239.手紙と留守の準備
前世と比べるべくもなく、流通や移動の人的な負担が大きいこの世界で、最も情報の収集と伝達が早いのは、間違いなく商人である。
彼らは絶えず移動し、一時同じ場所に行き当たった仲間と情報を交換し、そしてまた移動する。彼らにとって正しい情報は信頼に直結するものなので、主観や怪しげな噂と情報は、切り離される傾向が比較的高いこともある。
メルフィーナもこの十日ほど、積極的に、けれど目立たないように、あの紋章が浮かび上がった日以降の人々の反応について商人たちから情報を集めてきた。
今のところ東部の人々が紋章に向かって進んでいるという話を聞くことはあっても、聖女が降臨したという話は耳に入ってこない。
王都からソアラソンヌまで約二週間。ソアラソンヌからエンカー地方まで、おおむね三日というところなのでまだこれからかもしれないと思う反面、聖女の存在が明らかになるには、もう少し時間が掛かるかもしれないというのがメルフィーナの予想だった。
――王家は、マリアを手放したくないと考えるのではないかしら。
執務机に着いて羽ペンにインクを付け、植物紙に丁寧に文字を記しながら、考える。
ハートの国のマリアというゲームのプレイヤーとしての視点は、あくまで乙女ゲームであり、様々な攻略対象と恋愛する過程を楽しむものだ。
けれどこちらの世界の視点から見れば、聖女と結ばれた者は巨大な力と権力といった、大きな利益を享受することになる。
それはこの世界の勢力図を一変する可能性すらある、大きなものだ。
現に地方貴族が聖女と結ばれたことで、初代フランチェスカ国王となった。ならば現フランチェスカ王家はまず、今回も王族と聖女が結ばれるように画策するはずだ。
それが駄目ならば王家に近しい貴族、そして他国に奪われるくらいならば、国内の有力貴族にと範囲が拡大していくのが順当な流れだと予想出来る。
そうした事情とはまた別に、地方の有力貴族に聖女の存在を隠し続けることは難しいはずだ。
フランチェスカ王国は中央部分に王領があり、東西南北に四つ星の魔物と呼ばれる非常に強力な魔物が出現する。その対策に当たっているのが、その土地を治める大貴族たちである。
魔物に対する強力な対抗者が現れたというのに、存在を秘匿すれば、地方貴族との軋轢になりかねない。
初期封建制が根強いこの世界では、王家は圧倒的権力者とは言えない存在だ。王家は常に地方の大貴族の力を削ぎたいと思っているし、大貴族の方はあわよくば王家に食い込むか、立場を逆転させたいと考えている。
その関係は、教会と神殿が戦争や私闘への強い抑止力となって安定しているけれど、聖女という強力なカードを独占しようとするならば、そのバランスは容易く崩れるだろう。
――どちらにしても、最も強力な魔物が出現する北部の大領主であるアレクシスは、そう遠からず王都に召集されることになる。
メルフィーナはアレクシスと、公爵夫人としての義務の一切の免除を書面で交わしている。本来ならば聖女が降臨しても、関わるつもりはなかった。
もしアレクシスルートに入るならば円満に離婚を受け入れ、エンカー地方でのんびりと領主として生きていければいい。その目論見が崩れてしまったけれど、幸い、今のメルフィーナとアレクシスとの関係は険悪なものではない。
社交ならば妻帯はごく自然なことだし、呼び出す側としても、魅力的な若い男性としてではなく妻帯者としてのアレクシスのほうが都合がいいのは予想できる。
そして、年齢の近い高貴な女性が、聖女と接触しやすいことも、ゲームの内容からして明らかだ。
手紙には王都から召集の連絡が来たら自分も帯同させてもらいたいと記し、丁寧に折りたたみ、封蝋で閉じる。
以前から聖女の降臨についてメルフィーナが予測していることを、アレクシスも察している気配があった。この手紙を受け取れば何がメルフィーナの目的か、彼にはすぐに判るはずだ。
執務机から立ち上がり、マリーにしっかりと手渡しする。
「マリー、お願い、この手紙をソアラソンヌまで運んで、確実にアレクシスに手渡して欲しいの」
マリーは驚いたように、目を瞠る。
これまでもマリーがメルフィーナの用事を済ませるべくソアラソンヌに向かってくれたことはあった。
けれどそれは、置きっぱなしのドレスや宝飾品の中から必要なものを選別して持ってきてもらうというようなものだ。こんなことを頼むのは初めてで、マリーも戸惑っているのが伝わってくる。
「他の誰より、マリーを頼りにしているわ。だから、お願い」
「……分かりました、メルフィーナ様。すぐに出発したほうがよろしいですか?」
「無理のない範囲で準備をしてくれればいいわ」
「では、午前中に支度をして午後になったら出ます。そうすれば、三日後の朝にはソアラソンヌに着くと思いますので」
マリーは何も聞かない。ただ、メルフィーナの気持ちに寄り添ってくれる。
「ありがとう。マリー」
マリーは軽く首を横に振ると、握った手を軽く握り返される。
「オーギュスト卿、メルフィーナ様のこと、よろしくお願いします」
「勿論、万事つつがなく、警護も仕事の補佐もさせていただきます」
軽い調子で応じたオーギュストに僅かに不安そうな様子を見せたものの、マリーは受け取った手紙を一度胸にぎゅっと押し当て、出発の支度のために退室の言葉を告げて執務室を出て行った。
執務室にオーギュストと二人になると、少し息が詰まるような沈黙が落ちる。
「――何も聞かないの? オーギュスト」
「閣下になんの手紙を書いたのか、とか、マリー様を直々に使者に立てるということは、相当なことが起きているのでは、とかそういうことですか? さすがに不敬だとマリー様に棒で叩かれそうなので、やめておきます」
相変わらず軽薄さすら感じるような口調であるけれど、オーギュストはとても勘のいい人だ。
これまでメルフィーナがして来たことに疑問がないわけではないだろうし、あの衝撃と空に浮いた紋章について何も言わないことを、むしろ不審に思っているだろう。
心当たりが無いならば、むしろ色々と仮説を立てて考えるメルフィーナを、彼だって知っている。
口をつぐむのは、それ相応の何かを知っていると、白状しているようなものだ。
「これまでメルフィーナ様はいつでも人のためになることをしてきましたし、身分の垣根なく人を大事にしているのも見てきたつもりです。閣下の害になるようなことをするとは思っていませんし、言えないならそれなりの理由があるんだろうと思えるくらいには、メルフィーナ様のこと、信頼というか、信用しているんですよ」
「そう……」
そんな自分が、領主邸の地下に爆弾を抱えていると知ったら、この騎士はどう思うだろうか。
それについてはアレクシスも共犯者のようなものだけれど、結局彼を巻き込んだのもメルフィーナだ。
唇を引き締めて、ため息が漏れそうになるのを、すんでのところでこらえる。
もう、始まってしまった。後ろを振り返り選択を後悔しても、仕方がない。
より良い未来にたどり着けるよう、選んだ道を進むだけだ。
「いつか、あなたにも全部話せる日が来ることを祈っているわ」
「来ますよ、きっと。それでメルフィーナ様が、実はこんな理由だったんだけれど、今から思えばそんなに大したことではなかったって言ってくれたら、最高ですね」
護衛騎士はそう言うと、んじゃ、さっそく橋の視察に行きますかといつものように軽妙な声で告げた。
何も聞かないし、探らない。ただ信じているという言葉は、信頼に他ならないだろう。
「ありがとう、オーギュスト」
だからメルフィーナは、詫びるのではなく、感謝を告げた。
「マリーが戻ってくるまでにバリバリ働かないとね! 視察の後は石切り現場も見て回って、デザインもそろそろ選ばないと。それからレンガ窯の視察をして、森の開拓の植林についてもそろそろ確認が必要だし、村の城壁の範囲に関してはまだ議論の余地が残っているから、フリッツとニドとも話し合わなきゃだわ」
「……あのう文官に書類仕事を分担した分、現場の仕事が増えていませんか?」
「頑張りましょう、ね?」
護衛騎士はハハハ、と空笑いし、仰せのままに、と正式な騎士の礼を執った。
おそらく、そう遠からず、それなりの期間エンカー地方を不在にすることになるだろう。
――それまでに、私が出来ることをしておかなければ。
不在の間も皆が困らないように。ちゃんと働いて、暮らしていけるように。
今の自分が出来ることは、そんなことくらいだった。