272.書き取りと騎士と至上の愛
窓の外は雨が降っていた。
こちらの世界は夏でも湿気がほとんど感じられず、日陰に入るとひんやりとして過ごしやすいけれど、流石に今日は少し重たい湿気が感じられた。
レナは、工房から急な呼び出しがあって席を外していた。私もついていこうとしたけれど、今は仕事の時間じゃないしすぐに戻るからと言われて置いて行かれてしまった。
レナはまだ小さな子供なのに賢くて機転が利く。雨が降っているから、マリアまで濡れることはないと思ってくれたのだろう。
そのまま文字の書き取りの練習を続け、同じテーブルの少し離れた席で、最近護衛騎士を交代してくれたオーギュストが薄い冊子をめくっている。
年上の男性であり騎士でもあるオーギュストだけれど、二人きりでも、不思議と彼からは他の騎士のような圧迫感はなかった。飄々としていて、言葉もどこか軽々としているからかもしれない。それでいて軽薄な感じはしないし、話をしているととても頭がいいのだろうと思わせることもある。
「マリア様、温かいお茶でも貰ってきましょうか?」
少し肌寒いなと思ったのとほとんど同時にそう聞かれてびっくりした。
こちらにはあまり興味がないような様子なのに、見るべきものはちゃんと見ている人だ。メルフィーナからは、アレクシスの腹心で、今は一時的に護衛騎士として借りている状態なのだと聞いていたけれど、多分他の騎士と比べても、かなり優秀な人なんだろう。
「喉は渇いていないから大丈夫。でもちょっと、集中力が切れてきたみたい」
「あー、ありますよね。俺も座学はあんまり得意な方ではなかったので、分かります。良ければ書き取りしたもの、見ましょうか?」
「うん、お願いします」
オーギュストは冊子を置いて、先ほどまで書き取りしていた紙の束を受け取る。一枚一枚めくっては丁寧に視線を走らせていた。
「基本の短文はもう大丈夫そうですね。長文になると、やはり信頼できる家庭教師を付けたほうがいいと思います。商人や騎士は短文までが基本の教養で、それ以上は宗教家や政治家の分野になるんですよね」
「それって写本とかするから?」
「それもありますし、小難しい決まりを作っては文官がその土地に行って読み上げたりするので、権威付けのために短文を避けるっていう理由もありますね。長々とした文章を書けるっていうのは、それだけの教養を兼ね備えた身分であるという証でもあるので」
オーギュストは物知りで、質問すれば色々なことを分かりやすく答えてくれる。これがセドリックだと、はいといいえ以外はほとんど返事のバリエーションがないので会話が続かず、どんどん気づまりになってしまうことが多かった。
「あの、オーギュスト。今更だけど、護衛を交替してくれてありがとう」
「ああ、いいんですよ。うちの従兄弟、とっつきにくいでしょう?」
「セドリックが嫌いってわけじゃないの。いい人だなって思うことも多いし」
それは本当だ。信頼できない人でないのは分かっている。苦手意識を抱くのも、本当は失礼なんだろう。
「あいつも苦い顔はしていましたけど、メルフィーナ様の護衛に戻れたこと自体は嬉しいと思いますよ。二年半ほど前なら、護衛の交替なんて絶対に受け入れなかったでしょうけど、メルフィーナ様には弱いんで」
「あの、やっぱり、セドリックって、メルフィーナのこと……」
言いかけて、もしかして聞いては不味い内容ではないかと思い至り、言葉は尻すぼみになった。
「ああ、セドリックがメルフィーナ様に恋慕しているんじゃないかってことですか?」
「ええと……」
メルフィーナはアレクシスの奥さんで、オーギュストはアレクシスの腹心で、セドリックはメルフィーナの元護衛騎士だと聞いている。
メルフィーナはマリアと二つしか変わらないし、話していると普通の女の子のようにしか思えないからつい忘れがちになってしまうけれど、こちらの世界ではれっきとした既婚者の成人女性だ。
領主邸の住人の前ではそれなりに毅然としていて、領主らしく采配を振るうこともある。
「まあ、確かに強くお慕いしているとは思いますけど、恋慕かと言われると微妙なところでしょうね」
「あんなにメルフィーナのことしか目に入ってないのに?」
オーギュストは少し困ったようにうーんと首をひねる。
「本人は自覚していないと思いますが、セドリックは多分、メルフィーナ様以外の女性に仕えること自体を忌避しているんでしょう。あいつ、マリア様に相当素っ気なかったでしょう?」
「うん。なんか王都では置物みたいだったし」
本音を言うと、オーギュストは噴き出して、それから失礼、と言ったもののしばらくこらえきれなさそうに肩を揺らしていた。
「あちらには基本的に身分制度はないと伺いましたが、マリア様は、至上の愛はご存じですか?」
知らない言葉なので、正直に首を横に振る。
「貴族の子女というのは、基本的に結婚相手をその父親が選びます。嫡男以外は財産の継承が行われないので比較的自由に相手を選べる場合もありますが、女性は特殊で幸運な状況を除いて、自分が望んだ相手と結婚というのは現実的ではありません。勿論結婚後に愛を育む夫婦もいますが、義務として結婚し、役割として後継ぎを産むというのは、ありふれたことです」
「うん、そういう物語はたくさん見てきたし、分かる気がする」
「そして、騎士は主に叙任され、剣と鎧と馬を与えられ、主のために命を懸けて尽くす立場です。騎士になるだけでもそれなりに大変なわけですが、主の家族を守る役割を与えられることは、騎士にとってはこの上ない栄誉です。よほど信用されていなければなれない立場ですので」
それもまた、分かる気がする。特に信用している人でなければ、家族の護衛は任せられないだろう。
「ここで、自分が選んだわけではない結婚をした女性と、特別に優秀で屈強な男が揃う訳で」
「待って。何かあの、よくない話をしようとしてる?」
マリアが愛好していたのは乙女ゲームや少女漫画といったジャンルで、ドロドロとした昼メロな話は苦手だ。
ましてメルフィーナとセドリックなんて、身近な人たちのそういう話は聞きたいとは思わない。
「いえ、あくまで精神的な愛情の話ですよ。主君の妻に手を出すなんて騎士の風上にも置けないような所業ですから。騎士は仕える女性に一身の愛と情熱を捧げ、命を賭しても女主人を守り、女主人もその騎士の忠誠に対して精神的な愛情を与える。これが至上の愛と呼ばれる関係です」
「分かるような、分からないような……」
「まあ、そういう考え方があるくらいでいいと思います。それで、セドリックはあの性格ですから、この至上の愛についても批判的でしてね。騎士が忠誠を誓うのは主君にであって、その奥方に懸想するのは不徳であると。ついでに言うとあいつにとって騎士とはその鍛えた技量をもって主君の信頼に報い、戦い、護ることこそが本懐という考えを持っていたので、最初の頃はメルフィーナ様の護衛騎士に任じられたことも、苦々しく思っているくらいでした」
マリアの知っているセドリックとは随分印象が違う。そう思っているのが顔に出ていたのだろう、オーギュストはくっくっと肩を揺らして笑いながら「あいつも変わったんですよ」と言う。
「仕える女性とその騎士の間に至上の愛と呼ばれるものが介在するというのは、こちらではまあまあ当たり前の考え方なわけです。で、セドリックは騎士としての忠誠をメルフィーナ様に捧げています。カーライル家当主として騎士を鍛え、先頭に立って戦うというならまだしも、まさか他の女性の護衛に付くことになるなんて、思ってもみなかったんでしょうね」
「つまり、その至上の愛を私に捧げられないから、塩対応していたってこと?」
「塩対応?」
「ええと、ものすごく素っ気ない態度のこと」
オーギュストはなるほど、と頷く。
「捧げられないからというより、あれはセドリックの素ですね。メルフィーナ様以外の全ての貴婦人に対して、セドリックは「ああ」ですから。至上の愛というのは、肉欲を介さない精神的な、だからこそ尊い感情で、いわゆる恋慕とは切り離して考えるものですので。まあ、勿論道を踏み外す者も往々にしている、危なっかしい関係とも言えますが」
「駄目じゃん」
思わず素で言うと、オーギュストはおかしそうに駄目ですねえと笑う。
「セドリックはそのあたりの自制が出来ない男ではないので、俺は心配していなかったんですけどね。マリア様を連れて戻ってくるとは、流石に予想外でしたが」
「……今は、心配ってこと?」
メルフィーナは、今のままではセドリックを王都に戻すことは出来ないと言っていた。オーギュストが言うような性格だったとしたら、マリアに願われたからといって、追っ手を振り払ってエンカー地方に来たこと自体、セドリックがどれほどメルフィーナの元に戻りたかったかを表している気もする。
行き過ぎて、その結果道を踏み外す。そう危惧されても、仕方がないのかもしれない。
「今でも信頼したいと思っていますよ。なにしろあいつは、俺が知る限り一番頭が固くて基本に忠実な騎士なので」
微妙な言い回しだなあと思っていると、それに、と続けられる。
「メルフィーナ様がその気にならない限りは大丈夫でしょう。逆にそうなってしまったら、俺にはもうどうしようもないことですね」
騎士と貴婦人の間には、マリアには分からない複雑な感情があるというのは、なんとなく理解出来た。
マリアの感覚では結婚した相手を大事にした方がいいと思うし、不倫は駄目なことだ。至上の愛とやらは恋慕や不倫とは違うらしいけれど、正直その感覚もよく分からない。
それに、メルフィーナを見る限り、メルフィーナの認識も自分と大して変わらないような気もする。
そう思うと、命を賭してもという忠誠と愛情を捧げているのに、貴婦人からの精神的な愛という報酬を与えられていないセドリックが、少し可哀想な気もしてきてしまう。
でも、メルフィーナがその気になったら……きっと今の居心地のいい領主邸やエンカー地方とは、また形が変わってしまうのだろう。
「……書き取りの続き、しようかな」
「はい、分からないことがあったらなんなりと聞いてください」
オーギュストはそう言って、再び冊子に手を伸ばした。
その横顔は、いつもの人を食ったような様子とは違っていて、静かで理知的なものに見える。
――じゃあ、オーギュストは?
――これまでそういう貴婦人はいなかったのかな。
それはなんとなく、聞けなかった。




