上位の神官のみが行う仕事なので」
コーネリアはまじまじと魔石を見ていたけれど、やがてふう、と小さく息をついた。
「本当に、メルフィーナ様には驚かされることばかりです」
「私だってその時はびっくりしたわ。――コーネリアは神殿で魔石の浄化を行ったことはあったのかしら」
これには、コーネリアははっきりと首を横に振った。
「神殿って位階は大神官・神官・修道女の三種類しかないのですが、同じ神官の中に神殿長から見習い期間が終わったばかりの新人まで全部入っていて、魔石の浄化をして良いのは、ある程度以上神官としての経験がある、その地区の神殿長と、その委任を受けた高位の神官だけなのですよ。わたしなんかは勉強不足なので、全然でした」
「魔石を使った魔道具はそれなりの数が市場に出ているから、まあまあの数を浄化しなければならないと思うのだけれど、そんなに限られた人員で大丈夫なのかしら」
「たしかに流通量はそれなりですが、一度浄化してしまえばその魔石はずっと使えますし、高価な物なので壊したり捨てたりということもほとんどないでしょうから、なんとか回っているのだと思います。とはいえ、北部ではサスーリカの魔石が相当数出るので、冬の間は担当の神官たちは多忙な様子でしたね」
「ね、メルフィーナ。これ、触ってみてもいい?」
「ええ、大丈夫よ」
マリアの言葉に頷くと、マリアは親指と人差し指でつまみ、光にかざすように持ち上げる。
「見た目は水晶とかガラスとか、そんな感じなんだね」
「中身は空っぽだから。魔物から取り出した直後や魔力を込めた後は、あまりじっと見つめてはいけないみたいよ」
「へえ……」
魔石を初めて見るマリアは興味深そうな様子でしばらくそれを色々な角度から見ていたけれど、やがてそっと、革袋の上に戻す。
「私、魔石の浄化と治療魔法は、もしかして同じものではないのかと思っているの」
「浄化と治療魔法がですか……なぜそう思ったのか、伺ってもかまいませんか?」
「人間や魔石を「鑑定」すると、あちらの世界の言葉で情報が浮かぶんです。その中に、更新履歴という項目があって――」
魔石の浄化の際、メルフィーナは更新履歴の最も古い部分に意識を集中し、その結果、魔石は浄化された。
魔石は、浄化しないままでいると同じ魔物が発生するのだという。だとしたら、浄化とは魔石に魔物という属性が付く前の状態に初期化することではないかと推測している。
「「鑑定」によって魔石や、もしかしたら人間も状態を巻き戻せるのだとしたら、結果としてついた傷を消すことが出来るのではないか。治療魔法とは、結果として治療されるだけで、実際は肉体の時間を巻き戻しているのではないかと思ったのよ」
マリアは緊張した表情でメルフィーナの仮説を聞き、コーネリアも唇に指を当てて、情報を吟味している様子だった。
「でも、それだと魔石を浄化できるのは「鑑定」を持ったあちらの世界の知識がある人だけ、ということにならない?」
「ええ、だから、私は神殿で、あちらの世界の知識――日本語をある程度解読して、「鑑定」を持っている神官に学ばせているのではないかと思っているの」
メルフィーナは植物紙のメモを取り出し、コーネリアに渡す。
「ランダムにあちらの言葉を色々と書いてみたの。見覚えのある文字はないかしら?」
身長、年齢、体重、魔法属性、能力、健康状態、配置、更新履歴といった、人間を「鑑定」したときに見える文字だ。コーネリアはそれを見て、頷いた。
「治療魔法を使う時に見えるものと、同じです。神官になったらまず最初に暗記する神聖言語ですねえ」
「えっ、ちょっとまって。体の時間を巻き戻せるって、それって、実質的にこの世界の人は、治療魔法をかけ続けることで不老不死になれることにならない?」
マリアの言葉に、コーネリアはすぐに首を横に振った。
「そう考えた方は過去にもいたようです。でも、そもそも治療魔法って上限が決まっていて、安全を期すなら三回まで、どれだけ差し迫っていても上限は五回までで、重ね掛けも禁じられているんです」
それは、治療魔法を覚えたての神官が繰り返し言われることなのだという。
「治療魔法の使い手の魔力量や技量によっては、一度の治療で傷が塞がりきらないことも多いのですが、その場合でも、決して二度目の治療魔法をかけてはならないのだと、指導を行う神官に強く言われます」
「繰り返しかけるとどうなるかは、分かっているんですか?」
「体が崩壊するそうです。これは、動物などを使った実験でも確認されていると聞いています」
その言葉に息を呑み、テーブルの上に置いた手をぎゅっと握る。
貴族と言えども、平均寿命がそう高くないこの世界で治療魔法による延命に目を付けられていない以上、なんらかの障害があるのだろうとは思っていたけれど、想像以上に重いペナルティだ。
動物実験でそうなる以上、人間で、まして自分で試そうなどと思う者はそういないだろう。
「また、治療魔法によって傷が塞がった場合でも、血を流し過ぎている場合、結局助からないということも多いので、それほど万能の力というわけでもありません。――ただ、体を元の状態に戻そうとしているというのは、合っているかもしれません」
どういう意味だろうとコーネリアを見ると、彼女のいつも溌剌とした表情から、少し、血の気が引いていた。
「討伐では深手のほか、四肢の一部を失った騎士や兵士もいるわけですが、彼らには治癒魔法が使えないのです。――失った手足が生えてくる過程で、必ず絶命してしまうので」
「……ごめん、ちょっとだけ、席外す」
マリアが口元を押さえて、テラスから足早に去ってしまう。どうやら玄関の方に回ったらしく、何があったのかと尋ねられているのだろう、セドリックやオーギュストの声が僅かに聞こえてきた。
「……少し、刺激が強すぎましたかね」
「あちらの世界では、ほんの小さな怪我もあまりする機会が無いし、大事に治療するのが当たり前だから、慣れていないのだと思うわ」
それを言えばメルフィーナも決して荒事や血なまぐさい話に慣れているわけではないけれど、これはもう、個人的な耐性があるかないかの違い程度だろう。
なにより、マリアは聖女であり、誰よりも治療魔法を使いこなす存在になるはずだ。
その力によって相手の死期を早めてしまう可能性があるかもしれないというのは、メルフィーナよりずっと生々しく感じても仕方がない。
「それにしても、回数の上限と、治療できる範囲の制限なんて、人の領分を超えないように周到に設定されているって感じてしまうわね」
「もしかしたら、聖女様だけは例外という可能性もあるかもしれませんが。わたしなんかは治療魔法を比較的長く維持できるので、一度の治療で広い範囲の怪我を治すことができますが、深さがたりないので、骨折などは不得手ですし」
「ああ、体の深い部分に、魔力の層が届かないということかしら」
ユリウスの浄化を試みた折、メルフィーナの魔力が弱すぎて、その表面に張る氷より先に進めなかったことを思い出す。
「はい。力の強い神官は、それはすごいものですよ。体の中の傷まで治してしまうほど力を持つ方は、ほとんどが上位神官に取り立てられます」
広い範囲である程度深い傷が治せるとはいえ、神聖言語の習得にあまり積極的ではなかったコーネリアは下位神官のままだったらしい。
とはいえ、神殿の居心地が悪く討伐に志願してばかりだったというコーネリアに、神殿内の位階に興味があったとは思えない。
今となっては、さらにどうでもいいだろう。
なんとなく二人そろって黙り込むと、こんこん、と壁を叩く音に、振り返ると、セドリックが立っていた。
「メルフィーナ様、公爵家より先触れです。一週間後に閣下がこちらに伺いたいと」
「こちらは問題ないと返してちょうだい。――そろそろお昼にしましょうか。マリアは大丈夫そう?」
「お疲れの様子ですが、落ち着かれています」
「それならよかったわ。昼食は少し軽めにしてもらったほうがいいかもしれないわね」
聖女の力にも関わることだろうからとマリアに同席してもらったけれど、これで治療魔法に忌避感を抱かなければいいと思う。
見れば、コーネリアも、心配するような表情をメルフィーナに向けていた。それににこりと笑い返す。
「大丈夫よ。マリアは弱い子ではないし、ゆっくりやっていきましょう」
――時間はまだ、あるはずだから。
その言葉は声になることはなく、そっとメルフィーナの中に呑み込まれていった。