251.別れ、再会、出会い
ルクセン王国の一団を見送った後、数日の緊張感が緩んだのだろう、どっと疲れが出た。
「甘い物がしみじみと美味しいわ……」
団欒室のソファに座り、エドが作ってくれたマドレーヌをつまみ、紅茶をゆっくりと傾ける。
ルーファスの淹れてくれた紅茶は、普段と同じ茶葉を使っているとは思えないほど美味しい。隣に座るマリーもカップを傾けて、ほう、とため息を漏らす。
「やはり、ルーファス様には敵いませんね。本当に美味しいです」
「これはもう、慣れですね。執事になってからというもの、毎日のように淹れ続けて三十年ほどが過ぎましたので」
「マリーが淹れてくれるお茶も美味しいわよ。優しい味がするもの」
「さすがにルーファス様のお茶の前では自惚れるのは難しいですが、ありがとうございます、メルフィーナ様」
マリーと飲むお茶はほのぼのとしていて、気持ちが優しくほぐれてくる。糖分が体に回って、ようやく一息つくことが出来た。
もうしばらくは、静かに過ごせればいいと、心から思う。
「奥様、私は明日、ソアラソンヌに発とうと思います」
「ええ、名残惜しいけれど、いつまでもルーファスを借りることは出来ないわ。今回は手を貸してくれて、本当にありがとう」
「いえ、微力ながらお手伝いが出来たならば光栄でございます」
エンカー地方とルクセン王国の断交を決意したメルフィーナに、オーギュストは後顧の憂いを考えて難色を示したけれど、ルーファスはメルフィーナの気持ちを優先してくれた。
その上で親交深いセレーネとならばつながりを持つ可能性を残すよう、文書の作成にも随分アドバイスをもらった。
アレクシスが不在の間は公爵家の実務を一手に引き受けているだけのことはあり、つけ添える書類の詳細な形式から言い回し、羊皮紙の質まで細やかに行き届いていた。
これがアレクシスの最も信頼する家令かと、しみじみと感心したものだ。
「つきましては、奥様。もしよろしければですが、ロイドさんを二年ほど、私にお預けいただくことをご一考いただけないでしょうか」
「ロイドを?」
急に出た名前に瞬きすると、ルーファスははい、と静かに頷く。
「彼は素晴らしい「才能」を持っており、かつ、まだとても若い青年です。今のうちに第一線で鍛えれば、いずれ奥様を支える素晴らしい家令になると愚考いたします」
ルーファスがエンカー地方に来てたった四日だが、慣れない領主邸をあっという間に掌握し、準備の手配から非常にやりにくかっただろう使節団の饗応までつつがなく対応してくれた。
その仕事ぶりは決して目立つものではないけれど、彼がいてくれなかった時とは明らかに、メルフィーナの感じるストレスの重さや心持ちも違っていただろう。
「いいんじゃないでしょうか、俺は賛成です。ロイドに「文武」の「才能」があると分かった時は、他家に執事候補を預けるのは難しいということになりましたが、今なら大丈夫じゃないですかね?」
オーギュストにそう言われて、唇に指を当てて、考える。
確かに、あの頃と比べれば、アレクシスとの関係は随分と改善した。彼のことは信用しているし、そういう意味では、何の問題もない。
けれど、ロイドはすでに領主邸の戦力の一人である。現在は執事としてより文官の仕事をメインに行っているけれど、文官とメルフィーナを結ぶ大切なパイプ役であり、いなくなられる穴は大きい。
けれど、ロイドにとって大きな成長の機会になるのは間違いないだろう。
「――彼の希望もあるでしょうし、本人にも聞いてみましょうか」
「では、呼んできます」
マリーがさっと立ち上がると、使節団が出て行った部屋のチェックをするため領主邸にいたロイドを連れて、すぐに戻ってくる。
先ほどの話を提案としてすると、ロイドはぱっと表情を明るくした後、背筋を伸ばして「是非お願いします!」と頭を下げた。
「ルーファス様は足さばきひとつも隙が無くて、立ち振る舞いは、見ているだけでもすごく勉強になります。そのたび、僕ではメルフィーナ様のお役に十分立てていないと感じるばかりで、焦っていました。どんなに厳しくても、学ばせていただきたいです!」
ここまで意欲的に言われるとは想像していなかったので、メルフィーナも多少、たじろぐ。
ロイドは元々農民の一家出身の若者で、エンカー地方の兵士として志願してくれた青年だった。
「文武」の「才能」があると分かってからは城館内で執事見習いとして、今でも十分すぎるほど働いてくれている。
「エンカー地方を離れることになるのよ。それは大丈夫?」
「ええと、そうですね……。今している仕事は引継ぎが必要ですが、すぐに代わりは見つからないと思います」
城館内には多くの文官や職人が働いているけれど、メルフィーナの生活の場でもある領主邸に出入りすることが出来るのは、その中でも一握りの人間だけだ。文官は執政官が同行した者か、ロイドが取次ぎをした者に限る。
――これまではセレーネがいたから、特に出入りする人間の制限を行っていたけれど、それも少しは緩和したほうがいいのかしら。
城館は堀で囲まれていて、多くの文官や使用人、職人たちはその堀の内側の宿舎に部屋を持っている。元々不審者のチェックは厳しくしていたけれど、これまでは隣国の王太子という最上位の貴人の存在があったので、領主邸の出入りはとくに厳しかった。
メルフィーナだけならば、もう少し緩めても構わないだろう。
「それでしたら、ひとまず政務が減る冬の間にソアラソンヌに来ていただくというのはいかがですかな。閣下が留守にすることが多く、私の仕事は尽きないので、有能な補佐がいてくれるととても助かるのですが」
ルーファスは好々爺として笑みを浮かべる。
「閣下は……いえ、先代様も、冬の間は常に厳しい状況に置かれておりましたが、去年からは少し息を吐くことが出来るようになったようです。出来ましたら、今年の冬も去年のように、お休みいただきたいと思っておりまして」
「ああ、閣下、こちらでサウナに入ってエールを飲んでいるときは信じられないくらい緊張を解いていますからね。あの姿を見たらルーファス様も驚くと思いますよ」
「こちらから公爵家に戻られた閣下を見れば、実際に見なくともそうであろうと思います。ウィリアム様も随分落ち着かれて――私の身でこうお伝えするのは不敬にあたりましょうが、奥様には感謝してもしきれません」
しっかりと頭を下げたルーファスに、焦ってしまう。
「いやだ、やめてちょうだい。私は何もしていないわ。アレクシスだって、滞在費もエール代もきっちり払っているわよ。マリー、ねえ、マリーまでそんな目をするのはやめて」
「申し訳ありません、メルフィーナ様」
形ばかり謝って微笑むマリーに居心地が悪くなって、冷めた紅茶を傾けると、不意に、開け放したままの団欒室のドアの向こうからざわめきが伝わってくる。
遠く小さく聞こえるのは、馬のいななきと蹄が地を蹴る音だ。馬車の車輪の音は聞こえないので、騎馬だろう。
「早馬のようですね」
ルーファスにはもっとはっきりと聞き取れるらしい。先ほどまでの優し気な表情は、警戒心を滲ませたものに変わっていた。
「奥様、私が様子を見てまいります。オーギュスト卿、奥様とマリー様をよろしくお願いします」
そう告げると、ロイドさんは私と、と告げて、団欒室から出て行ってしまう。急いでいる様子ではないのにあまりに素早く姿を消してしまって、面食らうほどだ。
「街道も封鎖されているし、早馬なんか来るわけないから、ルクセンの一団が戻ってきたのかしら」
「メルフィーナ様にあそこまで言われて、のこのこ戻ってくるとは思えませんけどねえ……それこそ一行が熊にでも襲われたのでない限り」
オーギュストの恐ろしい言葉に思わず立ち上がり、団欒室を出る。団欒室の窓は城門とは反対側なので、廊下に出て前庭を見下ろすと、ちょうど前庭でルーファスとロイドが対応しているのを俯瞰することができた。
「あれは、公爵家の騎士服ですね。……何があったんでしょうか」
「公爵家の騎士なら安全でしょうし、私たちも行きましょう。ここで報告を待つより早いわ」
ソアラソンヌからの使いならば、外交官のために封鎖した街道を突破してきたことになる。用件が何にしても、何か大きな騒ぎが起きたのだろう。
急いで階下に下りると、初対面の騎士がメルフィーナに気づいて礼を執る。ルーファスとロイドも並んで頭を下げると、すぐに報告に入ってくれた。
「閣下からの早馬です。もうすぐに、こちらに到着するとのことです」
「アレクシスが? すぐに?」
「急ぎソアラソンヌを発ったらしく、先触れの先行が間に合わなかったそうで……」
「ルーファス様、ソアラソンヌに何かあったのでしょうか?」
「まさか、お兄様になにかが……!」
「お二人とも、落ち着いてください。どうやら高貴な方をお連れになるようですが、詳しいことは先触れの者も知らされていないようでした。おそらく内密のことなのではないかと思われます」
早馬は、これからアレクシスが誰かと共にここに来ることだけを伝えたらしい。ルーファスが言葉を切って、正門に目を向ける。
それにつられるように、メルフィーナもそちらを見ると、栗毛の馬がこちらに向かって走ってくるところだった。
騎乗している騎士の、土色の髪が陽光を弾いてきらりと光る。オルドランド家の騎士服とは違う、青地の騎士服に赤を差し色にした、フランチェスカ王国の騎士服に身を包んだ騎士だった。
「あれは……」
けれど、その騎士が誰なのか、見間違うはずもない。
メルフィーナは息を呑み、それから、衝動的に走り出していた。
騎士もすぐにこちらに気づいて馬から飛び降りると、傍にいたラッドに手綱を渡し、メルフィーナの前に立ち、正式な騎士の礼を執った。
「セドリック!」
それは去年の初夏、まだ雨の多い時期にエンカー地方を去った、メルフィーナの大切な騎士だった。
「メルフィーナ様! お久しぶりで――いえ、ただいま、帰りました」
「……おかえりなさい、セドリック。……ふふ、その騎士服、新鮮ね」
「正直、まだ着慣れません」
メルフィーナに指摘され、セドリックは照れくさそうに笑う。
一年前より少し髪が短くなったけれど、変わったのは騎士服と、それだけだ。
メルフィーナを見る穏やかな笑顔も、優しく細められる目も、何も変わっていない。
懐かしさと再会の喜びで、胸がいっぱいになる。
「戻ってくるなら、もっと早く連絡をくれれば準備しておいたのに。でも、どうしてあなたがここに?」
彼は今、王宮騎士団の騎士団長のはずだし、身分も伯爵位のはずだ。
階級は伯爵家当主だが、騎士団長となれば正式なフランチェスカ王室の使者にもなれる立場である。
内密の貴人というのは、彼の事なのだろうか。不思議に思っているうちに、車輪の音が近づいてくる。
こちらは公爵家の家紋の入った紺色の箱馬車で、アレクシスが時々乗って来るものだ。
「そう、アレクシスも来るのだと聞いたわ。さっきルクセン王国の外交使節団を見送ったばかりなのよ。一体、何があったの」
あのルクセン王国の態度の悪さから、フランチェスカ王家ともなにかしら悶着が起きたのかと不安になっているメルフィーナを他所に、馬車が止まるとすぐにドアが開き、アレクシスが身軽に飛び降りる。
それから、アレクシスが差し出したエスコートの手を無視して、もう一人、馬車から飛び下りた者がいた。
「……あれは」
それは、まだ若い女性だった。
この世界では初めて見る、膝上のプリーツスカート、黒のソックスにローファーの靴。
ややオーバーサイズの白いシャツに、いくつも小さなぬいぐるみが提がる、ナイロンのリュックを背負っている。
胸元まで伸ばした彼女の黒髪が、風に揺れる。
そこに立っているのはごく普通の女子高生だったけれど、エンカー地方で見るには、あまりに意外な姿だった。
十八年暮らした世界の空間を、そこだけ切り抜いた穴から前世を眺めているようで、混乱する。
「メルフィーナ様、あの方は」
「――マリア?」
メルフィーナが呆然と呟くと、少女はまっすぐに、こちらに駆けよって来る。
そうして、少し離れたところで立ち止まり、緊張と不安に満ちた目で、メルフィーナをじっと凝視した。
まるで恐れるように。
まるで、期待するように。
「は、初めまして、あの、メルフィーナ、様?」
「……ええ」
「あの、あの! メルフィーナ様! ――日本って、わかりますか!?」
「――……」
その問いかけに呆然として、すぐに返事をすることはできなかった。
セレーネとの別れから、ほんの二時間ほどしか過ぎていないというのに、その別れを惜しむ間もなく、メルフィーナの元に次の騒動が舞い込んできたようだった。
セドリックは作中時間で一年ぶりです。




