249.非礼と公爵夫人の怒り
朝目を覚ますと、窓の向こうは雨の降る音が響いていた。
いつものように身支度を整え、食堂に向かうため寝室のドアを開くと、すでにマリーとオーギュストが並んで待っていてくれていた。
「メルフィーナ様、本日の予定ですが、ルクセン王国の秘書官から、全て辞退するとのことです」
言いにくいことはまず最初に言ってしまおうと思ったのだろう。マリーは困惑と憤慨を混ぜ合わせたように、珍しく分かりやすく表情に出していた。
「この雨では視察の足回りも悪いし、ちょうどいいわ。朝食はどうなっているかしら」
「セルレイネ殿下とルクセン王国の外交官のみで、というご希望です」
「それがご希望なら、そうしましょう。一日空いたから、その間に書類仕事を片付けてしまいましょうか」
外交官を迎える間、移動中の街道の封鎖以外にも行うことは数多い。
食事のもてなし、領地の案内、名産品の紹介や治世において力を入れている部分についての説明。会談、歓談、観光など、滞在中に行うことは多岐に亘る。
本来は互いの補佐官同士が希望を出し合ってスケジュールを決めていくものだが、今回は文章でそれらをやりとりする時間がなかったので、ペルトネン伯爵の随員の秘書官にこちらが設定した大まかなスケジュールを渡したけれど、辞退という名の拒否が返ってきたようだ。
外交官の訪れに不安が隠せない様子だったセレーネも、エンカー地方の色々なものを自国の人間に見てもらいたいとスケジュールの設定に随分協力してくれた。
それらが無駄になって、きっと、辛い思いをしているだろう。
「……正式に、ルクセン王国に抗議するべきではありませんか」
マリーは、押し殺せなかったというように、低く、ゆっくりと言った。
「こんなやりようは、公爵夫人に対してあまりに非礼が過ぎます。メルフィーナ様は怒ってしかるべきです」
「そうね……」
マリーの言うこともよく分かる。到底友好的とは言い難い態度は、今後の関係を見据えてのこととは思えない。
「それにしても、俺は少し不思議ですね。ルクセン王国は確かに武勇を誉れとするお国柄ですし、外交に関してはあまり得意なイメージもありませんが、それでも外交儀礼を学んだはずの外交官が、あんな態度を取るのは不自然に思えます。まるでわざとメルフィーナ様を……いや、フランチェスカ王国側をですかね、怒らせようとしているような」
オーギュストは怒りよりも、その意図が読み切れないと言うように、首を傾げている。
ペルトネン伯爵のあの言い方からして、ルクセン王国は明らかに聖女の降臨について承知していて、かつそのために動いているのだろう。
あれだけ派手に聖女降臨の印がついていたし、北部に過去のオルドランド公爵の手記が残っていたのと同じように、ルクセン王国にはルクセン王国の、過去の聖女の資料が残っている可能性もある。
――「隣国の王太子」と聖女が結ばれた場合、フランチェスカ王国としては聖女の略奪に他ならないのかもしれないわ。
聖女の力は、新たに国を興すほどに強い。
豊作をもたらし、四つ星の魔物を退け、神殿や教会の権威が落ちるほどの救済をこの世界にもたらす。
今回の飢饉に限らず、この世界は命の危険が常に付きまとっている。疫病は恐ろしいし、不作は農民にとって命を左右する問題だ。ちょっとの傷が膿んで死ぬことなど珍しくもなく、赤ん坊も半数は育たずこの世を去ってしまう。
辛い現実を優しく慰撫し、解決する聖女の存在は、貴族であるメルフィーナが想像するよりきっと、民衆にとってはとても大きなものなのだろう。
つまりすでに、フランチェスカ王国とルクセン王国は聖女という奇跡を奪い合う潜在的な敵に近い存在なのだ。
――少なくともルクセン側はそう思っていて、聖女がいるだろう王都ではなく北の端にセレーネがいることは、到底看過できない問題ということなのでしょうね。
ゲームでは攻略する対象であったキャラクターたちだが、現実には聖女の攻略こそが彼らに豊かな未来が来るかどうかを決める。
戦争が教会と神殿によって抑制されているこの世界では、戦争を起こして聖女を略奪することはほとんど不可能である以上、どこの国であれ、聖女を妻として迎えることに成功すれば、自国の発展だけでなく諸外国との関係も圧倒的に有利な立場になるだろう。
気の滅入る話ではあるけれど、この世界に生きる人々にとっては切実な願いだ。
食堂に下りると、領主邸のメンバーはセレーネたちを除いて全員が揃っていた。
「みんな、おはよう」
「おはようございます、メルフィーナ様」
「おはようメル様」
いつものように挨拶が返ってくるけれど、皆どことなく、沈んだ様子で雰囲気が重い。
エドの作る朝食は今日も素晴らしく美味しかったけれど、雑談も少な目だった。
「あの、メルフィーナ様に報告したいことがありまして」
そう言い出したのは、ラッドだった。どうしたのかと尋ね返すと、できれば食事が終わった後でと濁されてしまう。
「ごちそうさま! メルフィーナ様、俺、今日はメルト村に戻っていてもいいかな。あいつらがいる間は出入りが厳しく制限されてるって言ってたから安全だろうし、レナを連れてサラの様子を見に行きたいんだ」
「勿論構わないけれど……」
セレーネと親しく話をするのは難しいかもしれないけれど、このタイミングで領主邸を離れてもいいのかと戸惑っていると、ロドはテーブルの上でぎゅっと拳を握った。
「あいつらに殴り掛かったら、メルフィーナ様にもセレーネ様にも迷惑がかかると思って」
「レナも! 文句言いたくてわーってなるから!」
ロドとレナが使節団と関わる機会はなかったはずだけれど、この様子だとどこかで何かを言われたか、もしくは見てしまったか、どちらかなのだろう。
「いいわ、念のために護衛の兵士をつけるけれど、二人にはいつも沢山働いて貰っているから、しばらく実家でゆっくりしていらっしゃい」
「ありがとうメルフィーナ様。……メルフィーナ様は逃げられないのに、ごめんな」
「こういうのも含めて領主のお仕事よ」
二人は朝食を終えるとすぐに雨よけ用のコートを羽織り、メルト村への定期馬車に乗り込んでいった。
食事を終えて住人たちもそれぞれの仕事に向かい、食堂に残ったのはラッドとクリフだった。熱いコーン茶を淹れてもらい、一息ついたところで話を聞くことにする。
「その、今朝ですが、使節団の随行員の皆様が、エール醸造所に入り込もうとしていまして、それで少し、護衛の兵士と揉めてしまいまして」
「昨日の夕飯に出したエールを寄越せと、職人たちに食ってかかったそうで……私はたまたま近くの厩舎で馬の世話をしていたので、騒ぎに気付いて駆けつけたのですが、職人の二人が殴られて怪我を負いました。幸い軽傷でしたが」
ラッドとクリフが間に入り、エールの樽を出すことでひとまず騒ぎは収まったらしい。
醸造所にいるのは、エールの管理ではなく醸造を行う職人たちだ。領主邸内で消費するエールは邸内の地下に保管されていて、醸造所では主に出荷用のエールの製造を行っている。
いきなり顔見知りでもない者たちがエールを寄越せと押しかけてきて、渡すような場所ではないのだ。
「エールが欲しいなら、それこそ使用人に頼めばいいのに、どうしてそんなことに」
「地方領主の領主邸内にある醸造所は、保管所も兼ねているのが殆どなので、そのつもりだったんでしょうね。エールは使用人の自家消費のためのものであることが一般的ですし」
エールはワインに比べれば一段下の、平民の飲み物だ。王都育ちのメルフィーナにも馴染みは薄いけれど、領主一家はワインを飲んで、エールは使用人たちの消費用に造るということらしい。
「それと、その場に居合わせたロドも突き飛ばされたようで。あの、こちらは尻もちをついただけで、怪我などはありませんでしたので!」
メルフィーナが顔を顰めたのに、ラッドが慌てて付け足す。
「ロドも、レナも、我慢しましたよ。メルフィーナ様に迷惑はかけられないって。本当に強い子たちです」
「そうね……あとでたくさん、褒めておくわ」
「職人たちも、エールを渡すのは拒否しましたが、客人に手は一切上げていません。拒否されたことに腹を立てた随行員の方が、一方的に暴力を振るっただけです」
「ええ、信じるわ」
頷くと、クリフが軽く手を挙げる。
「それと、その、言いにくいのですが……城館内のあちこちに汚物が放置されていまして……エンカー地方の住人は確実にトイレを使うので、ルクセンの方々であると思うのですが。あ、そちらはすでに洗浄してあります」
さすがにこの報告には、額に手を当てて考え込んでしまった。
トイレが普及してからこちら、エンカー地方では人糞がそのあたりに落ちているなどということはほとんどなくなった。外から移住してきた人々にも最初に徹底するのがトイレで用を足すことだし、来訪する商人たちにも何度も強く言い含めている。
「城館内に滞在する方々にも、ルーファス様がきちんと案内したはずですが、下の者には徹底されなかったようですね」
「もしくは、わざと徹底していないのかしら」
重たく息を吐いて、メルフィーナは温かいお茶を飲み、気持ちを静める。
「報告をありがとう、ラッド、クリフ。エールの件に関してはこちらからきちんと伝えておくわ。汚物に関しては……本当に、申し訳ないのだけれど、彼らが滞在するのは今日を入れてあと二日なの。都度の清掃を頼むことになるかもしれないのだけれど」
「勿論、そちらはお任せください。その、お伝えするかも迷ったのですが、黙っていて何かメルフィーナ様の困ることが起きてしまったらと思って」
「伝えてもらえて助かったわ。糞尿がかかると植木が枯れたりすることもあるから……今日が雨で、むしろよかったわ」
ラッドとクリフは、メルフィーナを気遣う様子を見せながら、仕事に戻っていった。
「いやぁ、来たばかりだっていうのに問題が起きますねえ」
「あとで職人たちに慰労をしなければならないわね。大怪我がなくて、本当によかったわ」
メルフィーナはそう言って、立ち上がる。執務室まで向かう通路で、大声で笑う声が聞こえてきたので窓を覗くと、ルクセンの随行員がジョッキを手に軒下で酒盛りをしているところだった。
「注意してまいりますか?」
「いいわ、どうせあと二日の事だもの。むしろどんどん飲ませて、潰れてくれれば他に問題も起こさないでしょうし」
マリーの言葉にそう返して、雨の窓の外を眺めながら、メルフィーナはぽつりと言った。
「マリーは、私が怒ってもいいと言ったけれど」
「はい」
「私、怒っているわ」
「……はい、メルフィーナ様」
夏の雨は、別れが来るのを惜しむように、日が落ちた後も静かに降り続けていた。