241.種芋政治と使者の先触れ
収穫したジャガイモは木箱に入れ、冷暗所への保存が済んだと報告を受け、メルフィーナは満足して頷く。
ここから数か月保管し、八月半ばにはいよいよ村の圃場でのジャガイモの栽培を再開することになる。
「領主直轄の圃場でのトウモロコシの作付けは、去年と同じ面積で、八月に最初の収穫が終わったらその半分にジャガイモを植えることにするわ。それで冬の収穫が上手くいけば、領内に畑を持っている希望者に、春の種芋を販売することにしましょう」
ジャガイモは長年この世界の農民の口を養って来た代表的な作物である。
土地単位での収穫量は麦やトウモロコシより多く、育てやすく、腹持ちもいい上に、熱を通すだけで食べることが出来る。
熱に強いビタミン類も含まれていて、トウモロコシのようにそれだけを食べ続けることによるビタミン欠乏症を引き起こす心配もない、非常に優良な作物である。
「領内の、ということは、エンカー地方では、外部に種芋の販売はしないんですか?」
オーギュストに尋ねられて、メルフィーナは軽く首を横に振る。
「とりあえず今年いっぱいは、そのつもりはないわ。エンカー地方の農家だけでも行き渡るかどうかというところだもの。他領に渡せばうちにも、と来るのは目に見えているし、あそこはよくて何故こちらは駄目なんだって絡まれるのもね」
「ああ、まあ、怖いもの知らずというのはどこにでもいますもんね」
どういう意味だと思ったけれど、メルフィーナの代わりにマリーがオーギュストを睨んでくれたので、苦笑するにとどめておく。
「それに、この状況だと種芋ひとつが同じサイズの黄金くらいの価値があるでしょう? 北部もそうだけど、特に東部は深刻な状況が続いているというし」
「東部の大領主であるシュタルトバルト侯爵家を始めとして、各地の領主や代官も、それこそ剣を取ってでも種芋が欲しいところでしょうね」
ジャガイモ自体はとてもありふれた作物だけれど、今の時点で種芋は、無限に増える黄金の種のようなものだ。
資源を巡って抗争が起きるというのは、決して馬鹿馬鹿しい想像ではない。
「栽培が上手くいくようになっても、最初の一、二年は商人を使っての拡散も危ないと思うわ。この間の帝国とエールのようなことになりかねないもの」
「確かに、個人で扱うにはちょっと荷が重すぎますね」
商人は商品と物流に情報を乗せて商売をする人たちであり、大商人の権勢は決して貴族に劣るものではないけれど、それでも身分としてはあくまで平民である。
芋を扱っていると知られれば手持ちの全てを寄越せ、他のところに回すな、もっとたくさん仕入れろと無理を言う貴族は少なくはないだろう。
中にはその商人に対して乱暴な手段を取る貴族もいるかもしれない。希少すぎるものというのは、それはそれで扱いが難しいのだ。
「今回のように、国中の食糧事情に関わる大きな問題には、それこそ貴族が主導で動くくらいでないと却って大きな騒ぎの元になりかねないのですね」
「そう、それも、王家も簡単にくちばしを突っ込めないくらいの大貴族が望ましいわ」
この場合の「大貴族」がどの家を指すのかは明白で、マリーが少し緊張するように頷き、オーギュストは苦笑して、さすがですねと続ける。
「オルドランド家に種芋を提供して畑を作らせたのも、今の時期を見越していたんですね」
「いつかはこんな時が来るだろうと思っていただけよ。――そちらの畑は無事かしら?」
「はい、メルフィーナ様の指示通り、決まった人間だけに世話を任せて、出入りの際は着替えと靴替えを徹底しています。高い壁で囲って見張りを立て、外部からの侵入は徹底して排除したこともあり、枯死病が出ることもなく」
種芋の重要性は、アレクシスにもよく分かっている。個人としては抜けているところもあるけれど、政治家としては苛烈な人物である。
種芋のやり取りは、立派な肩書を名前に冠した文官たちが各地の領主に大袈裟な美辞麗句の皮を被った恩を着せて、分配する形になるはずだ。
その土地の平民の口を今後長い期間養うことになる、最初の種芋の価値は、はかりしれない。
そして貴族というものは、メンツを非常に重んじる。
病気が収まっても種芋がなければ新たな芋作を始めることは出来ない。その最初のひとつを分け与えられた恩は、返さなければどれほどの後ろ指を指されるか、解ったものではない。
正直、自分がその立場でなくてよかったとしみじみと思うほどである。
ついでに、その種芋を増やすための農場は、いずれ最初の甜菜を植えるのに転用されることになるだろう。
「しばらく公爵家の政務は大忙しでしょう。ルーファス様がまた泣きますね」
「仕事が大変で?」
「いえ、公爵家の繁栄を喜んで」
「だといいけれど」
「あとは、公爵家の名が上がりすぎるというのも少し心配ではありますね。王家から目を付けられないといいのですが」
「妬みなんか買わないに越したことはないものね」
初期封建制において王政が上手く機能するのは、大きな問題が起きていない時だけであり、不作による飢饉はもっとも分かりやすい乱世へのトリガーである。
そこに地方の大貴族の名前が上がれば、建前では功績を讃えても、本心は面白くないだろう。
「まあ、王家に目を付けられるのが怖くて領地経営なんて出来ないわよ」
これから北部が砂糖産業に乗り出せば、種芋の功績などかすんで見えるはずだ。
利益と発展を見込んで、それこそ甘い蜜に群がるように、資本と労働力が北部に集まってくることになる。
経済の中心地が北部に、そして領都ソアラソンヌに移ることすらありえる。王家が何かしらの強権を発動するとすれば、むしろその時だ。
「きっとアレクシスならなんとかするし、必要なら私も手を貸すわ」
「それは千人力……いや、十万の兵士の援軍くらい心強いですね」
「オーギュストは時々、すごく大袈裟ね」
笑っていると、控えめなノックの音が響く。マリーがさっとドアを開けるとロイドが立っていて、丁寧に礼をした。
「メルフィーナ様、ルクセン王国の外交官の謁見の申し入れに、使者が訪ねてきました。その、先触れとのことです」
「外交官からの? 公爵家からの申し出ということではないのね?」
「はい、騎士の服も北部の形式とは違っていましたので」
その言葉にメルフィーナは軽く首を傾ける。
セレーネをルクセン王国から預かっているのはフランチェスカ王国で、その中で治安が安定しているという理由から公爵家に委託された。メルフィーナはいわば孫請けの立場である。
ルクセンが正式に使者を出すならそれは公爵家であるはずだし、公爵家からメルフィーナに連絡が来るまで十分な期間を設定する。これまでも季節の体調の問い合わせなどはずっとそうだった。
「……使者に会います。応接室に通して、お茶を出しておいて」
「はい、すぐに」
ロイドはもう一度丁寧に礼をすると、執務室を立ち去っていった。
なんとなく、マリーとオーギュストと目配せをしあうけれど、全員がああ、これは何かしら厄介ごとになるのだろうなあと思っているのが伝わってくる。
「セレーネも同席させたほうがいいかしら」
「いえ、先触れですし、まずは領主であるメルフィーナ様が話を聞いて判断したほうがいいと思います。相手からセルレイネ殿下に目通りをと言われたら、殿下に確認して、明日以降に場を設けるのが順当かと」
「本来なら公爵夫人であるメルフィーナ様との謁見も、申し出から日を改めるか、数時間は待たせるのが通例ですが……」
高位貴族の一員である以上、謁見を申し出てすぐに目通りが叶うのは、権威付けという意味であまりよい行いとは言えない。
オーギュストとマリーが困惑を滲ませながら言うのに、メルフィーナもふう、と小さく息を吐く。
「相手は外交官の使者だもの。何の話か気になって仕事が手に付かないし、少ししたら行くわ」
「ですよね」
「お供いたします」
最初こそ半ば押し付けられたのに近かったけれど、この一年半、セレーネはすっかり領主邸に馴染み、メルフィーナとも姉と弟のような関係に納まっている。
出来れば大した用ではなく、国を離れて時間が経ってきたセレーネへのご機嫌伺い程度の内容であればいいと、今の時点ではそう祈ることしか出来なかった。