266. 告白と神の世界4
大まかに今後の方針が決まったところでお茶を淹れ直し、そこからは少し砕けた雰囲気で質疑応答に入ることになった。
「それにしても、十八年も生きているのに、結構こちらの世界で知らないことが色々とあるのよね。魂を女神が運んできて、男神が連れ帰るなんて初耳だったし。私、それなりに真面目に学んできた気でいたのだけれど」
「貴族の令嬢は、そもそも学ぶ範囲がそれほど多くありませんからね。それに、神学については女性は意図的に遠ざける習慣がありますし」
女性陣がきょとんとオーギュストを見る。それに答えたのは、彼の従兄弟だった。
「昔、意に沿わない結婚を厭い神に仕えると修道院に駆け込む貴族令嬢が後を絶たなかった時期があったようです。修道院は頼ってきた者を拒むことはありませんので、神殿と貴族の対立が深まってしまったそうで」
「神殿と修道院には、神様に仕えたいと願う者を拒んではならないって決まりがあるんですよね。まあ、神殿に上がる前でしたら修道女が還俗するのはそう難しくないので、令嬢の頭が冷えるまで預かるという一面もあったようですが、そのまま神殿に上がる令嬢もいないわけではなかったことと、親が決めた相手と結婚するくらいなら修道院に行くという意思表示自体、まあまあ危ういものと言いますか」
その場合少なくとも、婚約者候補は完全に面目が丸つぶれである。そうした諸々の騒ぎが過去に起きて、どの貴族家でも宗教に関しては娘に教育を施すのを避けるようになった流れがあったらしい。
「知識がないことで恥を掻かせないよう、紳士の社交術でも女性に神学の話題を出さないようにと教えられますので、自然と触れる機会がなくても仕方がないと思いますよ」
とはいえ、神殿や教会と貴族の奉仕活動は密接に結びついているし、王都にいた頃のメルフィーナも神殿が経営している孤児院へはよく足を運んでいた。望めば学ぶ機会はなかったわけではないだろう。
「マリア様はあちらの世界では市井の出だと伺っていましたが、成人以後も学ぶのは一般的なことなのでしょうか?」
「ええと、あっちでは、義務教育っていう制度があって、中学生……十五歳くらいまでは、全ての国民が学校に通う権利があるんです。その後は高等教育になるけど、こちらもほとんどの人は進学するんじゃないかなと」
「学校……前に、教会の司祭がそのようなことを言っていましたね」
近い年頃のマリーとは比較的話しやすいらしく、マリアの返事に、マリーは少し首を傾げた。
「あれも、なんだったのかしら。とっさに誤魔化してしまったし、探りを入れられたのは分かったけれど、私に探りを入れる必要があるのかも分からないし、少し不気味だったのよね」
「全ての国民の義務であれば、神の国の知識を持つ方は全員が知っている名称なのでしょうし、教会は神の国についてある程度知識を持っているのかもしれませんね。彼らにとっては、自らが仕える神のおわす場所ですし、僅かな情報でも収集し、記録している可能性もあるのではないでしょうか」
僅かな情報も取りこぼさず厳重に管理しているとしたら、二百五十年前の聖女の記録も神殿や教会には残っている可能性が高いだろう。
羊皮紙の記録は、適切に管理するならそれなりの耐久性があるし、駄目になりそうなら新たに写本しなおせばいい。そうして連綿と受け継いだ記録の中に「学校」があっても、別段不思議ではないだろう。
「私が会った神官も、自分の代で聖女が降臨することを随分喜んでいた。前回が二百五十年前で、神の国の情報が僅かでも得られる可能性があるなら、多少先走ってしまう可能性もあるかもしれないな」
「まあ、誤魔化せたなら、それで正解だと思いますよ。さすがに公爵夫人であるメルフィーナ様に何かしでかすとは思いませんが、トラブルに巻き込まれる可能性もあったでしょうし」
オーギュストの言葉に頷く。神が……少なくとも神に相当する何かがいると確信しているからこそ、メルフィーナはこの世界の神を好きにはなれない。神職に携わっている者に罪はないが、あまり深入りしたくもなかった。
「もし教え通り、私達も生まれる前に神の国にいたのだとしたら、たとえば私が頭をぶつけたとして、神の国で過ごしていた記憶が不意に戻ったりすることもあるのでしょうか?」
「やめてちょうだい。マリーはもう、一度頭を打っているでしょう。頭をぶつけるのって怖いのよ。二度とあんな風になっているマリーを見たくないわ」
暴走する馬車の中で、メルフィーナをしっかりと抱きしめて代わりに体をぶつけて気を失ったマリーのことを思い出すと、今でも肝が冷える。飛び出したレナを追うために、そのマリーを一人で馬車に残したことは、トラウマに近い記憶だ。
「そうですね。そもそも、頭を打ったくらいで神の国の記憶がよみがえるなら、騎士や兵士にもっとそういう人がいなければおかしいでしょうし。やはり、メルフィーナ様が特別なのだと思います」
「もしくは、あっちの世界でハートの国のマリアをプレイした……書物を読んだことがある人だけちょっと記憶の箍が緩いとか?」
「その書物は、広く多くの方に読まれているものなのですか? 例えば、その学校という場所で学ぶことが推奨されているような」
「いえ、どちらかというと狭い範囲で、娯楽性の高いものとして扱われていたわ。どんどん新作が出るからその書物を優先して選択するかどうかも分からないし。ある程度その狭い範囲の中では成功した部類に入るとは思うけれど」
ファンディスクも出たくらいなので、それなりの商業的成功はしただろう。だがそれでも、全体の人口からすれば微々たるもののはずだ。
「そもそも、あちらとこちらでは人口が違い過ぎると思うわ。全員が行ったり来たりは出来ないと思う」
「そんなに多いんですか?」
「私の記憶だと八十億人くらいいたはずだけれど……マリアはどう?」
「え、どうだろ。授業ではそれくらいだって習った気がする」
「多分、こちらは世界中の人口を合わせても五億はいないと思うわ。あくまであちらの世界の同じ時代の人口を参考にするならだけれど」
そこからさらにハートの国のマリアという乙女ゲームをプレイした人間と限定すれば、こちらにくる確率は随分低いものになるだろう。
どちらにしても、今の段階では確認しようもないことばかりだ。
「やっぱり、現状では手掛かりが少なすぎるわね。神殿と教会が記録しているというなら、せめて二百五十年前の記録を見てみたいけれど」
「まあ、無理でしょうね。教会も神殿も基本的には閉じた場所で、神に仕える者でなければ入れないようになっていますし、かといってそんな資料を外に持ち出すとも思えません」
強張った表情のマリアの背中を、とんとんと叩く。はっとしたように顔を上げるマリアに微笑んで、ひとつ頷いた。
「ゆっくり行きましょう。何も分からない時は、無闇に進まないほうがいいこともあるわ」
枢機卿のエルンストか、大神官のベロニカを攻略することが出来ればあるいはそれらの閲覧が可能かもしれない。マリアも同じことを考えていたのだろう。
十六の少女に、そんなことを選択させたくない。
「うん……ごめん、私のことなのに、役に立たなくて」
「何言ってるの。マリアが来てからエンカー地方は玉ねぎが二倍の大きさになっているのよ。しばらく玉ねぎを使った料理が出るから、どんどん食べてもらわないと困るくらい!」
「ふ、ふふっ。わかった、がんばる」
メルフィーナと二人きり以外の時は、常に体を強張らせていたマリアだったけれど、会話を重ねることで少しは気持ちがほぐれてきたようだ。
「同じ書物を手にしたということは、メルフィーナ様とマリア様は、神の世界で同じ時期に暮らしていらしたようですが、その認識で構わないんですよね」
「ええ、そうね」
「メルフィーナ様の方が、十八年早く神の国からこちらに来ているということは、なにか意味があることなんでしょうか」
「……オーギュストって、本当に、勘がいいのね。確かにその通りだわ。どうして思いつかなかったのかしら」
話せば話すほど、分からないことだらけだ。
――こんな時に、ユリウスがいてくれたら。
毎晩ユリウスの様子を見に行っているけれど、今のところ変化らしいものはないままだった。
まだ聖女としての身分を受け入れ切れていないマリアに、ユリウスの目覚めを願うのは酷だろう。
もどかしい。けれど、マリアにそう言ったように、焦って選択を間違えるわけにはいかないのだと自分にも言い聞かせる。
「今後については大まかに決まったことだし、これからは小まめに情報共有をすればいいだろう。私も出来る範囲で調べてみよう。――ところで私からも聞きたいことがあるのだが」
「あら、なにかしら」
好奇心の強いオーギュストが前に出ていたので、それまでほとんど口を開かなかったアレクシスが改まったように言う。
「……ダンテス領の領民を咎めなかったというのは、何の話か聞かせて欲しい」
気のせいか、窓を開け放した夏の団欒室の空気がひんやりとした。
アレクシスの隣に座っていたオーギュストが、手のひらで額を押さえているから、多分気のせいではないのだろう。




