242.外交使節団と苦い思い
「外交官ですか……」
応接室のソファにちょこんと座ったセレーネは、困惑を滲ませたように言った。
「代表者はヘンリク・ド・ペルトネン伯爵で、使者が言うには、三週間後にはこちらに到着するそうよ」
三週間後、とセレーネは復唱し、そのまま頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません、姉様」
「セルレイネ殿下」
隣に控えていた彼の主治医のサイモンが咎めるように、けれどセレーネを案じるように、声をかける。
本来、外交官の正式な来訪ならばどれほど遅くとも三ヶ月ほど前には使者が来て、こちらの予定とすり合わせをし、実際に来訪するのに半年ほどの猶予をもたせるのが礼節である。
いきなりやってきた使者に三週間後に外交官が来訪すると告げられるなど、対等な国と国の間で起きるには十分に異常な事態だ。
隣国であるフランチェスカ王国とルクセン王国の関係は良好で、輸出入も盛んに行われている。地続きとはいえモルトルの森に街道が通せず海路での行き来しか出来ない現状では、三週間後というのは使者を送りだしたあと正式な外交団を編成し出発してエンカー地方まで到着する、ぎりぎりの時間というところだ。
つまり、最初からこちらの返事を吟味するつもりはないスケジュールということになる。
セレーネは羞恥と怒りを半々にしたように、白い頬を赤く染めていた。
「こんなに長く、姉様のお世話になったというのに、なぜその恩義を踏みにじるような真似をするのか」
「私も疑問ですな。ルクセン王ソレイエ陛下は、義理と礼節を重んじる方です。このようなやり方は……私の立場でこう言うのは不敬にあたりますが、陛下らしくない判断だと感じます」
「そうね、セレーネがエンカー地方に来てからも、決して義理を欠くようなやり方をされたことはなかったわ」
セレーネを預かっているのはあくまでオルドランド公爵家ということになっているので、正式な使節や予算の示達などは公爵家を通しているけれど、これまで一度も違和感を覚えるやり取りは生じていなかった。
セレーネは体が弱いとはいえ王位継承権第一位、王太子である。留学という名の療養ではあるものの、他国に住まう彼のことをルクセンは決して放置していたわけではない。
今回のやり方はあまりに乱暴だし、また、これまで接して来たルクセン王国の使節のやり方とは違い過ぎる。
――心当たりと言えば、一つしかないわよね。
空に紋章が浮き、世界が少しだけ変わったあの日から、そろそろひと月が過ぎようとしている。
アレクシスとは小まめに手紙のやりとりをしているけれど、いまだに王宮への伺候は命じられていない。
すでに社交シーズンに入っているので大貴族である公爵家が王都に滞在するのは何の問題もないけれど、普段寄り付かない王都に今年に限って出向けば、王宮内に間諜を仕込んでいると痛くもない腹を探られかねない。
だが冬の討伐がある以上、片道二週間かかる王都に向かうのにのんびりともしてはいられない。
あちらの出方をもう少し窺うか、こちらから打って出るかを模索している最中だったけれど、おそらくルクセンは動くことに決めたのだろう。
北部に来る前のセレーネは、フランチェスカ王国の王宮にいた。この一年半は黙認していたけれど、王太子の滞在先としてそろそろ王宮に居住の場を戻すように。その辺りが外交官の要求のはずだ。
改めて、セレーネをじっと見つめる。
白い繊細な色合いのふわふわとした髪に、色白の肌。少年特有のすらりと伸びた手足と、無垢な印象を強く訴えかける青い瞳。
すっかり見慣れて麻痺していたけれど、攻略対象の一人だけあって、セレーネは非常に整った顔立ちをしている。少年期と青年期の狭間の移ろう危うげな雰囲気も、強い庇護欲を刺激するものだ。
魔物は、北に行くほど強力になる。
北部の更に北に位置するルクセンの魔物は、非常に強力で厄介なものだと聞く。
一年半に亘り弟のように大事に想って来たセレーネを、聖女陥落に利用しようという思惑は不愉快ではあったけれど、ルクセン王国側としても綺麗ごとを言っていられる状況ではないのだろう。
――ゲームのセレーネも、国や側近から、マリアと結ばれるようにと言い含められていたのかしら。
病弱で儚いセレーネがマリアと過ごすうちに健康を取り戻し、まだマリアより低い背を精いっぱい背伸びして、僕と国に来てほしいと手を握って求愛するスチルは非常に健気で美しいものだったけれど、そんな思惑が裏にあったのだとしたら。
メルフィーナとしてだけでなく、ゲームの熱心なプレイヤーだった前世の自分としても、不愉快な気分だ。
「姉様?」
「いえ、とにかく、正式な来訪だというならばこちらから拒むのは難しいわ。セレーネは王太子だし、あちらには面会を要求する権利があるから」
礼を失したやり方ではあるけれど、こちらも同じような対応をするわけにはいかない。むしろ幾重にも礼節を守り、相手を刺激しないように努めるのが先決だろう。
「セレーネ、私は今回の件で、決してあなたに悪い感情を抱くことはないわ。外交官が何を言っても、どんな態度だったとしても、それは変わらない。約束するわ」
「……はい」
膝の上できゅっ、と拳を握り、セレーネは頷く。
「姉様、僕は非力で、臣下の信頼を得ているとは到底言い難い立場です。けれど、ルクセン王国の王太子として、姉様にお世話になった身として、決して姉様に無礼な真似はさせません」
いつもは控えめで、我を主張することはほとんどなく、穏やかなセレーネが、しっかりとそう言った。
その青い瞳には、強い意思が宿っている。
――やっぱり、男の子なのね。
「そうね。守りに入るより、強気で行きましょう」
正式な外交官と揉めることなど出来るわけもないけれど、こちらが一方的に下手に出るのは、やはり望ましい対応とは言い難い。
「はいっ!」
セレーネも気合が入ったように頷く。隣のサイモンは、苦笑いを浮かべつつ、メルフィーナに向かって頷いた。
* * *
外交官の来訪が決まってから、城館は俄かに騒がしくなった。
使者が告げるには、ペルトネン伯爵を筆頭外交官とした使節団は馬車十五台、随員は徒歩の兵士も合わせて百人を超えるという。
到底城館内の客室で賄える人数ではなく、期間が短いため建築予定を進めていた迎賓館も間に合わない。
セレーネをソアラソンヌに運び、公爵家で使節団を迎え入れる案も浮かんだけれど、それはオーギュストとマリーからストップがかかった。
「セルレイネ殿下を預かっている公爵家が、あちらの動きに合わせることはありません」
オーギュストはきっぱりと言い、マリーもそれに頷く。
「ましてセルレイネ殿下は王太子です、臣下の謁見に合わせて移動したとなると、それこそ権威の問題になります。それをオルドランド家が主導したという印象も、避けたほうがよいと思います」
「そうなのね……こんな状況は初めてだから、戸惑うわね」
「ルクセンからフランチェスカ王国に正式に来訪するには、エルバンを経由するしかありません。そちらで閣下に使節団を出迎えてもらい、まずは公爵家に迎え入れて、外交官とその警備を含む最少人数をエンカー地方に向かわせるという方法が無難だと思います」
思えば一昨年の冬、今よりずっと設備も建物も少なかったエンカー地方にセレーネが来ることが決まった時も、ギリギリまで人員の調整が行われたのを思い出す。
最終的にセレーネ本人と主治医のサイモン、メイドのユリアが領主邸に滞在し、残りはアレクシスが手配した北部の騎士と兵士がエンカー地方に駐留することに決まったけれど、それも本当に到着の寸前に決定したことだった。
エンカー地方とソアラソンヌも決して近い距離とは言えない。大急ぎでアレクシスに手紙を送り、エルバンでの使節団の出迎えを頼む。
それとは別個に、ソアラソンヌの商人から外交官が滞在するのにふさわしい調度品の買い付けを行うので紹介して欲しいという一文も添える。
「迎賓館が完成すればそれなりの内装にするつもりだったけれど、前倒しで賓客用の部屋を作らないとね」
「俺としては鶏小屋にでも寝てもらえばいい気がしますけど、そうもいかないのが惜しいところですね」
「それ、執務室の外で言っちゃ駄目よオーギュスト」
「勿論、心得ています」
とはいえ、思わず毒を吐きたくなることも理解できる。
メルフィーナにしても今回のことは困った話ではあるけれど、オーギュストはそもそもアレクシスの腹心である。セレーネの身柄を預かりその警備の責任を負っているのはオルドランド家だというのに、その頭を跳び越す形でメルフィーナに使者が来たことが愉快なわけもない。
準備と並行して、メルフィーナ自身がいつでも王都に出発できる状態にしておく必要もあるけれど、今回の外交官受け入れが終わらなければ身動きは取れない状況になってしまった。
もしアレクシスに王宮から伺候の指示が来れば、使節団の受け入れは家令が行い、メルフィーナは後から王都に向かうことになるかもしれない。
――いっそセレーネと一緒に王都に行こうかしら。
叶うわけもないことを考えて、苦笑が漏れる。
既婚者とはいえ女性を帯同して王宮に向かうなど、外交官たちが許すわけもない。
もしメルフィーナとセレーネが王宮で出会ったとしても、あくまで一線を引いた態度を要求してくるだろう。
笑い合い、共に過ごした時間など、無かったことにしろと言わんばかりに。
「……本当、鶏小屋に寝かせてやろうかしら」
「メルフィーナ様?」
「あの、お疲れですか? お茶を淹れましょうか?」
思わずぽつりと漏れた言葉で、秘書と護衛騎士をオロオロとさせてしまったことを反省して、アレクシスへの手紙の続きを書く。
勿論、使節団を丁重に扱ってもらいたいと、理性をもって記すことにした。




