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捨てられ公爵夫人は、平穏な生活をお望みのようです  作者: カレヤタミエ


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238.世界の変化

 暗い中を道しるべのように、真っ白な道が走っていた。


 進む足取りは迷いなく、疑うこともなくただ前へ前へ向かう。それが自分の意思なのか、それとも見えざる手に背中を押されているのかすら、考えることもなく。


 ふと、名前を呼ばれた気がして振り返ろうとして、足を止める。

 自分を呼ぶ者などここにはいないはずだ。きっと気のせいだろうと思ったのに、その声は、どうしても無視することが出来なくて。


 ――メルフィーナ様

 ――メル様

 ――領主様

 ――姉様

 ――レディ

 ――伯母様

 ――メルフィーナ


 声が幾重にも重なって、本当に自分が呼ばれているのか、分からなくなってしまう。

 だって、自分をそんな風に呼んだ人なんて、これまでいなかった。


 親愛を、忠誠を、敬愛を、親愛を、信頼を込めて、呼ばれたことなんてなかったのに。


 ふと気が付けば、足元にまっすぐに延びていたはずの道は、ぐねぐねと歪み、いくつも分岐して、その先も細く枝分かれし、その全ての先端はぼやけて見えなくなってしまっていた。

 どうしよう、どの道を選べばいいのか、分からない。


 これまで迷ったことなんてなかったから。

 正しいと信じて……いいや、何かを信じる必要すらなく、ただ、進むだけでよかったから。


 分岐した全ての先に、きっと「私」がいる。

 私は、どの「私」になりたいのだろう。

 か細い道は、ちゃんと結末にたどり着いているのかすら分からない。


 大きな道を進むことが正解なのかも、もう分からない。


 ――ああ。

 ――怖い。


 ひとつ分岐をやり過ごすほど、一歩新しい道を選ぶほどに、選ばなかった道の「私」が消えていく気がして。


 何の迷いもなくただ真っすぐに標された道を進む方が、よかったのではないかと思えてしまって。


 胸が痛む。視界が涙で歪む。

 それでも、この道を進むと決めたのだ。

 いつか私が私にたどり着くために。

 たった一人の「私」になるために。






 ゆっくりと浮かび上がるように、その日の目覚めは訪れた。

 ベッドの上で寝返りをして、枕に頭をこすりつける。


 まだ眠気が残っているけれど、悪い気分ではなく、寝起きの気だるさは心地よかった。

 何か夢を見ていた気がする。嬉しいような、不安なような、怖いような、そして幸福なような。形のない夢の名残は、ちいさくあくびをすると、朝日に当たった朝露のように、静かに消えていった。


 ベッドから下りて、腕を上げてうん、と伸びをして、眠る前に結んだ髪を解く。さらさらと流れる金の髪を掻き上げて窓辺に向かうと、朝日が愛すべきエンカー地方を照らしていた。


 すう、と息を吸う。少し前より深く空気が入ってきて、肺がいっぱいに膨らむ感じがする。

 身支度を整えていると、とんとん、とドアをノックする音が響く。


「おはよう、マリー。いい朝ね」

「おはようございますメルフィーナ様」


 マリーは今日も綺麗だし、可愛い。ふわりと微笑むと真っ白な肌にそこだけ淡く色づいた唇が、優しい形になる。


 階下に下りるとすでに厨房と食堂はいつものメンバーでにぎわっていた。


「おはようございます、メルフィーナ様!」

「おはよう、皆今日も元気ね」


 領主邸のメンバーはいつも溌剌としているし、気心が知れている。けれどここ最近は、メルフィーナと同じように、特に調子がよさそうだった。


「夏になったからでしょうか、力がみなぎる感じがします」

「村の皆もそうですよね。冬の間に悪い風が入ってずっと調子が悪かった人も、ようやく回復してきたと言っていましたし」

「ただ、外から来る人足の数が少し減っていますね。こちらに来てくれた人が言うには、なんでも、王都に向かう者が多いのだとか」

「そうなのね。やっぱり、あの空に浮かんだ紋章に向かっているのかしら」


 ラッドとクリフは周辺の村に人足を募ったり、領内の事業やメルフィーナが手掛けている公共施設の建築の視察に向かい、外部の人間と言葉を交わす機会も多い。


 その彼らとの雑談は、貴重な情報収集でもある。


「そうみたいです。北部はそうでもないみたいですけど、商人たちが言うには、東部はとくにすごいらしくて」

「東部から来た商人が言うには、農村でも畑を放棄して王都に向かう人たちが、結構いるのだそうです」


 その言葉に頷きながら、きゅっ、と手を握る。

 空に巨大な紋章が現れて消えた日から、十日ほどが過ぎようとしている。


 あんな異様な現象が起きたというのに、エンカー地方の反応は落ち着いたものだった。皆いつも通り働いて、いつも通り親しい人たちと言葉を交わし、いつも通り帰宅して、食事をして、眠りにつく。


 それは、エンカー地方の住人の多くが衣食住が足りているというのが大きいだろう。差し迫った暮らしの危機が遠いからこそ、あれはなんだろう、不思議なことが起きたなと、それだけで済んでいる。


『苦しい時に唯一の救いだ、癒しだと何かを目の前に差し出されれば、それを欲しいと願うのも自然なことだ』


 かつてアレクシスは、メルフィーナにそう言ったことがある。そしてそれは、きっと正しいのだろう。


 東部は、フランチェスカ王国内でも特に飢饉の影響が大きな土地だ。平民の暮らし向きは、おそらくメルフィーナが想像するよりも悪い。

 そんな中に、神の奇蹟にも見える現象が起きたらどうなるか。


 現実には、畑を放棄し、ただ紋章の浮かんだ方角に進むなど、後先を考えない行いだ。

 けれど手に届くか分からない救いを、それでも求めずにいられなくなる。救いにただの一歩でも近づきたいと願ってしまう。


 きっと、そういうものなのだろう。


 あの紋章が現れてから、メルフィーナも自らの変化を感じていた。

 毎日深く眠れて、すっきりと目覚め、体が軽い。

 これまで意識していたよりずっと深く呼吸ができて、頭がすっきりとしている。

 これまで不具合を感じたことなんてなかったはずなのに、まるで体にまとわりついていた重たい膜が一枚、ぺろりと捲れたような、そんな心地だ。


 ハートの国のマリアは、ライトモードの場合、マリアが世界に降臨しただけでジャガイモの枯死病を退けることが出来た。

 もしかしたらその威光は人間の病魔に対しても多少の……そして無差別の効果がある可能性だってあるのかもしれない。


 ただ存在するだけで、世界を活性化させているのだとしたら。

 なるほど、誰だって、そんな存在が欲しくなるに決まっている。


 食堂に集う親しい人たちはみな顔色がよく、活気に満ちていた。

 大切な人たちをこんな風にしているのが聖女の存在なのだとしたら、彼女の力はまぎれもなく、本物だ。


「マリー、今日は朝食後、ラクレー川に新しく架ける橋の視察に向かう予定だったけれど、その前に、一度執務室に来てくれる?」

「はい、勿論です」


 マリーは穏やかに頷く。それから何気ない調子でなにかご用がありましたか? と尋ねた。


「手紙を書きたいの」


 それだけ言って、メルフィーナは準備が済んだ朝食の皿から、パンを手に取ってちぎり、口に入れる。


「――今日も美味しいわ、エド」


 そうして、いつもと変わらない、そしてこれまでと少し違う一日が、今日も始まるのだった。


本日から6部の始まりです。

引き続きお付き合いいただければ嬉しいです。

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捨てられ公爵夫人は、平穏な生活をお望みのようです@COMIC【連載中】

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