246.公爵家の家令と官僚制
応接室に入ると、立ったままメルフィーナの到着を待っていたらしい紳士がすっ、と優雅に一礼する。
髪は真っ白で、痩せているが背筋はしっかりと伸びた男性である。それなりの年齢のようだが老人というには動作がきびきびとしていて、若い頃はさぞ女性に焦がれられただろうと想像できる整った顔立ちをしていた。
「ルーファス・フォン・シュスタールと申します。二年ぶりにお目通りが叶い、幸甚の極みでございます、奥様」
「お久しぶりね。あなたのことは色々と噂を聞いています。とても有能で頼りになると」
公爵家に嫁入りをした際に家令として挨拶があったのと、結婚式の直後にアレクシスの背後にいた程度しか顔を合わせたことはなかった公爵家の家令・ルーファスについて、メルフィーナ自身は強い印象はなかったけれど、アレクシスやオーギュスト、マリーからも時々名前を聞くことがあった。
アレクシスが全幅の信頼を寄せ、当主が留守の際は文官のトップに立って公爵家を切り盛りし、かつ武術の心得もあるのだという。およそ欠点らしい話を聞いたことはない、公爵家の柱のひとつだと。
「私のような老骨をそのように評していただけるとは、なんとも面映ゆいものでございます。さて、私ごときを奥様に、どなたがどのようにお伝えしているのか……」
ちらり、と後ろにいるオーギュストに視線を向けると、背中越しにも焦った空気が伝わってくる。
「はは、少しご無沙汰しています、ルーファス様。相変わらずお元気そうで」
「オーギュスト卿がいない公爵家は火が消えたようで、私も恋しく思っておりましたが、奥様によくお仕えくださっているようで、安心しました。マリー様も、ご壮健そうで何よりでございます」
メルフィーナの隣に立つマリーに、ルーファスは優しげに目を細める。その一瞬で、孫を可愛がる祖父のような雰囲気になった。
「お久しぶりですルーファス様。私も、ルーファス様がお元気そうで安心しました」
「公爵家に立ち寄る際、家政婦長には会っているのに私には会いに来てくださらないので、寂しく思っておりましたよ」
「たまたまお会い出来なかっただけです。ルーファス様はお忙しいので、私のために時間を取ってもらうのは申し訳ないと思いましたし」
「そのような寂しいことを仰らないでください。私の年を考えると、もうあと何度、お会いできるか分からないのですから」
マリーは眉を落とし、少し困ったように微笑む。領主邸のメンバーとも基本的にはクールに接しているマリーが、こんな風に表情を変える相手は、そう多くはない。
兄であるアレクシスと甥のウィリアム、あとは窘めるという意味合いだけれど、オーギュストくらいのものだろう。
「立ち話もなんですし、座ってお話をしましょう。ルーファスも座ってください」
「家令の私が奥様を前に腰を下ろすなど、不敬にあたります」
「気にしなくていいわ。オーギュストは全然気にしてないし」
そう告げると、ルーファスがまたちらり、とオーギュストに視線を向ける。決して剣呑な雰囲気と言う訳ではないのに、妙に威圧感がある視線だ。
「いえっ、ルーファス様も書類仕事のために閣下の執務室に机を持っているでしょう。ああいう感じですよ!」
「護衛騎士に仕事を手伝わせている、悪い領主なの、私。それにあなたは公爵家の家令としてではなく、助っ人として来てくれたのでしょう? おもてなしくらいさせて欲しいわ」
おどけて言うと、ルーファスはそれでしたら、と頷いて応接室のソファに腰を下ろす。メルフィーナはその対面に、マリーはメルフィーナの隣に。
「オーギュストも座って。その方が話がしやすいから」
「ええと、では、ルーファス様、失礼します」
渋々というようにルーファスの隣に座ると、オーギュストはへらりと笑う。
「今更ですけど、俺とルーファス様が離れて、閣下は大丈夫なんでしょうか?」
「私など所詮は補佐の、更に代行のようなものですので、いないならいないでどうとでもなりますよ」
「いやあ、それは流石に謙遜が過ぎるかと」
「オーギュスト卿がお……公爵様の耳なら、ルーファス様は目のようなものだと、私も思います」
ルーファスはマリーに優しく微笑むと、光栄ですねえ、とゆったりとした口調で言った。
「失礼致します。お茶をお持ち致しました」
軽いノックの後、ドアが開き、ワゴンを押したロイドが入室してくる。紅茶を淹れ、丁寧な所作で配分していく。
初めての客の前で緊張が見られるけれど、ごゆっくりご歓談くださいとしっかりと礼をして、退室していった。
メルフィーナがまず紅茶に口を付け、ゆっくりとカップを傾けると、その他のメンバーも同じように熱い紅茶で口を潤す。
「――良い器ですな」
「ええ。初期に移住してくれた職人の作ってくれたものよ。最近は本当に腕が上がっているの」
「失礼しました。先ほどの若い従僕……執事見習いですかな?」
「ロイドね。ええ、執事見習いと、私の臨時の護衛も兼ねてくれているわ。と言っても、最近は文官の手伝いがメインになってしまっているのだけれど」
元々兵士見習いだったロイドは、アレクシスとオーギュストに何らかの「才能」があるだろうと見いだされ「文武」の「才能」があると判明した以降、驚くような速度で文字を覚え、文官の仕事を学び、今ではメルフィーナと文官をつなぐパイプ役として働いてくれている。
客人をもてなすのは基本的にメイドの仕事だけれど、賓客への対応となると男性使用人の方がランクが上という扱いになるため、今回は久しぶりに執事見習いに戻ってもらっていた。
「先ほどのお話の続きですが、現在公爵家ではある程度の権限を文官に持たせ、それぞれに業務を振り分け、階級を設定し、職務を文章に残して分業を行うという試みがなされています。閣下いわく「官僚制」というものだそうですが」
「ええ、その話は聞いているわ」
製糖事業は非常に大きな規模になり、冬場も工場が止まることはないため、全ての処理をアレクシス一人で行うのは事実上不可能である。
もはやこの世界の領地経営の枠組みでは収まらないのは始める前から明確なため、それに対応する新しい身分制度の導入を進めることになった。
領主が絶対的権限と最終意思決定権を持ち、独裁的に、強権的に振る舞うことが許されている反面、精々代官に割り当てられた土地の運用が認められている程度で、家臣には個々の決定権がほとんど与えられていなかった。
勤勉な領主ならばそれでもどうにかなるけれど、無能な領主では傀儡政治が起きやすい側面もあり、領地の規模が大きくなるほど不正の温床にもなりやすい。
オルドランド公爵家でも、大小細々とした不正が判明するたび苛烈に対応していたようだけれど、それでも不正は後を絶たなかったという。
そうした抜けを出来る限り埋めるために、優秀な補佐や家令が存在するわけだけれど、土地の規模に対して人的リソースが圧倒的に足りていない。
それはアレクシスの耳目として機能しているルーファスやオーギュストもよく分かっていて、けれど現状のシステムではある程度は仕方がないと切り捨てられる部分だった。
「ようやく閣下の構想の形が整ってきたところですので、私のように古いやり方しか知らない者は、少々留守にしているくらいのほうが良いのですよ」
「制度が大きく変わる時は何かと問題が起きやすいかと思うけど、トラブルなどは起きていないのかしら」
それに答えたのは隣に座るオーギュストだった。
「今のところ顕在化はしていませんが、文官の台頭に、騎士たちはあんまりいい顔はしませんね。これまで文官というのは、貴族出身の子息の中でも剣の才能が無い者がなる一段低い地位と見られていたので、反発は大きいでしょう」
「オーギュストは騎士として、そうは思わないの?」
「……ルーファス様と一日でも執務室に籠れば、文官を舐めて掛かるなどとてもとても。新兵の訓練に出ているほうが気が楽なくらいですね」
いつものように軽口を叩いた後、こほん、と小さく咳払いをして、オーギュストは話を変えた。
「それにしても、改めてこちらにルーファス様がいらしたのに驚きましたよ。てっきり、ルクセンの使者はルーファス様が出迎えに行くのだと思っていました」
「そちらは閣下が直々にお出ましになりましたよ。私の出発とは入れ違いになりましたが、今頃彼の国のお方は、少々居心地の悪い思いをしているでしょうなあ」
好々爺とした表情だが、それが皮肉であるのはメルフィーナにも分かった。
北部の支配者であるオルドランド家の頭を飛び越えて行った外交非礼を、公爵であるアレクシスの出迎えという最高位の礼節によって返されれば、貴族として、外交官としてまともな感覚があれば恥じ入らずにはいられないだろう。
また、メルフィーナが領主として治めるエンカー地方への来訪の出迎えにアレクシスが向かうのは、メルフィーナとアレクシスの関係が良好でなければ起きない事態だ。
外交官の一行は一旦公爵家に向かい、そこから人員を絞ってエンカー地方に訪れるわけだが、メルフィーナを地方の女領主としてでなく、北部の支配者、オルドランド家の女主人として認識させることにも一役買っている。
「……アレクシスには、感謝してもしきれないわね」
その上、彼の腹心であり公爵家の切り盛りもやってのける家令を補佐として派遣してくれたのだ。
官僚制を導入しているとはいえ、まだまだ運用を始めたばかりで、アレクシスの負担は重たいことは予想に難くない。
「私の立場で主を語るのは不敬にあたりますが、閣下は、この一年ほどでとても柔軟になったように思います。ウィリアム様との関係も良好で、酒を嗜むときは難しい表情ではなく、どことなく楽しそうな顔をされるようになりました。――奥様のお陰であると、私は思っております」
「私は何もしていないわ。ウィリアムとのことはアレクシスが頑張ったからだし、柔軟な考え方をするのも、元々よ、きっと。お酒は……まあそれは、少しはあるかもしれないわね」
家族関係が良くなったことの影響は大きいかもしれないけれど、マリーとの関係の改善もマリーとアレクシスの二人が努力して歩み寄った結果であり、メルフィーナが何をしたというわけでもない。
元々、お互いがお互いを想い合っているのに不器用な家族だった。それだけだ。
「……先代がご存命のうちに、奥様がオルドランド家に来てくださっていたら、もっと多くの方が、後悔なく生きておられたかもしれないと、そんなことを考えてしまいます」
「ああー分かります。俺も時々思いますよ、あと二十年早く、メルフィーナ様が来てくださっていたらなあって」
「二十年前って、私はまだ生まれていないわよ」
「それくらい、メルフィーナ様は得難い方だということですよ」
おどけて言うオーギュストに、隣のルーファスもしみじみとしたように頷く。
なんだか居心地が悪くてマリーに助けを求めるように視線を向けると、マリーは少し苦みが混じった微笑みを浮かべていた。
「でも、私は今のメルフィーナ様でよかったと思います。エンカー地方の人たちにとっても、きっとそうでしょう」
「ですね。それに、これからの人生の方がずっと長いわけですし」
「違いありませんな……」
オルドランド家で長く過ごした三人が、うんうんと頷き合っている。
紅茶を傾けながら、三人の物思いが終わるまで、静かにしておくことにした。
公爵家の過去の話も、いつか書ける機会があれば書きたいな、と思います。




