273.商人とアロエと空を飛ぶもの
夏にしては珍しく、数日の雨が上がったその日に城館を訪ねる商人があった。
「アントニオ、いらっしゃい。よくきてくれたわ」
「メルフィーナ様、少々ご無沙汰してしまいました。ご壮健で何よりです」
相変わらず爽やかな笑みを浮かべながら、長身の商人は優雅に一礼してみせる。隊商の人々が慣れた様子で前庭の石畳の上に商品を並べていくのを眺めながら、アントニオは朗らかに笑った。
「帝国への納品も、無事に終わりました。先方も十分満足してくださったようで、褒賞までいただいてしまいました。一度ロマーナに帰り、無事こうして北部に戻ってこれた次第です」
「それはよかったわ。ロマーナに戻ったということは、東部を通ってきたのよね。道行きの様子はどうだったのかしら」
「一時期よりは、少しはマシになりましたが、やはり農民や農奴の暮らしは厳しいものです。メルフィーナ様は、東部の人間の流出についてはご存じでしょうか」
「王都に向かって多くの農民や農奴が耕地を放棄して移動している、という話よね」
アントニオは厳しい表情で頷いた。
「皮肉な話ですが、人が減ったので食糧が行き渡るようになったという側面もあります。ですが放棄された畑を手入れする手は明らかに足りなくなるでしょう。暖かいうちはいいですが、今年の冬もまた、厳しいものになる可能性が高いです。東部の商人たちも随分頑張っているのですが。あのあたりの商人は郷土愛が強い者が多いので、今は儲けを減らしてでもという者も少なからずいるのですが、中々……」
「……北部では豊作が続いているのだけれど、東部はそうでもなさそうなのかしら?」
「例年よりは全体的に良好だと聞いています。これも神のご加護かもしれません」
神などというものがいるなら、そもそも飢饉など起きないだろうという言葉は、喉の奥で飲み込む。話をしているうちに幌の付いた馬車からすっかり商品が並べられた。
「今回はいつもの定番の品と、メルフィーナ様がご希望になられていた植物の種なども仕入れてまいりました。ご照覧いただければ幸いです」
マリーとセドリックと共に、並べられた商品をひとつひとつ眺めていく。定番の品は植物紙と軟質小麦、パスタやオリーブオイルといったもので、仕立て前の布や絨毯、小壺が並んでいて、中にはアントニオの言うように種らしいものが詰まっている。
「鑑定」を掛けていくと、それぞれ花の名前だったり野菜の種だったりした。エンカー地方でも育てられているものもあれば、瓜類や葉物野菜に見慣れない名前もある。
「鑑定」は知識によって精度が変わるので、メルフィーナの知らない野菜は名前や形状が浮かんでくる程度だ。知らない名前のものは、実験圃場で植えて実際に収穫してみたほうがいいだろう。
新しいことをするときは、いつも心が躍る。ひとつひとつゆっくり見て回るメルフィーナに、マリーもセドリックも文句も言わずに付き合ってくれた。
「あら、これって」
荷台の上に取り残されるように置かれた壺から突き出した、緑の葉に視線が引き寄せられる。
「ああ、それはロマーナの海沿いの街で観賞用に育てられている植物で、水やりもほとんど要らず長期輸送が出来ると聞いて、メルフィーナ様に献上できればと個人的に荷に積んだものなのですが」
アントニオが、苦笑しながら失敗しました、と続ける。
「途中ですれ違った組合員に聞いたところ、ロマーナや南部のように温暖なところでしか育たないそうなのです。北部ではまず冬を越すことが出来ないだろうと言われて、途中で捨てるのもはばかられ、ここまで運んで来てしまった次第で」
壺に見えたのは、どうやら素焼きの鉢らしい。そこからにょきにょきと、濃い緑色の尖った肉厚の葉が、勢いよく伸びている。
「冬には儚くなる可能性が高いですが、北部では珍しい植物かと思われますので、よろしければお納めいただければ――」
「最高だわ、アントニオ!」
思わず言葉をさえぎって、満面の笑みを浮かべてしまう。面食らった様子のアントニオに構わず手を伸ばすと「メルフィーナ様、それは棘がありますので!」と慌てて声を掛けられた。
構わずそっと葉に触れて「鑑定」を発動させる。
見た目でもそうだと確信していたけれど、間違いなく、アロエだ。
「これ、頂いていいのかしら。いえ、きちんと対価を支払わせてちょうだい」
「こちらは私がメルフィーナ様へと積んだもので、帳簿にも書かれていないので、受け取っていただければ幸いなのですが。……これは、海沿いの街には野生化したものがそこら中に生えていたりするものなのですが、それほど喜ぶような何かが?」
「ええ、だってこれは――」
顔を上げて言いかけて、雨雲が去った真っ青な空に、白い物がすうっと通り抜けて、言葉を呑み込む。
――鳥?
そう思ったものはメルフィーナたちの頭上を通り抜けたかと思うと、途中で軌道をくるりと変えて、こちらに向かって落ちて来る。メルフィーナの視線を真っ先に追ったのはセドリックで、怪しい動きをするものに即座に剣に手を掛けた。
「まってセドリック! 危険なものではないわ!」
剥き身の刃物を振り回す方がよっぽど危険だ。マリーも空を見上げ、少し遅れてアントニオが顔を上げた、その額に白いものは吸い込まれるように落ちてきた。
「ぬお!?」
コンッ! とかなりいい音が立って、驚いたアントニオが後ろに一歩、二歩とたたらを踏む。
「だ、大丈夫? アントニオ」
「は、いや、驚いただけです。しかし何が……」
地面に落ちたものを見て怪訝そうに眉根を寄せるアントニオの声に、ばたばたと走る音が近づいてきた。
「ほらーやっぱりものすごく飛んでる! だからそっと低い位置に向かってって言ったのに!」
「悪い悪い、だが、どこまで飛ぶかやってみたくなるじゃないか」
「そうだけど、わかるけど! もーっオーギュスト様は!」
レナとオーギュストのじゃれ合う声と共に、マリアも含めた三人がこちらに向かってくる。メルフィーナ達と目が合うと、あっ、と声を上げたのはレナだった。
「メル様! こっちにグライダー飛んでこなかった!?」
「やっぱり、あなたたちね」
地面に落ちたそれを拾い上げる。軽い木を細く削った骨組みに、トイレ用に置いてある漉き紙を組み合わせて作ったペーパーグライダーだ。こんなものを作れるのは、メルフィーナを除けばマリアだけだし、そこに「解析」を持つレナと手先が器用なオーギュストが加われば、さぞ性能のいい物が完成したのだろう。
「あの、ごめんメルフィーナ。中庭で飛ばして遊ぼうって話だったんだけど、建物の屋上から飛ばしたらどこまで飛ぶか見てみたいって思って」
「中庭に落ちるように投げようとしたんだけど!」
「いや、すみません。俺が強めに放ってしまって。まさかこんな所まで飛んでいくとは思わず」
マリーとセドリックがどんどん表情を強張らせていくのに、三人があたふたと言い訳を重ねているけれど、完全に逆効果だ。
「オーギュスト卿、もしメルフィーナ様のお顔にぶつかっていたら、どうするつもりだったんですか」
「レナ、変わったものを作るのは今更だが、このように危ない物は、まずメルフィーナ様にご相談するべきだ」
たじたじとなるオーギュストとレナの間で、マリアがオロオロとしていて、メルフィーナも肩から力を抜く。
「三人とも、飛んで行った先で人の目に当たっていたかもしれないのよ。今後は十分に気を付けて。それから、額に当たったアントニオに謝ってちょうだい」
「はい。商人のおじちゃん、ごめんなさい!」
「すまなかったな。怪我をしたなら相応の補償をしよう」
「あっあの、あの、ごめんなさいっ!」
騎士と幼女と冒険者風の服装の少女にそれぞれ謝罪されて、今度はアントニオがオロオロとしている姿から視線を逸らし、手にしたグライダーを見下ろした。
なるほど、よく出来ている。ロマーナの植物紙はインクが裏移りしないように少し厚手に作られていて、その分重いけれど、手習いの紙を漉き直したチリ紙は薄くて軽いものだ。その分耐久性はないけれど、こうした手遊びに使うにはちょうどよかったのだろう。
かなり飛びそうだし、城館の外まで飛んでいかなくてよかったのかもしれない。
「あの、メルフィーナ様、こちらの方は」
一通り謝罪が終わったらしく、アントニオが戸惑ったようにマリアに視線を送りながら聞いてくる。
「私の妹よ。事情があって、こちらで引き取ったの」
「ご令妹様ですか……」
言いたいことは分かる。まるで似ていないと思っているのだろう。
「色々あるのよ。分かるでしょう?」
「は……不躾に、失礼いたしました。それと、先ほど飛んできたものは一体。ちらりと見たところ、紙製のようでしたが、ロマーナの紙ともまた違っていたように見えたのですが」
さすが公爵家に出入りを許され帝国とも取引のある商人である。あの一瞬と、どたばたとした展開に誤魔化されてはくれなかったらしい。
「彼らの手遊びの一種よ。あまり気にしないで」
メルフィーナから気にするなと言われれば、気になっても追及するわけにはいかないだろう。すぐに判りました、と頷くアントニオは、出来る商人である。
「えーと、荷物を運んでるところだった?」
「彼は商人よ。隊商を率いて、たまに来てくれるの。マリアも買い物してみる?」
マリアはちらりと並べられた商品に視線を向ける。
興味はあるようだけれど、アントニオに対する人見知りが発動しているようだ。
「マリア様、ロマーナから運ばれてくるのは、どれも面白いんだよ。一緒に見よう!」
「フランチェスカ王国とはまた違うものが多くて、眺めているだけでも面白いですよ」
レナに手を引かれ、オーギュストの声に背中を押されるマリアが微笑ましく、つい口に手を当ててくすくすと笑ってしまう。
「アントニオ、あの子、ちょっと人が苦手なところがあってね。欲しい物があったらレナかオーギュストが言うと思うから、そっとしておいてあげて」
「は、承りました」
あれは、これはとレナが指さしながら説明するのをマリアも覗き込むように眺めている。
なんとも長閑な光景にほのぼのとしていると、「ところで、あの植物についてなのですが、メルフィーナ様は何か利用法をご存じで?」と突っ込んできたアントニオは、しみじみと目敏い商人である。
知識のマリア、「解析」持ちのレナ、手先が器用で面白がりのオーギュスト。領主邸やらかしトリオですね。