254.悪役令嬢と聖女の邂逅3
「あ、あの、メルフィーナ」
「? どうしたの?」
ともかくセドリックのことは、アレクシスにも相談してみようと思っていると、隣の少女がもじもじと膝をすり合わせている。
どうしたのだろうと首を傾げると、ぼそぼそと、小さな声で聞かれた。
「……あの、ここも、やっぱりトイレって、おまるなのかな?」
「廊下に出て左の突き当りにお手洗いがあるわ。多分外にセドリックがいると思うのよね」
メルフィーナの後ろにも常に護衛騎士がついているけれど、流石にトイレと入浴の時は遠慮してもらっている。領主邸に出入りする人間を制限し、内部の安全が確保されているからこそできる方法だ。
――侍女や侍従がいる部屋で済ませるなんて、こっちじゃ割と普通なのよね。
多分彼女も、その洗礼をすでに受けているのだろうけれど、前世の感覚からすればとんでもない習慣である。
一か月半、彼女がどれほどのカルチャーショックを受け、その上でその習慣に従うしかなかった心情を想うと気の毒で、あえて明るい声で立ち上がる。
「一緒に行きましょうか。夕飯もそろそろだろうし。みんなと食べるのに抵抗はない?」
「ええと、メルフィーナと二人なら……」
「じゃあ、夕飯は私の部屋に運んでもらいましょう。もう少しお喋りしたいんだけど、付き合ってもらってもいいかしら?」
「……! うん、私もまだ話したい!」
セレーネだって、領主邸に訪れてから皆と食事をするまでにそれなりの時間が必要だった。
セドリックは元々一年以上ここで過ごしていたし、いきなり出来上がっている輪に入れというのも乱暴な話だろう。
ぱっ、と表情を明るくするのにメルフィーナも笑って、二人で談話室を出ると、予想通りセドリックが後ろに腕を組んで立っていた。
職務に忠実な彼らしい生真面目さに、つい笑ってしまう。
「メルフィーナ様、お話は終わりましたか?」
「まだよ。今は、ちょっと用を済ませに出てきただけ。ずっと立っているのも大変でしょう? 皆とも久しぶりだし、食堂にいてもいいのよ?」
「いえ、私はここにいる方が、気が楽なので」
「じゃあ、そのままちょっとだけ、ここにいてちょうだい」
そう言うと、二人の「用」について察したのだろう、目を閉じると小さく頷いてくれる。同じ階の寝室とは逆の方に案内すると、少女はしみじみと感心したように言った。
「すごい、あのセドリックが、人の言う事を聞いてる」
「ここまであなたを連れてきてくれたのも、セドリックでしょう?」
「それは、多分セドリックなりに正しいと思ったからじゃないかな。普段は一人にしてよって枕を投げても、これが私の仕事ですので、って流されたし」
「セドリックらしいわ」
領主邸に来た最初の日を思い出し、苦笑する。
セドリックも随分と雰囲気が柔らかくなったけれど、真面目で堅物なところは相変わらずなのだろう。
「ここがトイレ。お先にどうぞ」
「え、悪いよ。ここはメルフィーナの家だし、私は後でいいから」
「いいのいいの。使ったら是非、感想を聞かせてちょうだい」
笑ってマリアをトイレに押し込み、鍵が掛かった音を確認して、すぐに踵を返してセドリックの元に戻る。
「セドリック、エドに、夕飯は私の寝室に運ぶよう伝えてきてもらえる? 給仕は要らないから、お皿の数は少なめで」
「寝室にですか?」
セドリックがいた頃も、それ以降も、メルフィーナは領主邸の住人たちと食事をすることにこだわり、寝室に食事を運ばせるようなことはしなかった。
よほど驚いたらしいセドリックに、小さな声で告げる。
「これは内緒なのだけれど、女の子同士がうんと仲良くなるには、ベッドの上が一番なのよ」
「……、……は」
セドリックは生真面目な表情で頷いた後、じわじわと顔を赤くして、汗をかいている。
「どうしたの?」
「――いえ、分かりました、エドに、伝えてきます」
「お願いね。今夜は、彼女は私の寝室で眠ることになると思うわ。お客様用の部屋は、セレーネが出たばかりでまだ準備が出来ていないから」
まだ緊張状態が続いているようだけれど、楽な服に着替えてベッドでごろごろとガールズトークでもすれば、もう少し打ち解けることが出来るだろう。
「――はい、その、他に何か用意するものなどは」
「エールではなく、冷やしたお茶を用意してもらって。アレクシスがいて助かったわ」
セドリックは神妙に頷くと、すぐに伝えてまいりますと告げて足早に階下に下りていった。
なんだか少し様子がおかしい気がしたけれど、トイレから出てきたマリアが「メルフィーナ! 紙! 紙がある!」とはしゃいだ声を上げるので、深く追及する暇は与えられなかった。
* * *
夕食を済ませ、メルフィーナの替えの室内着に着替えると、少女はすっかりリラックスした様子だった。綿の入った枕を抱いて、一人で使うには大きなメルフィーナのベッドに転がっている。
メルフィーナも日中着ているワンピースから肌触りのいい綿のネグリジェに着替え、のんびりと脚を伸ばしていた。
エンカー地方はこの季節でも夜中や明け方は冷えることがある。たっぷりと木綿を使った長袖のワンピースタイプのネグリジェは温かいし、前世の感覚ならそのままふらりと出かけても問題のないデザインである。制服を着ていたのでこちらの服には抵抗があるのかと心配していたけれど、幸い、着替えるのに抵抗はなさそうだった。
「制服を着ていたのは、ドレスが嫌だったから?」
少女はごろん、と寝返りを打つと、ううん、と首を横に振る。
「服の替えが欲しいってお願いしたら、ドレスが届いたんだけど、着心地もあんまりよくなくて。後から聞いたら一枚が……こういう言い方はあんまりしたくないけど、平民、の年収の十倍とかするらしくて。それが二十着だよ。怖くて着れないよ」
「ああ、多分、聖女用に管財人を兼ねた侍従がいて、予算が付いているんだと思うわ。その場合、予算が足りなければ管理不足っていわれて、余らせたら今度は能力不足って言われたりするのよね」
「ええ……そういえば、偉そうなおじさんが予算がどうのこうのって言ってた気がする」
憂鬱な記憶らしく、細いため息を吐いてころころとベッドの上で転がる様子は、どう見てもごく普通の、日本人の少女だった。
「うち、本当にふつーの家だし、スマホの最新機種が欲しいけどまだ今のが使えるってママが許してくれないな~、バイトは校則で禁止されてるしな~なんて思ってるくらいがちょうどよくて、そんな大人の年収の何年分みたいなのをポンと渡されても、ちょっと引くっていうか」
そういう理由なら、肌ざわりなどは慣れてもらうより他ないけれど、比較的安価な服ならば抵抗もないだろう。
「嫌じゃなければ、私の服をしばらく着て欲しいの。私はいいけど、他の人は結構目のやり場に困ると思うのよ」
不思議そうな表情に、本当に彼女は、この世界に来てからまともに対話をする相手がいなかったのだと思い知る。
「この世界って、膝を出すの、相当珍しいの。というか、もうほとんど裸で歩いているみたいな感覚に近いと思うわ」
「えっ……でも、結構胸元とか開けてる人いるよね!? かなり際どい人もまあまあ見かけたし」
「あっちの世界の歴史でもそうだけど、首とか胸ってあんまり性的なものとして見られていないのよね。でも脚は、かなり際どい扱いなのよ」
全然納得がいかないという表情だ。実際メルフィーナも前世の記憶を取り戻してからは極端すぎるほど胸の開いた服を仕立てることはしていないので、気持ちは理解できる。
「こちらの服に抵抗があるならタイツを用意するわ。太ももからふくらはぎまで露出するのは避けた方がいいと思う」
「んー、メルフィーナがそれがいいって言うなら、そうするよ。高価すぎるドレスを着るのが怖いっていうだけで、別に変に浮きたいわけじゃないし」
「よかった。分からないことがあったら何でも聞いてね」
そう告げると、少女は枕に顔をうずめて、ばたばたと足をばたつかせる。
「どうしたの?」
「なにか、メルフィーナがお姉ちゃんっぽいなあって思って。私、弟しかいないからお姉ちゃんって憧れてたんだよね」
照れくさそうに笑う少女に、メルフィーナも笑う。
姉様と呼んでくれた少年が立ち去ったと思ったら、今度は妹が新しく舞い込んできたらしい。
――それが聖女マリアと悪役令嬢メルフィーナだなんて、本当、何が起こるか分からないわ。
「私にも弟が二人いるけど、妹も二人目ね」
「あ、メルフィーナって兄弟いるんだ?」
無邪気に聞いてくる少女に笑って、そこから少し、実弟と、今日立ち去ってしまったセレーネと、そして大切な妹の話をすることになった。
騎士に枕を投げつけるのも大変な度胸だと思いますが、北部の支配者を製氷機扱いするメルフィーナもだいぶ肝が据わっています。