275.「分離」と塩析と聖女のチート
いつもは下ろしている金の髪を軽く編んでアップにしておく。厨房にはマリーとセドリックがメルフィーナのアシスタントに付き、中庭ではマリアとレナとオーギュストが別途作業をしてくれていた。
「まずアロエをよく洗って、側面の棘の生えている部分を切り落とすわ。毒はないけど、結構鋭くて刺さると痛いから、十分に気を付けて」
品種が違うのだろう、前世で見かけたより一回り以上も大きいアロエはどっしりとしていて、扱いやすい。
「側面を落としたら、真ん中から半分にスライスして、果肉をこそげ落としていくわ。それを煮沸した瓶に入れて、蒸留酒を注げばこちらの作業は終わりよ。簡単だけど、怪我にだけは気を付けて」
マリーとセドリックも手伝ってくれたので、作業はあっという間に終わる。中型の瓶二つ分のアロエの蒸留酒漬けを籠に入れて中庭に移動すると、どうやらそちらも作業が済んだところだった。
「メルフィーナ、これでよかった?」
「ええ、鹸化も大分進んでいたし、完璧よ」
昨日のうちに豚の脂身を融かしたものと木灰を水に溶いて濾したものを混ぜ、煮立たせた石鹸は朝の時点で白く固まっていたけれど、熱を入れられ再度どろどろの白濁した液体に変わっていた。
獣脂の石鹸は、メルフィーナがエンカー地方に訪れてかなり早い段階で導入したもののひとつだった。エンカー地方では養豚と炭焼きが盛んなので材料に困らないということもあるけれど、手と顔を洗う習慣をつけるだけで、食中毒の可能性を劇的に下げることが出来る。
衛生観念などというものがほとんど存在しないこの世界において、乳幼児や病人、老人の腹を壊した結果の死亡率は決して甘く見られない高さだ。少しでもそれを下げたいというのは、メルフィーナが領主に納まった頃から一貫して続いている施策のひとつである。
「今日は、普段作っている石鹸を塩析します。塩析をすると純粋な石鹸成分が分離するので、より純度の高い石鹸を作ることができるわ」
「メル様、えんせきって何? どうやるの?」
「やり方は簡単よ。塩と水を混ぜたものをこれに入れるだけ。そうすると、石鹸以外の成分が塩水と反応して分離するの」
「思ったよりずっと簡単なんですね。普段からやらないのはどうしてですか?」
オーギュストも興味深そうにどろどろに溶けた鍋の中を覗き込み、顎に手を当てながら首を傾げる。
「塩析しなくても石鹸にはなるし、まあ、好みの問題かしら」
「好みですか?」
石鹸づくりにおいて、塩析して再び冷やして固めたものは泡立ちが良く洗浄力も高いので、洗濯や皿洗いによく向いている。
一方、塩析を行わないまま固めて乾燥させた石鹸は保湿成分を内包したままなので、手洗いを繰り返しても手荒れが出る可能性が低い。
エンカー地方は雨期を除いて前世より乾燥しているし、冬は特に手荒れが悪化してあかぎれになる者が続出する。
手洗いをするたびに乾燥して痛い思いをしていては、せっかく根付いた習慣もあっという間に廃れてしまうだろう。それもあって、これまでの石鹸は塩析を行わないものを作っていた。
「ああ、もしかして、ロマーナの石鹸とエンカー地方の石鹸が違うのって、塩析をしているかどうかですか?」
「そうね。塩析をしていない石鹸は柔らかくて長距離輸送に向かないし、ロマーナは半島で海沿いの街が多いでしょうから、塩析には困らないわね。たぶん水の成分的にも、塩析をしていない石鹸はすぐに溶けて駄目になってしまうんじゃないかしら」
塩析を行っていない石鹸は不純物もそのまま取り込んだ状態なので、溶けやすく、傷みやすい。放置していると内包した油脂やグリセリンがにじみ出してくることもある。
海沿いで、飲み水が硬水に偏っているだろうロマーナでは、すぐに駄目になってしまうだろう。
「海水では石鹸は泡立たないでしょう? そんなようなものよ」
塩を天秤に乗せて計量しながら言ったものの、返事は誰からも返ってこなかった。顔を上げると、マリーが苦笑しながら言った。
「この中で、海で石鹸を使ったことがある者はいないようです」
* * *
沸騰しない程度に加熱しながら塩水を注いで木べらでゆっくりと混ぜていると、やがて鍋の中身がもわもわと白く凝り始めてくる。上に浮いてくるのが純度の高い石鹸で、下に沈むのがそれ以外の不純物である。
今日の目的は、その不純物のほうだ。上澄みをよけて小さなカップに水分を少しだけ移す。量としては、ティースプーンで数杯というところだろう。
「さ、ここからは私の出番。久しぶりの「分離」よ」
ユリウスに教えてもらったものの、直後思いついた「合成」をしようとして魔力中毒に陥ったことは、今でも中々のトラウマだった。それもあって、これまで「分離」もなんとなく、忌避していた。
だが「分離」は使いようによってはとても有用な能力である。二度とあんなことにならないよう気を付けつつ、活用していきたいところだ。
カップの上に指をかざし、「鑑定」を発動させるとまずは魔力の「層」が出来上がる。普段全く使っていないせいで、以前と変わらない、本当にささやかなサイズのままだ。
――水を「分離」。
小さな層の中に水が吸い込まれ、カップの中には少し量の減った液体が残される。かなりとろみがついているそれに、再び指をかざす。
次に「分離」するのは塩かグリセリンのどちらにしようか迷ったけれど、どうせならば純度の高いグリセリンに挑戦してみたい。
――グリセリン《C₃H₈O₃》を「分離」。
水よりも分子構造が複雑なせいか、やや多めに魔力を必要としている気がする。それでも気が遠くなるほどではなく「層」の中に透明な物質が吸い込まれた。
「マリー、瓶を!」
「はい、メルフィーナ様」
さっとマリーが差し出した瓶の中に「層」の中身を落とす。
それは透明で、とろみのある液体だった。
瓶の縁に少し付いてしまったそれを「鑑定」してみると、グリセリンと出る。
「やったわ! あとは、こちらを煮沸した水で薄めて、さっきのアロエの蒸留酒漬けを布で濾して混ぜあわせれば、完成よ」
透明な瓶の中には、僅かにとろみのついた透明な液体が揺れている。それに栓をして、マリーの手を取り、握らせた。
「メルフィーナ様?」
「これは、保湿成分の高い化粧水よ。肌に塗ると日焼けや肌荒れに効くと思うわ。サウナの後や、朝の洗顔の後に適量を取って顔や手に使ってみて。マリーが気に入ってくれると嬉しいわ」
「私にですか?」
この世界でも化粧水はあるけれど、薔薇や花を煮出し、蒸留したものを化粧水として利用し、保湿はオリーブオイルを薄く塗るのが基本である。
メルフィーナを含む攻略対象たちはネームドキャラクターの恩恵なのか、日焼けも肌荒れもしないけれど、メルフィーナのお使いで外出の多いマリーや騎士たちのために、肌荒れ防止の化粧水や手荒れ防止用のクリームを作りたいと思うことはあったものの、これまでは中々材料が揃わないので後回しになり続けていた。
「柚子の種を焼酎……蒸留酒に漬けるだけでお手軽な化粧水が出来るけれど、この辺りは冬が寒すぎて柑橘類が育たないのよね。アロエは菜園にある温室で問題なく育つと思うし、脇芽を土に挿しておけば勝手に増えるわ。今は量が少ないけれど、そのうちどんどん増えていくはずよ」
なんなら、アロエ用の温室を新しく造ってもいいくらいだ。
「ですが、メルフィーナ様の手ずから作られたものを、こんな風に頂くわけには」
少し困惑した様子のマリーに微笑めば、いつも冷静な表情の義妹はぐっと言葉を呑み込む。
「マリー、いつもありがとう。マリーが傍にいてくれて、私は本当に嬉しいの。――一応、腕の裏の皮膚の薄い部分に塗ってみて、かぶれたりしないか確認して使ってみてね」
「メルフィーナ様……」
マリーの瞳がじわりと揺れたものの、涙をこぼすことはなく、マリーは花のつぼみが綻ぶように微笑んだ。
「ありがとうございます。大切に使います」
きゅっ、と手にした瓶を胸に抱くマリーにメルフィーナもほっとしていると、傍で見ていたセドリックがぽつりと呟く。
「その効果があるなら、貴婦人で欲しがる方は沢山いるでしょうね。王都ならば、値段を問わないという方も多いと思いますよ」
「今のところ、大量生産は難しいのよね。グリセリンを取り出すのがまず難しいし。保存料も入っていないから十日から二週間ほどで使い切る必要があるわ。グリセリンと、せめてビタミンCが工業的に出来るようにならないと……」
言いかけたメルフィーナの背後で、焦ったようなマリアの声が上がる。
「わっわっ! オーギュスト! 桶! 桶!」
騒がしい声に振り返ると、マリアがバスケットボールほどの水球を手に浮かべてオロオロしている。水球はゆらゆらと不安定に揺らめいていて、慌ててオーギュストが持ってきた桶を差し出すと、マリアはその中身をぶちまけた。
「――マリア?」
思わず名前を呼ぶと、主犯らしいマリアだけでなく、傍にいたレナと桶を持ったままのオーギュストも、さりげなく視線を逸らした。
「あ、あの、「分離」って私も出来るかなあってレナに聞いたら、「鑑定」が使える人でないと「分離」は出来ないって言われて……試しにやってみたんだけど」
三人の中で、オーギュストが最も早く諦めたらしく、メルフィーナに桶を差し出す。「鑑定」すると、中身はちゃんとグリセリンと出た。
石鹸が入っていた鍋の中身はわずかな水――おそらくは高濃度の塩水と、そこに落ちた、まだ温かいままの柔らかい石鹸だった。
「マリアは、グリセリンの化学式を知っていたの?」
「いや、グリセリン出ろー、出ろーって、念じたら……なんか……」
聖女のチートとはいえ、でたらめだと喉元まで出かかったけれど、思えばハートの国のマリアのライトモードはご都合主義の連続だった。念じるというプロセスを挟んだ分、まだまともの範疇なのかもしれない。
「まあ、グリセリンには使い道も多いし、ある分にはいいのだけれど」
「たとえば、どういうことに使えるんですか?」
さりげなく従兄弟との間にメルフィーナを挟みながら問いかけたオーギュストに、そうね、と頬に手のひらを当てる。
「今日は保湿剤として欲しかったけど、甘味料として使われたりするから、舐めてみると甘いと思うわ。せっかく沢山あることだし、オリーブオイルと蜜蝋と香りのいい精油を混ぜて、ハンドクリームを作りましょうか」
製法自体は難しくないし、作ろうと思えば大量に出来るので、水仕事の多いエドやメイドたちに配るのもいいだろう。
「まだ先の話になるでしょうけど、養蜂が安定したらささやかなエンカー地方の特産品にしてもいいわね。マリーにはバラの、マリアにはカモミールの精油でクリームを作りましょうか」
「バラは、メルフィーナ様にお似合いだと思います」
「カモミールも可愛いし、お揃いにしようよ」
「うーん、私はネロリにしたいけど、オレンジの花が手に入らないからレモンバームにしようかしら。三人とも香り違いにして、たまに交換すればいいわ。男性用なら樫や檜から抽出した精油で、ちょっとウッディに仕上げるのもいいかもしれないわね」
今のところメルフィーナ自身はさほどケアを必要とはしないけれど、それもいつまで続くものかは分からないし、いい香りのするものはメルフィーナも好きだ。
「メル様! レナも!」
「レナはお肌、もちもちでしょう?」
「去年の冬、お母さんの手が荒れてたからあげたくて。だめかな?」
「あら、じゃあエリ用にも、特別な香りづけをしましょう。レナが選んでくれる?」
「うん!」
実用品だけでなく、少し嗜好品が交じったものを考えるのも、中々楽しいものである。
兵士や平民用に安価なクリームを作って、エンカー地方内で小規模に販売するのも悪くないだろう。
「これ、赤い色をつけたらリップクリームにならないかな」
「ああ、いいわね。あれはたしか酸化しにくいオイルと植物バターを混ぜて作るから、今度試作してみましょうか」
軌道に乗れば、エンカー地方で手荒れや唇の荒れに悩む人が、少しは減るかもしれない。
マリーとマリアと三人で、容れ物は、香りづけはと盛り上がるのも楽しいものだ。
「なあ、盛り上がっているが、あれは「ささやかな特産品」で済むのか? ロマーナが独占している純度の高い石鹸の製法だけでも、結構なことな気がするのは俺だけ?」
「メルフィーナ様次第だが、いざとなれば我々が前に出ればいいだろう」
「お前って、ほんとそればっか……イテッ!」
騎士二人の会話と悲鳴は、盛り上がる女性四人の耳には届かないまま、風に流されて消えていった。




