262.豊作と妹心
マリアが再び寝込んだことを告げると、流石にアレクシスもセドリックも複雑そうな表情を浮かべていた。
「頭を使い過ぎて熱が出るというのは、初めて聞きました」
「そうね、滅多にあることではないと思うわ。少し前に、レナが橋の工事で計算をしていた時に頭を抱えていたけれど、それの酷い状態ね」
あの日、マリアが倒れた後少し離れた位置で護衛に付いてくれていたオーギュストに助けを求めたものの、マリアは再びベッドの住人になってしまった。
目が覚めたら頭が痛いと泣いていたけれど、受け答えはしっかりしていて、幸い後遺症の心配などもなさそうだった。
「私が安易に「鑑定」を教えてしまったのが迂闊だったわ」
メルフィーナ自身は羊皮紙程度の厚みの「層」しか作れない。攻略対象であり大魔法使いであるユリウスが拳ほどの大きさの「層」を操っているのを見たことはあるけれど、おそらくマリアの「層」は桁違いに大きかったのだろう。
「層」の触れたものを全て「鑑定」した結果、脳がその情報を処理しきれずオーバーフローを起こし、結果、意識を失ってしまった。
マリアの「層」の大きさは、メルフィーナには見えなかったけれど、相当に大きなものだった可能性が高い。
「マリアには、悪いことをしてしまったわね」
「「鑑定」は「才能」によるものですから、いくら聖女様とはいえ、そんなに簡単に発動すると予想するのは難しかったでしょう」
「それでも、もう少し慎重になるべきだったわ」
セドリックの言葉に軽く首を横に振り、圃場で収穫が始まった玉ねぎを天秤に載せ、もう片方の皿に分銅を載せて釣り合ったところでメモを取る。
計測が終わると、セドリックが麻の紐で器用に頂点の部分を結んでくれる。手持無沙汰そうなので頼んでみたけれど、流石手先が器用なだけあって、危なげなく結ばれていき、ある程度溜まったらテラスの天井から下げた竿に引っ掛けていく。
「トウモロコシもそうやって干すようだが、玉ねぎも干す意味があるのか?」
アレクシスは優雅に紅茶を傾けていて、オーギュストはその後ろに立ってやや苦笑を浮かべている。メモのまとめはマリーがしてくれているし、作業の手は足りているので、彼らは見学だ。
「干して表面を乾燥させると、保存性が高くなるの。今日干した玉ねぎは冬近くまで持つのだけど……やっぱり、去年よりかなり大きくなっているわね」
去年の重量の平均と比べても、実が大分肥大している。思わし気にため息をつくメルフィーナに、アレクシスは不思議そうな様子だった。
「君が品種改良しているものだし、豊作なのは悪いことではないだろう」
「これだけ一気に収穫量が増えたということは、品種改良や肥料の量の問題ではないと思うわ。むしろ実験圃場では、細かく記録を取っていたのが無駄になったわね」
「……聖女の来訪の結果だと、君は思うか?」
「断言はできないけれど、他に理由もないし、多分そうじゃないかしら」
この豊作は果たしてエンカー地方だけなのか、それとも北部を覆うほどか、あるいは大陸全土で「こう」なのかは、まだ分からない。
この世界では作物は、基本的に地産地消である。そのほとんどは物々交換で消費され、収穫された共同体の外に出ることは滅多にない。
そんな中で作物をひとつひとつ重量を計り、その平均値を出しているなど、やっているのはメルフィーナくらいのものだろう。
「豊作で、これがずっと続くなら良いことなのではないですか?」
「そうね……ちょっと規模が大きすぎて、どうなるのか未知数なところはあるけれど」
「何か懸念がおありなのですか?」
控えめに尋ねるセドリックに、メルフィーナはゆっくりと頷く。
「これは例えだけれど、農民は大麦を育てて、半分を領主に納め、残りの半分でパンを焼いたり、エールの醸造所に売ったりしてその代金で生活に必要なものを買うでしょう? でも、大麦が大陸中で大豊作になったら、どうなると思う?」
「大麦の値は大暴落だろう。農民はエールを売る術を失い、エール自体が今以上に安価な飲み物になり、今度は醸造所のエールが売れなくなる」
それに答えたのはアレクシスだった。メルフィーナも頷く。
「そうなったら醸造所で働いている職人にお給料が出せなくなるわ。職人がお給料で買っていた品物が売れなくなって、それを売っていた人たちの生活も苦しくなる」
「大麦が大豊作だというのに、景気が悪くなるということですか? しかし、大麦自体が安価なのですから、食うに困ることはなさそうですが」
「経済というのは、食べるものがあって飢えなければそれでいいというものではないの。その土地で十分に食べるものに困らなくなれば、交易も滞るようになるでしょうね。もし人がいくらでも食料が取れて、飢えることのない世界で生きていたとしたら、おそらく文明も技術も発展はしないと思うわ」
大麦を例に出したけれど、小麦も、その他の農作物も大豊作が続くとなれば、確かに飢える者はいなくなるだろう。文明の発展が止まっても、それはそれで幸福な世界なのかもしれない。
大量の食糧が安定供給され、聖女の加護で健康状態も底上げされているとなれば、次に起こるのは人口爆発であることは容易に想像できる。
だが聖女は不死の存在というわけではない。
人口が膨らみ切った状態で聖女がこの世を去れば、ろくに技術が発展しないまま豊作続きだった楽園から、一気に地獄絵図に塗り替えられるだろう。
いや、聖女が存命のうちに膨らんだ人口を支えるため、豊かな土地を巡って争いが起きる可能性もある。
――案外、この世界は何度もそれを繰り返しているのかもしれない。
それは恐ろしい想像だし、もしそうだとしたら、事態はメルフィーナの手に余る。
「まあ、今の時点でははっきりとしたことは分からないから、心配しても仕方がないわね。まだまだ飢饉の影響から脱出できたわけではないし、今はどこも豊作であることを祈りましょう」
収穫したうちからランダムに抽出した玉ねぎの半分ほどの計量が終わる。今のところ、おおむね平均が去年の倍というところだった。
マリアが降臨してたった二か月ほどで、この状態だ。現在エンカー地方に滞在しているのが影響している可能性もあるけれど、それにしてもあまりにも、影響が大きすぎる。
急激な変化は、必ず歪みを生むものだ。できることなら、マリアがある程度自分の能力を抑えることが出来るようになるのが望ましい。
「……そろそろ、氷を換えてあげたほうがいいわね」
ともあれ、それはマリアが回復してから考えていけばいいことだろう。そのためにも高熱が続いている頭を冷やさなければと立ち上がろうとすると、隣に座っていたマリーが軽く手を挙げる。
「メルフィーナ様、よろしければ私が行きます」
「マリー?」
「領主邸に戻り、またここに来るのはお手間でしょうから。氷を替えて、昼食はここに運んでもらうようエドに伝えてきます」
すっかりたまり場のようになっている菜園のテラスである。最近はここで昼食を摂ることも増えた。
「そうね、玉ねぎの計量は今日中にやってしまいたいし、お願いしようかしら」
「お任せください」
マリーはしっかりと言うと、アレクシスに大きな氷の塊をいくつか出してもらい、レンガの小道を進んで菜園を出て行った。
* * *
氷の入った桶に水を入れて、二階に上がる。メルフィーナの寝室のカギを持っているのは、領主邸の中でもメルフィーナ本人と、元侍女だったマリーだけだ。
鍵を開けて中に入る。相変わらず貴族の奥方の寝室としては殺風景で、調度類も少なかった。
商業的成功を収めてからも、メルフィーナは贅沢に走ることも華美に溺れることもなく、以前と変わらない暮らしを営んでいる。まるで、贅沢をするのが好きではないみたいだった。
部屋の中央に設えられたベッドに近づくと、少女は眠っているようだった。額も頬も真っ赤で、メルフィーナが氷水を絞って乗せたタオルは枕の傍に落ちてしまっている。
それを拾って、新しい氷水に浸し、少女の額に手を当てると、少し驚くほど熱かった。
これでは、とても苦しいだろう。すぐにタオルを絞ってやろうと思うと、少女は人の気配に眠りを妨げられたように、ううん、と低くうめき声を漏らす。
「ママ……? ママ……」
つうっ、と少女の頬に、涙の道が伝う。
これまでも眠っている間に泣いていたのだろう、よく見れば熱で赤らんでいるだけではなく、目もとが少し腫れていた。
「ママ、帰りたいよ、ママ……」
助けて。唇がそう震えた。
――いきなり違う環境に連れてこられて。
――右も左も分からなくて、怖くて、反抗したり、自分の殻に閉じこもったり。
――追い詰められて、疲れて、ずっと気を張り続けていて。
――家族のもとに、帰りたくて。
「大丈夫ですよ」
冷たい氷水で布を絞り、赤く火照った頬に伝う涙をぬぐう。気持ちいいのだろう、少女は少しだけ、ほっとしたように表情を緩めた。
この少女は、聖女なのだという。
けれど、マリーの目には、ただの不安に押しつぶされそうな少女にしか見えなかった。
「心配しないで、きっとみんな、あなたを助けます」
かつて、マリーも、公爵家に引き取られ、どう生きて行けばいいのか分からない子供だった。自分と彼女は全く別の存在だと分かっているけれど、抱える寂しさは、少しは似ているのではないだろうか。
「ここには、メルフィーナ様がいます。大丈夫、何も心配いりませんよ」
そんな子供の頃、木に登って周りの大人を困らせていた自分が欲しかったのは、きっとこんな言葉だったと思う。
* * *
「マリー様、大丈夫ですかね?」
踏み台に乗って、セドリックの結んだ玉ねぎを竿に引っ掛けてくれているオーギュストが、少し案じるように呟いた。
「大丈夫って、なにが?」
「最近メルフィーナ様、聖女様に付きっ切りじゃないですか? マリー様、やきもちとか焼いたりしませんかね?」
「馬鹿なことを」
即座に言ったのはアレクシスだった。彼の従兄弟であるセドリックも呆れたような目を向けていて、メルフィーナはくすくすと肩を揺らして笑う。
「オーギュストったら、マリーの幼馴染なのに、時々マリーのこと、全然分かっていないのね」
「……俺、そんなにおかしなことを言いましたかね?」
手に付いた土埃を払いながら微妙な表情をする騎士に、メルフィーナは羽根ペンを動かしながら答える。
オーギュストは目端が利くし、勘も鋭い。人を煙に巻くのも上手で、如才のない人だ。
その分、人の心の内側を推測しすぎて、気を回し過ぎることもあるのだろう。
「マリーはとっても優しい子なのよ。悲しい思いをしている女の子を気遣うことはあっても、嫌な気持ちを抱くような、そんなことはしないわ」
オーギュストは虚を衝かれたような顔をしているけれど、それはメルフィーナには、今更言葉にする必要も感じないくらい、とても当たり前のことだった。