228.神殿の来訪と広い視野
蛇の絡みついた盃の印が入った真っ白な馬車から降りてきたのは、同じく白い法服に身を包んだ初老の女性だった。髪のほとんどは白くなっていて、眠たげに細められた目もとは素の表情らしく、メルフィーナに向かって丁寧に頭を下げる。
「エンカー地方領主様、ソアラソンヌ西区の神殿を任されております、バルバラと申します。今回はわたくし共の願いを聞き入れていただき、お礼申し上げます」
「はじめましてバルバラ様。オルドランド公爵家正室のメルフィーナ・フォン・オルドランドと申します。こちらこそお申し出をありがとうございます。エンカー地方の少女たちに代わり、感謝いたします。長い移動でお疲れでしょう、部屋を用意いたしましたので、お寛ぎ下さい」
「ありがとうございます。こちらは今回の祝福の補佐に入る神官のカタリナと、修道女のモニカです」
後ろに控えた二人の女性は感情を見せない表情で礼を執る。
カタリナは二十代の中頃、おそらくコーネリアと同じくらいの年頃だろう。金髪に金の瞳という中々神々しい色合いをした女性だ。
モニカは十四歳くらいだろうか。バルバラやカタリナとは形の違うフード付きのワンピースに近い服を着ていて、表情を取り繕っているものの、僅かに緊張が滲んでいるようだった。
「オーギュスト卿、お久しぶりでございます」
「神殿長、ご無沙汰しています。変わらずご壮健な様子で、安心いたしました」
「ほほ、もういい年ですわ。たまには神殿に顔を見せに来てくださいな」
「ソアラソンヌに戻りましたら是非。神官様も、お久しぶりです」
「冬の討伐以来ですわね、お元気そうでなによりです」
アレクシスの腹心であるオーギュストは二人とは面識があるらしい。いつもの少し人を食ったような様子は鳴りを潜め、騎士として丁寧に振る舞っている。
「今回はコーネリア様はいらしていないのですね。またお会いしたかったので、残念です」
「コーネリアは現在、東部に派遣されております。エンカー地方の素晴らしさと領主様のお人柄についてよく語っていたので、戻ってきたら、きっと残念に思うでしょうね」
領主邸の増築した客用の部屋にメルフィーナ自ら案内しがてら、コーネリアの近況を聞く。東部の四つ星の魔物は春に現れる。その討伐隊に参加しているのだという。
「東部の四つ星の魔物は、水の魔物でしたか……東部にも神殿はあるでしょうに、北部からも派遣があるのですね」
「神殿では仕事を選ぶことは許されませんが、討伐隊への参加は命に関わる可能性が高いので、志願が優先されるのです。このカタリナも、毎年北部の討伐に参加しているのですよ」
「北部の安寧のためですので、当然です」
「まあ、とても勇敢で、そして敬虔なのですね」
「恐れ入ります」
カタリナは丁寧に応じる。別館の客間はそれぞれ一部屋ずつ使ってもらうことにし、荷物はギルドで雇ったらしい人足たちがてきぱきと運び込んでいった。
以前教会のエミルが来た時には、こうした雑用のための人手も教会関係者に任せ、それなりの大人数だったけれど、今回神殿から派遣されたのはバルバラ、カタリナ、モニカの三人だけで、後は雇った部外者のようだ。これは、教会の方が権威主義であるということも関係しているかもしれない。
「明日の天幕の設営など、こちらからも人を出したほうがよろしいでしょうか?」
「いえ、彼らは神殿の仕事を請け負うことに慣れているので、お任せいただいて大丈夫です。滞在する三日の間、宿を手配していただいただけで十分です」
どうやら馴染みの人足ということらしい。頷いて、アンナに客室のある建物内の案内を任せ、夕飯は部屋に運ぶと確認して、メルフィーナは領主邸の本館に戻る。
「っはー、相変わらず、あの人たちの相手は緊張します」
本館に戻った途端肩をがっくりと落とし、大きくため息を吐いたオーギュストに苦笑を漏らす。
「あら、もう立派な騎士はおしまい?」
「俺はいつでも立派な騎士のつもりですが、教会や神殿の関係者の相手は疲れますね。何しろあの人たち、二十四時間常に真面目ですから」
「確かにオーギュストとは相性が悪そうね。でも、コーネリア様のような例外もいるのではないかしら」
「あの方も、まあ、変わった人ではありましたね。神官というのは節制と清貧と粗食を誓っているので」
「コーネリア様にはきっと、どれも辛いわね」
コーネリアは美味しいものをおかわりするのが大好きだったし、メルフィーナのドレスを借りれば華やかに喜んでいた。粗食に関しては……きっとこれが、一番辛いだろう。
よく志願して討伐に出たり、日常も治療院で仕事をしたりしていると言っていたので、今回は間が悪かったようだ。
「東の四つ星の魔物って、水の魔物よね?」
「魚型の魔物で、アクウァですね。プルイーナのようにボスがいてその眷属のサスーリカがいるというのとは違って、全てが同じ形をした個体の群れです。大体今頃からもう少し暖かくなる頃合いに湖に現れるそうですが、放っておくとその湖を水源にしている河川が魔力で汚染されるので、東部の騎士団と地元の漁師が共同で討伐にあたるそうですよ」
メルフィーナも実家にいた頃の教育で、魚型の群れをつくる魔物であるという知識だけはある。
「魚型の魔物って、その湖を干上がらせてしまうと、どうなるのかしら?」
「相変わらず凄いことを考えますね、メルフィーナ様。……アクウァが出る湖は東部最大の水源でもあるはずなので、干上がらせるというのは現実的ではないですが、アクウァの討伐自体、生餌を放り込んで土魔法で作った堀に追い立てて水のない場所まで誘導して火を放つというやり方なので、有効かもしれませんね」
生餌に食いつくということは、アクウァが出現した時点で生物相の変化と魔力汚染の両方により、湖の生態系は大きく損なわれている可能性が高い。
「不謹慎だけれど、アクウァがモルトル湖に出る魔物でなくてよかったわ。モルトル湖が魔力汚染されたら、この圃場もすべて台無しになっていた可能性が高いもの」
執務室に到着し、窓の外を眺めながら、しみじみと漏らす。
緩やかに流れる大きな二つの川と、その川沿いに建ついくつもの風車。整然と並ぶ新しい家と街並み、そして活気のある人々の行き交う村。
こうしてエンカー地方が平和でいられるのは、北部の四つ星の魔物であるプルイーナが出現する場所はここから遠く、また、代々オルドランド家が犠牲を払いながらその討伐を受け持ってくれているからだ。
「ねえオーギュスト、魔物の討伐で、何か困っていることはないかしら? 私に出来ることがあれば、考えてみたいの」
「そうですね……正直、去年の冬の討伐はこれまででは考えられなかったほどスムーズでしたし、すでに北部の騎士団はメルフィーナ様に大恩があると思いますが」
少し驚いた顔をしたあと、オーギュストは僅かに苦笑する。
「天幕用の暖炉で待機中も暖かく過ごせましたし、花押入りのエールは奪い合いになるほど美味で、討伐の恐怖を和らげることが出来ました。あの罠と作戦立案に至っては、死者をひとりも出すことなく討伐を終えることが出来たんですよ。毎年、討伐の祝賀会前に死者を弔うんですけど、それが無かったことで、みんな箍が外れたみたいに盛り上がりましたね。まあ、強いて言うなら、あと十年くらい早くあの罠が開発されていればなぁーって考えちゃうくらいですかね。そうしたら、クリストフ様も生きていらしたかもしれません」
「それは、私にはどうしようも出来ないわね。十年前なんて、私、まだ八歳だもの」
「ええ、だから、メルフィーナ様はもう十分北部のために力を尽くしてくれたって俺は思いますよ。メルフィーナ様にとやかく言う奴は、閣下と俺で黙らせようって思うくらいは」
「それはとても力強いわね」
あの罠――トラバサミを表に出すことを躊躇していたことが、ほんの少し後ろめたかったけれど、それほど役に立ったなら、きっとよかったのだろう。
公爵家と多くの事業を共同で行い、商人の出入りが頻繁になって輸出を積極的に行うようになってから、陸の孤島だったエンカー地方はどんどん「外」とつながるようになってきた。
自分自身、最初の一年目の、自分とその周囲の人々を守りたいという気持ちが、外へと向かうようになってきたことも自覚している。
「私も北部で生きる人間の一人として、協力できることはしていきたいわ。お金に関しては、アレクシスのほうがずっとお金持ちでしょうけど、なにかあったらこっそり教えてちょうだい。あの人、二言目には君には関係ないって言いそうだから」
「なんでも自分一人で抱え込もうとするのは、閣下の悪い癖ですね。もう大分、メルフィーナ様が頼れる相手だとは思っていると思いますけど、お任せください。閣下が黙っていろといってもこっそりお伝えします」
「お仕置き棒で叩かれない程度でいいわ」
「ふっ……」
マリーが肩を揺らし、不意に笑ってしまったことを照れるように、白い頬をほんのり赤らめる。
「その時は、メルフィーナ様の後ろに逃げ込ませてもらいます」
「そうね、あんまり分からず屋なことを言うようなら、三人がかりでお説教してあげましょう」
軽く笑い合い、執務机に腰を下ろす。
少しずつ、この地に馴染んで、そして広い視野で物を見ることが出来るようになるにつれ、大切なものも増えていくのを感じる。
そうやって変わっていくことを、少しも嫌だとは思わなかった。
生ハム+果物、個人的には柿とか桃の組み合わせも好きです。メロンも美味しいです。
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