236.よく晴れた日
二回目の更新です。未読の方は一つ前からお読みください。
その日の午後からは、収穫のピークを迎えた大麦の畑の視察に向かう。
大麦は小麦以上に収穫時期がタイトなので、この時期は周辺の農家が総出で刈り入れを行い、助け合うのが通例になっていた。
エンカー地方は元々開拓地で、土地は集団の財産という意識はまだまだ根強いこともあるだろう。ここ最近は労働を免除されている子供たちも、お手伝いという形で多くが畑に入っているようだった。
「あ、メルフィーナ様だ!」
メルフィーナに真っ先に気づいた子供たちが駆け寄ってくる。大人たちも帽子を外して一礼していた。
「みんな、お疲れ様。麦茶と軽く摘めるものを持ってきたから、休憩に飲んでちょうだい。大麦の刈り入れはどうかしら?」
「いい天気が続いていますので、小麦の収穫までには畑を綺麗にするのも間に合いそうです」
「大麦の次に植えるトウモロコシの苗の準備も順調です」
その言葉に微笑んで頷く。何か問題は起きていないか、気になること、困ったことはないかと問いかけても、ひとまず喫緊の問題はなさそうだった。
刈り入れを行ってる圃場からは、麦の匂いと乾いた藁の匂いが混じった匂いがする。
どこか郷愁を誘うような、優しい風が吹いた。
「去年のこの時期は忙しくて中々視察も出来なかったけれど、執務を分散させたおかげでゆっくり回ることが出来るようになってよかったわ」
「大麦も、今年は粒が大きく豊作だそうで、きっとよいエールが造れますね」
マリーの言葉に頷くと、そういえば、とオーギュストが言う。
「先ほどの話では、現状エールの増産は難しいという話でしたが、醸造所自体を拡張することは考えていないんですか?」
「一時売れたからって、大規模に設備投資をするのは悪手よ。施設を大きくして人をたくさん雇ったら維持費も掛かるし、その維持費のために稼ぎ続けなければならなくなってしまうでしょう?」
「……稼ぎ続ける、というわけにはいかないんですよね、その感じだと」
「流行は一時のものよ。それがどれだけ規模が大きくても、永遠には続かないわ」
エールはこの世界では当たり前に飲まれているものだ。「美味」にお金を掛けられる人間は、現状、そう多いものではない。
今回の取り引きだって、実際にその量のエールが必要だったわけではなく、権威付けとしての量を要求されたことからも、それは分かる。
権力者とは、飽きっぽい子供のようなものだ。その需要をあてにしてエールの設備投資に資金をかけるなら、他の開発にかけたほうがいい。
「俺なんかだと、最大の利益のために多少無理をしたほうがいいと考えてしまうかもしれませんね。稼いだ金が消えるわけでもないでしょうし」
「お金は稼いで、使って、また稼いでをぐるぐる回して大きくしていくのよ。一時の利益はチャンスに見えるかもしれないけれど、このバランスを崩すトラブルの側面もあるの」
メルフィーナが個人で、一生安楽に暮らしていけるだけの財産を作るのが目的ならば、それでもいいかもしれない。
けれど末永くエンカー地方を富ませる事業と考えるならば、偏りはリスクを生む原因になりかねない。
リスクは分散するにこしたことはない。トウモロコシの乾燥用に造った小屋は秋以降は木材の乾燥小屋に、冬は吊るすタイプの食料の保存庫にと、ひとつの役割に縛ることをせずぐるぐると使いまわすようなものだ。
アレクシスとも、砂糖産業だけに依存しないようにと何度も話し合いを持った。
「オーギュストは商人ではなく騎士だもの。アントニオだって、設備を拡張してでも増産して欲しいとは言わなかったでしょう? そういうものよ」
「そんなものなんですね、なるほど」
マリーやオーギュストと圃場を回り、他愛ない話をしながら、ゆっくりと歩く。
風は乾いていて、心地よく、日差しは暖かい。
商売は順調で、領民は健やかで、全てが上手く行っている。
――今日は、とてもいい日だわ。
ふと、そんなことを思って、空を見上げた、その刹那だった。
ドン! と空が震え、衝撃にふらりと体が傾ぐ。
見上げた青空が一瞬、紫を帯びたような色になるのに、目を瞠る。
「メルフィーナ様!」
メルフィーナの隣にいたマリーがとっさにメルフィーナの両肩を掴み、オーギュストは腰を低くして、剣に手を掛ける。
けれどメルフィーナの目に映っていたのは、南西の方角、空から大地に突き刺さった光の紋章――前世では太陽十字と呼ばれていたものによく似た、巨大な光のエンブレムだった。
「あれは……」
メルフィーナが漏らした言葉にマリーとオーギュストもそちらに視線を向けて、それからぎょっと体を強張らせる。
ハートの国のマリアのオープニング、タイトルロゴに添えられていたマークだ。太陽十字の輪は方位を、クロスする十字はマリアの聖性を示しているのではないかと、前世の自分も考察をしたことがある。
「あれは、一体……」
「王都の方角ですね」
マリーとオーギュストも、呆然としたように南西の空を見上げている。
おそらくエンカー地方中の……いや、この世界のほとんどの人間が、同じようにあの紋章を見ているだろう。
あれがどれほど巨大なものなのか――何か人知を超えたことが起きているのだと、思いながら。
この世界に特別な存在が訪れたのだと、世界中に周知するように白く浮かび上がっていた紋章は、空に混じるように薄くなって、ふわりと消えた。
「――あれは、何だったんでしょう」
呆然としたようなマリーの言葉に、首を横に振る。
――とうとうこの日が来たのね。
前世の記憶を取り戻して二年と数ヶ月。
いつか来るこの日に怯え、恐れ、そして焦がれてきた。
今日は暖かく、少し汗ばむくらいの陽気だ。
空は晴れ渡り、まるで祝福されているようだった。
聖女が降臨するには、きっと、こんな日が相応しいだろう。
――マリア。
ここで第五部終了とさせていただきます。
本当は五部で世界の謎まで書くつもりだったのですが、長くなりそうなのと、ここまでで登場人物も増えたので人物・用語紹介3を挟んで六部を聖女編として書いていこうと思います。
もうしばらくお付き合いいただけると嬉しいです。